《あしたくる》──アキラと四人の子どもたち──
風
第一章 守れなかった日
その日は、あまりにも「ふつう」だった。
日直の字を書き終えたアキラは、黒板に残った白い粉を指で払いつつ、壁の時計を見上げた。あと数分で一年生の教室へ顔を出す時間――自分の班の四人がきちんとランドセルを椅子に掛けられたか、朝の会で先生の話を聞けるか、泣いている子はいないか。
面倒ごとが多い役目ではあったが、班長という肩書きはアキラにとって嫌いではなかった。
自分が見ていない間に、あの四人が困っていたら――そう思うと、胸の奥が落ち着かなくなるのだ。
「アキラ、今日も一年のとこ?」
隣の席の友達が机を蹴りながら声をかける。
「うん」
短く返して肩ひもを掛け直した、その瞬間だった。
世界が、裏返った。
耳の奥を誰かに強く押し込まれたように、すべての音が消えた。
次に来たのは、地面が生き物のように跳ね上がる衝撃。机が飛び、椅子が滑り、教室がぐにゃりとゆがむ。天井の蛍光灯が外れ、砕けたガラスが白い閃光を散らして落ちてくる。
「あぶな——」
言葉の残りを吐き出すより先に、アキラの体は床へ叩きつけられた。肺の中の空気が一気に押し出され、しばし呼吸を思い出せない。転がる机の脚が視界を横切った。
遅れて耳が戻る。
悲鳴、泣き声、崩落音。
それらは校舎の内部に収まらず、もっと遠く、世界そのものが軋んでいるように響いた。
「……なんだよ、これ……」
揺れる視界をこらえながら窓の方を見る。
そこにあるべき景色は、消えていた。
校庭も、グラウンドも、校門も、住宅街も。
そのすべての代わりに、赤茶けた砂だけが広がっている。
ゆるやかな砂丘がどこまでも続き、太陽は異様に近い。空気までも熱を帯び、空が燃えるようだった。
足が震えた。地震かどうかすら判別できない。
「おい! みんな無事か!」
担任が、額から血を流しながら机をどけ、生徒を助け起こしている。
アキラは反射的に自分の列を見渡した。
泣く子、鼻血の子、呆然と立ち尽くす子。
それでも――生きている。
——一年生。
胸の内側で言葉が跳ねた。アキラはランドセルを持つ余裕もなく、崩れかけた廊下へと飛び出す。
廊下は斜めに歪み、割れたガラスと本とプリントが散乱していた。砂ぼこりが吹き込み、校庭であった場所はやはり砂漠になっている。
一年生の教室へ向かう途中、先生たちが右往左往し、誰もが「落ち着いて!」と叫んでいたが、落ち着けている人間などひとりもいなかった。
一年二組の扉を開くと、混乱はさらに濃くなっていた。
「おかあさんは!?」「いたいよ!」「ここどこなの!?」
高い声が飛び交い、担任は子どもたちをまとめようとしていたが、その目は恐怖を隠しきれていない。
「アキラくん!?」
先生が驚いた声を上げる。
「大丈夫ですか、先生」
自分でも信じられないほど、声は落ち着いていた。
教室を見渡す。
そこに、いつもの四人がいた。
シズカ。
クルミ。
ルイ。
タイチ。
泣きそうな顔でこちらを見つめ、同時に叫んだ。
「アキラせんせい……!」
その声に、アキラの心がようやく現実へ戻る。
「……遅くなって、ごめんな」
揺れは止んでいたが、世界は戻っていない。
窓の外には赤い砂漠とひび割れた大地だけが広がっていた。
◆◆◆
全校生徒はなんとか体育館へ集められた。
全員ではない。崩れて入れない教室もあり、途中の階段は裂けていた。
それでも先生たちは「大丈夫だ」を繰り返した。
誰に向けた言葉か分からないほど、その声は不安に濁っていた。
体育館の床にクラスごとに座り、一年生は泣き止まない。
アキラの四人は彼の袖や裾を放そうとしなかった。
シズカは声も出せず、
クルミは震える唇をかみしめ、
ルイは状況を理解しようと目を動かし続け、
タイチは泣きと怒りを往復していた。
走り回る先生の一人がアキラに声をかける。
「アキラくんも、ここに座っててね」
「……はい」
返事をしながら、アキラは大人たちの表情を見た。
どの顔にも、張りついたような作り物の笑顔。
その奥に沈んだ不安は、隠しようもなかった。
「水は?」「連絡は?」「救助は?」
切実な言葉が、聞こえない声で飛び交う。
やがて学校で一番えらい先生が、簡易の台に立ち、マイクなしで声を張った。
「みんな、落ち着いてください!」
一瞬だけざわめきが止まる。
「えー……今、何が起きているのか、先生たちもまだ分かっていません。ですが——」
そこで言葉が詰まり、アキラは思った。
分かってないなら、何を言えるというんだ。
「ですが、先生たちは、みんなを必ず守ります。ここにいれば安全です。だから勝手に外には——」
そのとき、体育館の扉が外側から強く叩かれた。
全員の視線が向く。
「先生、誰か来たんじゃ——」
続きは言えなかった。
扉が、内側へ弾け飛んだからだ。
“それ”が入ってきた。
人の形をしているようで、していない。
溶けかけた肉のような表面は砂の色と混ざり、腕らしきものが伸びたり縮んだりしている。その先から黒い液体が滴り、床に染みをつくった。
悲鳴が上がるより早く、それは最前列の先生へ絡みついた。
腕も足も瞬く間に覆い尽くされ、先生の顔だけがこちらを向いていた。
大きく見開かれた目。
声を出そうとしても、口は黒い液体と肉の束で塞がれ、何も言えない。
次の瞬間、先生は扉の向こうへ引きずり消えた。
同じものが、いくつも体育館へ流れ込む。
悲鳴が爆発した。
「逃げろ!」
誰の声か分からない。
アキラは四人を抱き寄せた。
「離れるな!」
シズカが肩にしがみつき、タイチが袖を引き、クルミとルイが腕に掴まる。
大人たちは必死に立ち向かうが、掴まれた者はそのまま床を引きずられていった。
叫びも助けも、届かない。
アキラはただ走った。
四人を抱えるようにし、人の隙間を縫って進む。
誰かの手が袖を掴んだ気がした。
振り返れない。
——守れない。
胸の奥で微かな声がした。
それが自分の声なのかも、もう分からない。
非常口を抜けた先は、見慣れた校舎ではなかった。
崩れたコンクリートの段差、その向こうに広がる赤い砂漠。
太陽が容赦なく照りつけ、風が熱を運ぶ。
背後からは、まだ悲鳴と何かが捕まる音が聞こえていた。
アキラの足は止まらない。
四人の小さな体の重みだけが、この世界で唯一確かなもののようだった。
息が切れ、喉が焼ける。
それでも走る。
「アキラせんせい……!」
シズカの声が震えて、泣き声にも笑い声にも聞こえた。
「大丈夫……大丈夫だから……!」
何が大丈夫なのか、自分でも分からない。
言葉を紡いでいないと、崩れてしまいそうだった。
振り返れない。
何人の大人が、友達が、あの体育館に残されたのか。
考え始めれば、立っていられなくなる。
世界が壊れた日のことを、アキラは一生忘れない。
そして――彼はこの日をこう呼ぶようになる。
守れなかった日。
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