第2話 腐っても鯛

「なんてこと……」

 ミシャが口元を押さえ、立ち尽くす。

 白煙の向こう、破壊されたポッドの残骸の中で、この船の神々は、もはや原型を留めてはいなかった。


「うっ……」

 ミシャが膝をつき、胃の内容物を床にぶちまけた。


 原因はデブリの貫通による冷却パイプの破断。

 超低温のガス爆発と、それに続く急激な減圧。ポッドの強化ガラスは飴細工のように砕け散り、神々の肉体を容赦なく引き裂いていた。


 ゲイルは表情筋を硬直させ、惨状の中心へと歩を進めた。彼が手にしているのは医療キットではなく、ポータブル・バイオセンサーだ。

 ゲイルはまず、右側の残骸にセンサーをかざした。そこは、かつて「エレナ」と呼ばれていた女性の頭部があったはずの場所だ。

「個体識別名、エレナ・ヴァンダービルト。……バイタル反応なし。脳幹損傷、心停止から推定4分経過。蘇生見込み、ゼロ」

 冷徹な診断。美しい顔立ちは爆発や破片によって原形を留めていない。彼女はただの動かぬ肉塊と化していた。


「次だ。個体識別名、アーサー・ヴァンダービルト」

 ゲイルは、隣のポッドの残骸へと視線を移した。

 そこには、かろうじて人の形をしたものが痙攣していた。

「心拍数、著しく上昇。血圧低下、危険域。至急治療しなければ出血性ショックで死に至る」

 爆発の衝撃で、両手両足が関節の逆方向へとねじ曲がり、一部は切断されている。だが、頭部と胴体は無事だった。


「生きてるけど、手足が全部……」

 ミシャが震える声で呟いた。


「止血だ」

 ゲイルは即座に止血帯を取り出し、アーサーの残された二の腕と太腿の付け根を締め上げた。

「オートドクターを呼び出せ! 四肢の切断手術を行う」

「切断!? 待ってください、そんな権限私たちには――」

「あるわけないだろう!」


 ゲイルは血まみれの手でコンソールを叩き、緊急コードを打ち込んだ。

「この男はただの人間じゃない。この船の心臓だ。こいつのバイタルサインが消失した瞬間、メインコンピューターは『船団全滅』と判断し、全システムをシャットダウンする。俺たちの居住区への酸素供給も、水も、全て止まるんだ。彼を生かす。それが俺たちが今日を生き延びる唯一の条件だ」

 オートドクターのアームが天井から降りてくる。レーザーメスが唸りを上げ、壊死した四肢を切り離していく。焼ける肉の臭いが充満する中、ゲイルはアーサーの頸動脈に太いカテーテルを突き刺し、造血剤と鎮静剤を直接流し込んだ。


 数時間後。

 集中治療ポッドの中で、アーサーのバイタルは辛うじて安定した。

 だが、その姿はあまりに異様だった。両手両足を根元から失い、胴体と頭部だけが白いシーツの上に転がっている。まるで、出来の悪いダルマだ。


「……意識が戻ったら、どう説明するんですか」

 ミシャが、青ざめた顔でモニターを見つめていた。

「自分の手足がない。隣にいたはずの最愛の妻は死んで、ミンチになっている。そんな現実、誰が受け入れられるの? ショックで心臓が止まったら、今度こそ終わりよ」

「ああ。事実は彼を殺すだろうな」


 ゲイルは、隣の解剖台に置かれた遺体袋――エレナの成れの果て――を一瞥した。

 それから、視線をアーサーの眠るポッドへと戻す。

 彼の脳波は、深い昏睡状態を示していた。だが、やがて彼は目覚める。地獄のような現実へと。


「だから、現実は見せない」

 ゲイルは低く呟いた。

「どういう……意味ですか?」

「妻は生きていることにする」


 ミシャが息を呑む音が聞こえた。

「正気? 会わせろって言われたらどうするのよ。死体を見せるの?」

「会わせない。感染症の疑いがあると言って隔離する。そして、声だけを聞かせるんだ」

「声? 誰が喋るのよ」

「AIだ。エレナの生前の音声データ、メールのログ、SNSの記録。すべて学習させて、彼女の人格を再構築する」


 ゲイルは懐から端末を取り出し、薄暗い画面をタップした。そこには、生前のエレナが微笑む写真が映し出されている。

「彼には、夢を見続けてもらう。幸福な、嘘の夢をな」

「……それは、冒涜ですよ」

「生存戦略だ。俺たちが生き延びるためには彼を殺すわけにはいかないからな」


 ゲイルは端末を操作し、エレナの個人データへのアクセスを開始した。

 神は死んだ。これからは、人間が神話を捏造する時間だ。


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