虚空の部屋
椎名アマネ
第1話 ある夢の終わり
彼がこの世を去った日を、今でも思い返す。
あの日、ボクが感じたのは悲しみと失望の入り混じった感情だったことを、よく覚えている。
彼が亡くなって、彼を悼んだ人は星の数ほどいるだろう。それほどまでに、彼は偉大な役者だった。
――でも、ボクにとってはそうではなかった。
その役者のことを悪く言う気は微塵もない。レストインピース。
虚実の境界が曖昧な、もしかすると自分は危険な人間なのかもしれない。幼い認知しか育たなかったのだろう。
彼と、彼の演じたヒーローは不可分で、ボクはずっとその二つの存在を同一視してきた。
だって、そうだろ? 映画で見るヒーローの姿は、演じた俳優の姿と同一だったんだから。
そして、彼と同時にヒーローは死んだ。世間的にはそうだった。……でも、ボクにとってはそうじゃなかった。
幼いころの一時期において、彼こそがボクの、唯一頼ることのできる存在だった。孤独という言葉すら知らなかったころ、それを癒してくれた存在が彼だった。それが、自分が生み出した空想に過ぎなかったのだと分かっていても。
それでも、あの時、彼は確かにボクを助けてくれた。誰に話したことも無いけれど、あの日、彼は確かにボクを救った。
何と呼ぼうと、確実に彼はボクにとって、実在以上に実在の存在だった。
そもそも、幼かったころのボクにとっては、映画はフィクションでは無かった。それが作り物だと決定的に知った大きな出来事こそが、かの俳優の死だ。
二つが別の存在だと知ったのは、その俳優がとある事故で大怪我を負ったというニュースが報道された時だった。
分かっている。本当なら傷ついた役者のことを心配するべきだったことぐらい。
その事故も、その後の彼の死も信じられるはずがなかった。ボクのヒーローは不死身だったから。
何度となく鑑賞したその映画を、それからも何度となく見直していた。
映画の中。ボクの憧れの存在は、けっして傷つくことがなかった。
それが銃弾の雨の中であろうと、どれだけ恐ろしい力を持ったヴィランだって、彼は恐れることなく立ち向かった。それも、全てはボクらのような弱い人々を救うために。誰の賞賛が無くても、彼は全ての人を守るために戦い続けた。
その圧倒的な力と優しさに、ボクは子供心に憧れていた。
そんな彼が、ただの本当に死ぬ人間、肉体的には傷つく人間だとボクが知ってしまったことが、あの頃、正直どれだけの衝撃だったかは自分自身でも計り知れない。
そうして訪れた、夢の終わり。
それを、ボク個人は受け入れられなかった。
今でも思う。俳優と彼が別のものだと分った今も。
ずっと思い続けていた。ボクの英雄は、本当に死んだのだろうかと。
◇
どうやってその場所にたどり着いたのかは良くわからない。
気が付くとそこにいた。
白い部屋。家具も、窓すらない、真っ白の空間。
その場所が現実なのか、ボクの幻想なのかすらよくわからなかった。
それでも、ボクは居るべくしてここに居ると、なぜだか分かった。
眩しさも感じない。穏やかで優しい白。
ボクはその壁を眺める。真っ白な壁を見つめていると、その圧倒的な『空虚』に吸い込まれそうになった。
めまいに似た感覚がした。どこか懐かしい感覚が。
白い虚空をしばらく見つめていた。
その完全な白の中で、徐々に陰影が生まれ始める。やがてそれは像を写し、無意識の中の映像を描き始める。
雲。森林。岩山。都市。幼いころに見た町の景色。草むら。荒廃した都市。瓦礫。
その中に、彼が居た。そう。ボクの英雄が。
あの頃のままの彼。
自分の正気を疑うだけの健康的な心なら、そんなものは必要ないと思った。
正気のまま不幸に生きるなら、狂気の中、幸せな方がいい。
懐かしさや、言語化すら出来ないこみ上げる思いででボクは一杯になった。感情のあまり、彼に声をかけることさえできない。いや、声を掛けてよいのかさえ分からない。
彼の変わらない精悍な横顔が、どこか遠くを見つめている。
彼はボクの姿を見つけると、多くの観客を虜にしたあのほほ笑みをボクに向けた。それはボク自身の幻想によるフィクションと、映画の内容が同一だった頃のボクに向けてくれた笑みのままだった。
何と言おうか。その表情へと返す言葉がボクには思い浮かばなかった。いや、伝えなければいけない言葉が多すぎて、一つに絞れなかった。
「……あなたは……」
声を吐いたのは自分でも何故だかわからない、そんな言葉。
「……実在、するのですか?」
途端に、後悔した。
その言葉がこの夢なのかさえ分からない場所を、そして、何よりも憧れの人を消し去りかねない言葉だったから。
彼は笑みを崩すことなく、ボクの問いに答えた。
「ワタシは、ずっと君と居たよ。気づかなかったのかい?」
蒼い瞳がボクを見つめる。優しい声が耳に響く。
「……分かってたんだ。あなたが死ぬはずがないことなんて、ずっとずっと」
彼へ答えるでもなく、言葉が口から無意識に溢れた。
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