EX.2-2 猫に経

※多この先頭飼育崩壊現場の描写(動物の死など)が含まれます。 苦手な方はご注意ください。



 翌日。世田谷線の山下やました駅に二人は降り立った。踏切の警報機が鳴る。短い二両編成の車両を見送り、高級車が並ぶガレージや、手入れされた松の木がある邸宅を通り抜けていく。


「あ、栄ちょっとストップ。公園寄っていい?」


「は?なんで?煙草休憩なら向こうついてからにしてくれよ」


「理由があんだよ」


 紫苑は子どもたちが遊んでいる公園の中へと走っていく。程なくして戻ってきた。


「え、なに……?」


「後で使うんだ。行こうぜ」


 紫苑はそう言って歩き出した。栄は首を捻りながら、その後をついていく。


「なんか、迷路みたいだな。俺地図アプリないと駅まで帰れねぇよ」


「だから今日は電車で来たんだ。こんな狭い道、俺のBMWじゃ通れねぇ。板金七万コースどころじゃない。最低でも二十万はかかる。あと、これも理由だ」


 栄はすっとコインパーキングの看板を指差した。二十分四百円。


「二十分で片道の電車代が飛ぶ」


「セコ……」


 軽トラがやっと通れそうな細い道の先にその家はあった。昭和の立派な日本家屋だ。だが、庭の植木は伸び放題で、二階の雨戸は閉め切られ、異様な湿気を帯びて黒ずんでいる。


「……うわ。なんか変なニオイする」


 紫苑が鼻をすんすんと鳴らした。


「お前、今日はその鼻を使うなよ」


 栄はカバンから物々しい『防毒マスク』を二つ取り出した。ホームセンターで売っている簡易的なものではない。塗装業者が使うような、カートリッジ付きの本格的なものだ。


「え、なにこれ。大げさじゃない?」


「いいから着けろ。鼻壊すぞ」


 栄は有無を言わさず紫苑にマスクを押し付けると、門の前に立っていた人物に声をかけた。


「……お世話になっております。天国不動産の天國です」


 そこにいたのは、防護服に身を包んだ保健所の職員と、憔悴しきった様子の若い男性――おそらく相続人だろう。


「天國社長……!来てくださったんですね」


 職員が救世主を見るような目で駆け寄ってくる。


「いいですね?中の生体と死体の搬出はそっち持ち。その後の建物の解体と、土地の権利の話は後ほど行います」


「は、はい。もちろんです!ハンコも書類も用意してきました」


 栄は頷き、紫苑に目配せをした。マスクを装着する。息苦しい。栄が鍵穴に預かった鍵を差し込み、重たい玄関ドアを回した。


「開けるぞ」


 ドアが開いた瞬間、焼け付くような刺激が体中に突き刺すように襲ってきた。


「――ッ!?」


 紫苑は思わず後ずさり、目を閉じた。臭いではない。これは痛みだ。マスク越しでも目が刺されるように痛む。皮膚がピリつくほどのアンモニアの濃度。そして何より――


「……なんだよ、これ……ッ!」


 暗い玄関の奥。蝿が飛び回り、床上に蛆が這い、鼠の白骨死体が転がっている。廊下の闇の中から、無数の金色の光がこちらを見ていた。


「ニャァ……」

「アァ……」


 弱々しくも不気味な鳴き声の大合唱が響く。水分を吸ってボロボロの段ボール箱の山に、糞尿の層が重なっている。その上を、骨と皮に近い痩せ弱った猫たちが、幽霊のように這い回っていた。


「……ひでぇな」


 栄の冷静な声が、マスク越しにくぐもって聞こえた。


「床板がブヨブヨで腐ってやがるな。これじゃあ査定どころじゃない。床下に落ちそうだ。二階見れねぇな、こりゃ」


「俺……無理……先に行けない」


 紫苑の声はほとんど泣いていた。


「こんな……地獄だよ……」


 ナァ、と紫苑の足元で弱々しい声がした。半泣きになりながら、紫苑はその三毛猫の子猫を拾い上げた。まるで小石のように軽い。抱き上げる手が震える。


「こんなことできるやつ……人間じゃねぇよ……」


「少しずつ、増えていって……手が付けられなくなったんだろうな。早めに去勢でもしておけば違ったんだろうが……」


「天國社長のおっしゃるとおりです。最初に野良猫を家に招き入れた時点で去勢避妊手術をするべきでした。近親交配も進んでいたのでしょうね。ほら、この猫は眼がありません」


 保健所の職員が持ち上げた猫を見て、紫苑は悲壮な顔をして目を逸らした。


「……ッ」


「どいてください!選別トリアージを急ぎます!」


 ドタドタと足音を立てて、ケージや捕獲網を持った数人の男女が雪崩れ込んできた。

 保健所が要請した、地元の保護猫団体のメンバーたちだ。


「ひぇ……なに!?」


 紫苑は思わず壁際に身を寄せた。


「ちょっと、そこのスーツの人!あなたがこの家の関係者!?」


 リーダー格の女性が、栄に詰め寄った。


「どうしてここまで放置したの!猫たちのこの惨状が見えないの!?」


 彼女は栄をこの屋敷の親族か何かだと勘違いしているようだった。


「……私はただの不動産屋です。親族はあっち、外にいる男だ。私はここを買い取って処分しに来ただけですよ」


 栄は淡々と答えた。


「処分ですって!?じゃあ、この子たちを邪魔なゴミとして捨てに来たってわけ!?」


「――いい加減にしてください!」


 栄の声が低く響き、女性がビクリと震えた。


「私がここを買い取らなければ、こいつらは共食いを始めるところだったんだぞ!こんな不衛生な場所で!」


 女性はぐっと言葉を飲み込み、悔しそうに、けれど決意を固めて踵を返した。


「……行くわよ!みんな残らず保護する!!」


 プロのボランティアたちが手際よく、だが悲痛な顔をしながら痩せ細った猫たちを保護していく。


「……よかったな、お前ら。安全なとこに行けるぞ」


 紫苑は、腕の中の子猫をそっと保護団体の女性に渡した。もう紫苑は泣いていなかった。


「大丈夫だ。俺が救いになってやる。もう、哀しい思いはさせねぇよ。栄、水あんだろ。ペットボトルの。それよこせ」


「え?水飲むなら外に出たほうが……」


 そう言いながらペットボトルを手渡す。ジャラッ、と数珠の音が響いた。今日は独鈷杵は使わないらしい。


「甘露だ!口開けろ!」


 紫苑はペットボトルの水を、部屋中に撒き散らした。


「オン・ボボリ・ガリ・タリ・タタ・アーガターヤ!」


 腐った床板に水は染み込むことなく留まって、あたりを濡らした。栄は一瞬資産価値を考えたが、ゼロなのだから何をしようが関係ない。

 紫苑にしかできない除霊。しかも今回は人間相手ではない。栄は黙って見守っていた。

 紫苑には見えているのだろう。大勢の猫が小さな舌を出して懸命に水を飲んでいるのだ。


「飲めたか?それじゃあ腹いっぱい食わせてやるから、安心しな!」


 紫苑はパーカーのポケットから小さな袋を取り出し、中身をぱらぱらと撒いた。


「オン・アミリト・ドハンバ・ウン・ハッタ!!」


 お経と共に、廊下にひしめいていた金色の目たちが、砂に吸い込まれるように消えていく。


「……いっぱいメシ食って、あったかい場所で好きなだけ昼寝して……幸せになれよ」


 紫苑の声はどこまでも優しかった。


「今、何をしたんだ?」


「あいつらは死ぬほど……いや、死んでんのか、喉が渇いて、飢えてた。だから開咽喉真言かいえんこうしんごんで喉を開いてやったのさ」


 紫苑は空のペットボトルを振ってみせた。


「それから馬頭観音ばとうかんのんの真言だ。馬頭観音っていうのは、いつも怒ってる。なんでかって畜生道の担当だからだよ。本能で生きてる動物を制御するのに優しいだけじゃダメなんだ。力づくでも救ってやる、っていう強い意志があるんだよ。怒ってるけど、その分慈悲深いんだ」


「力づくで……救う」


 それは栄が紫苑を実家から引き剥がし、救済したことに似ていた。


「さっきなにか撒いてただろ。あれは?」


加持土砂かじどしゃって言ってな、光明真言こうみょうしんごんで清めた砂だよ。本当は砂洗ったりとかもう少しステップ踏むんだけど、まぁ安いキャットフードと高級フードの違いだよ。腹減ってるなら目一杯食って、成仏してもらおうって寸法さ」


 じゃらじゃらと数珠を鳴らしながら紫苑は言った。


「もしかしてさっき公園に寄ったのは……」


「そういうこと。野良猫だって公園に来るだろ?ここで死んだ奴らも、公園の砂なら安心するかと思ってさ」


「あの……こちらの作業終わりましたので、団体さん引き上げるそうです」


「え?ちょ、ちょっと待って!」


 紫苑は走り出した。玄関を出た場所にいた女性に、紫苑は頭を下げていた。マスクを乱暴に外して投げ捨てる。ようやく息がしやすくなっていた。


「あの!ありがとうございました。猫……助けてくれて」


 保護団体の女性は目を丸くして、それから豪快に笑った。


「いいのよ!これが私たちの仕事なんだから」


「さっきの……三毛猫。会いに行ってもいいですか」


 紫苑の足元にすり寄ってきた目の開いていない弱々しい猫だ。


「もちろんよ。これから病院に連れて行くけど……これ、連絡先。いつでもいらっしゃいね」


 紫苑は名刺を受け取った。その名刺を大事そうに手に取ると、黙ってもう一度頭を下げた。

 その背中を見ながら、栄はふっと笑った。


「あいつ……俺の名刺は突き返したくせに」


「では、我々もこれで失礼します。建物と土地のご相談は、相続人様と直接お話してください」


「あぁ、どうもご苦労さまでした」


 保健所職員は栄にお辞儀をすると、疲れたような足取りで帰っていった。


「……それでは」


 栄は外で缶コーヒーを飲みながらスマホをいじっていた相続人の男に笑いかけた。


「契約の話をいたしましょう」

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