代理の季節

田中肇

第1話 「求人サイトの海から」

 六月の終わり、梅雨が明けるかどうか曖昧な頃。

 日邑市の空は、晴れれば異様に青いくせに、曇ると一転して湿気を含んだ灰色になる。大学の図書館の窓からその空を眺めながら、佐伯湊はスマホを指でゆっくりとスクロールしていた。


 求人サイトの画面が、指の動きに合わせてずるずると流れていく。

 カフェ、倉庫、ファストフード、試験監督、家庭教師。地方都市の学生向けアルバイトは、どれも似たり寄ったりだ。

 湊は別に金に困っているわけではない。実家から仕送りが来ているし、家賃も安い学生向けアパートだ。ただ、生活にほんの少し、日差しが差し込むような“何か”を探していた。


 ――いや、日差しじゃない。

 ただの気分転換だ。


 自分の気持ちを大げさに言う必要なんてない、と湊は思う。大学生活は楽しいかと問われれば、そこそこ楽しいし、退屈かと問われれば、まあ退屈だ。

 そんな、地方都市の大学生にありがちな“中庸”の真ん中を、今日も歩いているだけだった。


 やがて、求人サイトの比較的下のほうに、妙に文字数の少ない募集が目に止まった。


《代理屋カケハシ》スタッフ募集

各種同行・出席・補助作業など。

時給1,200円〜 週1から可。

経験不問。履歴不要。


 説明が少なすぎて逆に不気味だ。

 湊は眉をひそめながら、詳細ページをタップした。

 すると、シンプルな白地の画面に、さらにシンプルな説明が載っていた。


「人手が必要なタイミングで、人手を貸す仕事です」


 それだけ。


 ――いや、それで伝わるなら苦労してない。


 思わず小さくため息をつく。

 仕事内容の例も、勤務地の詳細も、スタッフの顔写真もない。

 怪しいと言えば怪しいが、詐欺や闇バイトの類という感じもしない。ただ、雑だ。あまりに雑すぎる。


 画面の一番下に、「応募フォームはこちら」というリンクがぽつりとあった。

 指が自然とそこに伸びたが、湊は途中で動きを止めた。


 ――こういうとき、普通の大学生は応募しないんだろうな。


 自分が普通かどうかなど、考えたことはほとんどない。

 けれど「普通」が何かの基準になる瞬間は、確かにある。

 その基準にしたがっていれば、失敗しない気がするからだ。

 湊も日常の多くを、そうやって“無難な選択”で埋めてきた。


 しばらく画面を見つめたあと、湊は小さく笑った。


 ――でも、まあいいか。


 誰かに迷惑をかけるわけじゃない。

 時給も悪くはないし、週一でもいいなら生活の隙間に入れられる。

 なにより、この雑な説明文には妙な誠実さがある。取り繕わない分だけ、かえって信用できるというか。


 湊は応募フォームに名前と電話番号だけを入力し、「送信」をタップした。

 送信完了の画面は出ず、ただリンク先のトップページに戻っただけだった。


 ――本当に届いたのか?


 訝しく思いながらも、もう授業の時間が近づいていたため、湊はバッグを肩にかけて図書館を出た。

 湿った風が、外に出た瞬間、首筋にまとわりついた。


 その日の夜、スマホに一本の電話がかかってきた。


「もしもし、佐伯さん? 代理屋カケハシの神谷といいます」


 聞いたことのない落ち着いた男の声だった。

 湊は一瞬、誰の名前か思い出せず、「あ、はい」とだけ返した。


「応募フォームを送ってくれたんでね。話、早めに聞かせてもらえればと思って。明日、都合つく?」


「……明日ですか?」


「うん、夕方でどう? 一時間もかからないから」


 随分とテンポがいい。

 違和感はあるが、怪しいほどではない。

 それに湊は、こうした「よく分からないもの」に少しだけ惹かれる節がある。日常を乱すほどではなく、ほんの少しだけ色をくれるもの。


「大丈夫です。明日なら」


「じゃあ、場所送るね。駅から歩いて五分くらい」


 会話はそれだけで終わった。

 電話を切ると、すぐに地図アプリのリンクが送られてくる。

 古い雑居ビルの一室のようだった。


 ――ほんとに変なバイトかもしれないな。


 けれど、湊はなぜか心がほんの少しだけ軽くなっていた。

 アルバイトの採用というほどのことでもないのに、不思議と、明日の予定ができるだけで世界が小さく動いたように感じられた。


 翌日の夕方、日邑駅前のロータリーは、いつも通り中途半端に賑やかだった。

 学生とスーツ姿の会社員と、スーパーの袋を提げた主婦が、みんな同じように急いでいるようで、よく見るとそれぞれ違う歩き方をしている。


 湊は、スマホの地図アプリをちらちら確認しながら、改札を出た。

 駅前のメイン通りから一本外れた路地に入ると、さっきまでの雑多な賑わいが一気に薄まる。古いクリーニング店や、いつ営業しているのか分からないスナックの入ったビルが、ところどころペンキの剥げたまま並んでいた。


 画面の矢印が、「目的地です」と無表情に告げる。

 顔を上げると、「城山ビル」と書かれた細長い建物が、空に向かって窮屈そうに伸びていた。エレベーターはなく、階段の横のポストにはいくつもの店名シールが重なり合って貼られている。その一番下に、色褪せたラベルでこうあった。


403 カケハシ


 「代理屋」という文言は見当たらない。

 ――怪しくはあるけど、犯罪の匂いはしない……はず。


 湊は自分にそう言い聞かせ、階段を上がった。

 四階まで上がると、少し息が切れる。その息を整えながら、403号室のドアの前で一瞬だけ立ち止まる。白いスチール扉には小さな表札がぶら下がっていて、油性ペンで「カケハシ」と書かれていた。


 インターホンを押すと、すぐに「はーい」という声がして、がちゃりと鍵の外れる音がした。


「どうぞー、開いてるよ」


 戸を引くと、思っていたよりもずっと狭い部屋だった。

 六畳ほどのスペースに、安っぽい事務机と折りたたみ椅子が四脚。壁際にはメタルラックが立てかけられ、その上に段ボールとファイルが雑に積まれている。床は古いカーペットで、ところどころ色が抜けていた。


 その部屋の真ん中に、ひとりの男が座っていた。


「佐伯湊くん、だっけ?」


 男は椅子から半分立ち上がりかけて、途中でやめたような姿勢でこちらを見た。

 三十代後半くらいだろうか。細身で背は高く、くしゃっとした髪に、ノーネクタイのシャツ。ジャケットは着ているが、肩が少し落ちていて、スーツというよりは「仕事用の上着」といった雰囲気だった。


「は、はい。佐伯です」


「おー、いらっしゃい。まあ座って」


 指先で近くの椅子をちょいちょいと動かす。

 湊が座ると、男は改めて軽く会釈した。


「俺、神谷薫。ここの代表ってことになってる。代表って言っても、従業員いないから実質ひとりだけどね」


「……よろしくお願いします」


「そんなに緊張しなくて大丈夫。就活の面接じゃないから」


 神谷は、机の上に置かれたマグカップを両手で包むように持ちながら、湊をじろりと見た。

 その視線は嫌な感じではないが、妙に観察するような静けさがあった。


「佐伯くんさ、今、大学何年?」


「二年です。文学部で」


「文学部か。小説書いてる人?」


「いえ、全然……レポートで文章書くくらいです」


「そっか。まあ、文章力はあったほうがいいけど、必須ではないかな」


 必須ではない、と言いながらも、神谷は何かをチェックするように頷いた。


「うちの仕事、大雑把に言うとね――」


 神谷は、マグカップを机に置き、指で空中に四角を描くようなしぐさをした。


「“人間関係の穴埋め”みたいなもん」


「穴埋め、ですか」


「そう。人数が足りないとか、行きたいけど行けないとか、顔を出さなきゃいけない場があるけど、どうしても出られないとか。世の中、そういう『居なきゃいけないのに居られない』って状況が、意外と多いんだよ」


 神谷は、机の隅に積まれたファイルの山を、指先でとんとんと叩いた。


「そういうときに、うちが“代理”で行く。簡単に言えばそれだけ。代理出席、代理同行、代理謝罪、代理見舞い。名目はいろいろだけど、やってることは似たようなもんだね」


 代理謝罪、という言葉に、湊は思わず眉を上げた。


「謝罪も、ですか」


「うん。さすがに刑事事件レベルのはやらないし、やらないっていうか、来ても断るけど。ちょっとした不義理とか、時間のすれ違いとか、感情が爆発する前にクッションを置きたいみたいな依頼が多い」


 神谷は、少しだけ肩をすくめて笑った。


「まあ、きれいな仕事だとは言わないよ。ボランティアでもないしね。善行ポイントが上がる系ではない。お金もらって、誰かの都合に合わせて動く。ただね、あくまで『一時的な肩代わり』が前提。人間関係そのものを売り買いするわけじゃないっていうのが、うちの線引き」


「線引き、ですか」


「例えば、長期的に恋人のふりするとか、家族になりすまして生活するとか、そういうのは受けない。ドラマじゃないからね。現実でやるとろくなことにならない。こっちはあくまで、『今日の三時間だけ』『この場だけ』みたいな、一点ものの代理」


 湊は、想像しようとして、うまくイメージが追いつかないのを感じていた。

 葬式や謝罪の場に、知らない人間が紛れ込む。その光景はどこか薄暗くて、同時に妙にリアルでもある。


「……危ないことは、ないんですか?」


 一応、聞いておく。

 湊の問いに、神谷は「お、いいね」とでも言うように目尻を下げた。


「そこ聞くのはいいこと。危ないことは、基本やらせない。威圧的な相手とふたりきりになって長時間説教されるとか、夜中に知らない男の家に行くとか、そういうのは全部俺が行く。学生さんには、危険度低めのやつしか回さない」


「危険度低め」


「例えば、就職説明会の人数合わせとか、イベントの“にぎやかし”とか、病院のお見舞いの付き添いとかね。もちろん、何が危険かって線引きはこっちでやるから、最初のうちは変に心配しなくていいよ」


 神谷は引き出しを開け、クリップでとめられた数枚の紙を取り出した。


「で、佐伯くん。うちで働きたい理由、って聞いても、多分大したこと言えないでしょ?」


「……すみません」


「いや、別に怒ってないよ。学生バイトに高尚な志望動機なんて求めてないから。楽そうとか、時給いいとか、家から近いとかそのへんでしょ?」


 図星すぎて、湊は曖昧に笑うしかなかった。


「だからこっちも、こっちの基準で見る。時間を守れるかとか、変な嘘をつかないかとか、そっちのほうが大事。佐伯くん、遅刻とか多い?」


「いえ、そんなには……」


「『そんなには』ってことは、ちょっとはあるか」


 痛いところを刺されて、湊は視線をテーブルの木目に落とした。

 それを見て、神谷はふっと笑う。


「まあ、いいや。現場で困るレベルじゃなければ。じゃ、とりあえず――」


 神谷は紙束の一番上をめくり、湊のほうへ滑らせた。


「これ、見てみて」


 そこには、太字で「案件詳細」と書かれ、その下に簡単な箇条書きが並んでいた。


案件名:就職説明会代理出席

日時:〇月〇日(木) 13:00〜16:00

場所:市外ホール

依頼内容:参加者人数が不足しているため、学生として参加し、通常通り説明会を受けること。アンケートに記入可。服装自由(ただし常識の範囲で)


「……これ、普通に就職説明会に行くだけですか」


「そう。別に何か特別なことをする必要はない。強いて言えば、アンケートがあればちゃんと書いてあげてくれれば御の字」


「アンケートも、代理で?」


「そう。依頼企業的には、『説明会にちゃんと人が来てる』っていう事実が欲しいからね。あと、アンケートの数も大事。世の中には、数字が揃ってると安心する人種っていうのが、びっくりするくらいたくさんいるんだよ」


 神谷は、肩肘をつきながらぼそっと言った。


「これが、どうしても学生を集めきれなかったんだとさ。時期的にも、微妙なんだろうね。三年生には早い、二年生には遠い、みたいな」


 言われてみれば、確かにそんな気もする。

 湊自身、就活なんてまだ先の話だとぼんやり思っているし、周囲の二年生も似たような感覚だ。


「まあ、初回にはちょうどいい。行って座って話聞いて、帰ってくるだけ。ついでに、将来のイメージでも何となく掴めたらラッキー」


「……これをやれば、とりあえず採用ってことになるんですか?」


「うん。ここまで話聞きに来てくれた時点で、ほぼ採用だけどね。こっちとしても、学生を何人かはキープしておきたいの。いつ依頼が重なるか分からないから」


 神谷は机の端にあったボールペンを取り、紙の余白にさらさらと何かを書き加えた。


「日程、大丈夫そう? 大学の授業とか」


 指定された日時を見て、湊は頭の中で時間割をめくる。

 その日は午後からゼミのガイダンスがあったはずだが、担当教員のメールによれば「出られる人だけでいい」と書いてあった。出席必須ではない。


「……大丈夫です」


「お、やる気あるね」


 神谷は、わざとらしく親指を立ててみせた。


「じゃあ、これ初仕事ってことで。詳細と集合時間はあとでLINEで送るから、QRコード読み込んで」


 言われるままに、湊は机の上に置かれた名刺サイズのカードを手に取った。裏に印刷されたQRコードを読み取ると、「代理屋カケハシ」という名前のアカウントが表示される。


「質問ある?」


 そう聞かれて、湊は一瞬だけ迷った。

 喉の奥あたりに、いくつかの言葉がまとまらないまま浮かんでは沈んでいく。


 ――自分が知らない誰かのふりをすることに、罪悪感はないのか。

 ――依頼する人は、本当は自分で行くべきじゃないのか。

 ――こういう仕事を続けたら、自分の感覚が少しずつ鈍っていくんじゃないか。


 けれどそれらは、どれも「初対面で口に出す種類の疑問」ではない気がした。


「えっと……報酬は、その……」


「ああ、お金ね」


 神谷はあっさりと笑った。


「それ、大事。大事だけど忘れてた。ごめんごめん。時給はサイトに出してる通り。交通費は別で出るから安心して。日払い希望なら、最初のうちはなるべくそうする。学生だと、そこ重要でしょ」


「はい……助かります」


「危険なことをさせないっていうのも、さっき言った通り。あともうひとつだけ、覚えておいてほしいのは――」


 神谷は、そこで少し表情を引き締めた。


「依頼人のこと、勝手に『かわいそう』とか『悪いやつ』とか、決めつけないこと。こっちが見えるのは、その人の人生のほんの一部だけだから」


「……はい」


「それと同じくらい、自分のことも変に美化しないこと。『俺はいいことをしている』とか、『俺がいなきゃあの人はダメだった』とか、そういう方向に走り出すと、ろくなことにならない」


 言葉そのものはきついわけではないが、その声音には妙な重みがあった。

 現場で何度も、そういう“ろくなことにならない”場面を見てきた人間の声だ。


「まあ、最初からそんな深刻に考えなくていいよ。就職説明会なんて、気楽なもんだから。普通にパンフレットもらって、普通に話聞いて、終わったら普通に帰る。ね?」


 神谷は最後に少しだけ柔らかく笑い、立ち上がった。


「よし、じゃあ今日はこれで終わり。帰り、駅までは分かる?」


「はい。大丈夫です」


「何かあったらLINEして。あと、近くのコンビニにうまい唐揚げがあるから、気が向いたら寄ってくといいよ。学生は揚げ物でだいたい機嫌が直るっていう俺の持論」


 よく分からない持論を聞かされながら、湊は椅子から立ち上がった。

 入口まで見送りに来た神谷は、「じゃね」と片手を軽く挙げる。

 その仕草は、知り合い以上、友人未満くらいの距離感で、妙に力が抜けていた。


 廊下に出ると、さっきの古いカーペットの匂いが少し濃くなった気がした。

 階段を降りながら、湊はポケットからスマホを取り出す。


 LINEには、早くもメッセージが届いていた。


【案件No.001 就職説明会代理出席】

集合時間:当日12:30

集合場所:日邑駅東口 バスロータリー前

服装:普段着で可(派手すぎないもの)

備考:昼食は各自で済ませておくこと


 通知の小さな画面を見つめながら、湊は、自分の足音がいつもよりわずかに軽いことに気づいた。


 ――就職説明会なんて、行く予定なかったのにな。


 日邑市の空は、さっきまで曇っていたのに、いつの間にか薄く晴れ始めていた。ビルの隙間からのぞく青色は、まだ本気を出し切っていないような、控えめな色合いだった。


 集合場所のバスロータリーは、普段よりも少しだけ人が多かった。

 湊が到着したのは、指定された時間より五分ほど前。六月の終わりの太陽は強すぎず弱すぎず、じっとりした風が駅前を満たしている。


「……あれか?」


 視界の中に、見覚えのある色のジャケットがあった。

 神谷がベンチに腰掛け、コンビニコーヒーを片手に、ゆるく足を組んでいた。

 近づくと、神谷はコップを軽く振って合図する。


「お、来たね。時間ぴったり。いいじゃん」


「おはようございます」


「うん、おはよ。気合い入れなくていいよ。普通で」


 神谷はそう言うと、手元のスマホに目を落としながら続けた。


「もう一人、別の学生さんが来る予定だったんだけど、連絡つかなくてさ。ま、こういうのもよくある」


 淡々とした口調だが、特に腹を立てている様子はない。

 バイトに慣れた学生なら珍しくないことだ。


「じゃ、そろそろ行こっか」


 神谷は立ち上がり、道路の向かい側に停まった送迎バスを指さした。

 企業ロゴの入った白いマイクロバス。ドアの横にスーツ姿の社員らしき人が立っている。


「……ほんとに普通の説明会なんですね」


「そうだよ。見た目は完全に普通。ただ、座席がガラガラなのは困るってだけ」


 二人がバスに乗り込むと、中はすでに数名の学生が席に座っていた。

 三年生と思われるスーツ姿の者もいれば、湊のように私服の学生もいる。

 ウェルカムドリンクの水が、網ポケットに丁寧に差してあった。


「ここ適当に座って。俺は別件あるから現地まで一緒には行かないよ」


「えっ、一緒じゃないんですか?」


「うん。俺が行くとね、スタッフってバレるでしょ。今日は君、“ただの学生”だから」


 そう言って、神谷はにやりと笑った。


「まあ、気楽に。パンフもらって、話聞いて、アンケート書いて。眠かったらこっそり寝てもいいけど、いびきだけはかくなよ」


「……気をつけます」


 バスのエンジンが低く唸り始め、ゆっくりと駅前を離れていく。

 湊は窓際の席を選び、シートに背中を預けた。

 外の景色はすぐに住宅街になり、さらに少し行くと、舗装が古い郊外の道路に変わる。


 説明会に行く、という事実が奇妙に現実味を欠いていた。

 自分はまだ、就職なんてまったく考えていない。

 パンフレットを受け取ったところで、そこに書かれた「企業理念」や「社会貢献」や「未来への挑戦」といった文字が、どれだけ自分に関係するだろうか。


 ただ、窓の外を流れる風景が、いつもと違う方面へ向かっているだけで、

 湊は少しだけ胸の奥がざわつくのを感じていた。


 ――これが、代理の仕事か。


 まだ何もしていない。

 でも、今日の自分の座席は、自分のためのものではない。

 誰かが「必要」と言った数を埋めるための席だ。


 それを思うと、不思議と落ち着かない感覚があった。


 バスは二十分ほど走った後、市外の文化ホールの駐車場に停まった。

 会場入口には、案内板と受付の机が設置され、企業名がいくつも並んでいる。


 降車した学生たちが、ぞろぞろとホールへ向かって歩き始めた。

 湊も群れに続く。


「学生証お願いします」


 受付の女性に学生証を見せると、参加者名簿にチェックが入る。

 本来ならそこに書かれるはずだった“本物の参加者”の名前はあるのだろうか。

 数は足りているように見えるが、企業にとってはひとりひとりが数字だ。


 ホールの中は、舞台上のスクリーンに企業ロゴが映し出され、規則正しく椅子が並んでいる。

 参加者はまだまばらで、前のほうは空席が多かった。


 湊は、やや後方の席を選んで座る。

 隣には誰もいない。

 スーツ姿の学生たちの緊張した背中を眺めていると、自分が場違いなような、しかし不思議と浮いてはいないような、そんな曖昧な気配があった。


 やがて司会者が壇上に立ち、説明会が始まった。

 企業理念の話、福利厚生、求める人物像。

 湊は大人しくメモをとりながら、ときどき視線を上げてスクリーンを眺める。


 ――別に悪い会社ではなさそうだ。


 ただ、湊の胸の奥はどこか淡々としていた。

 将来のことを真剣に考えるほどの熱も、否定するほどの拒否感もない。

 自分の未来に関する熱量が、他の誰かよりも明らかに少ないような気がしていた。


 休憩時間になり、湊は会場の外のロビーへ出た。

 カフェスペースに置かれた無料の紙コップとアイスコーヒーのポットが、やけに親切に見える。

 湊がコーヒーを注いでいると、前にいたスーツ姿の学生が話しかけてきた。


「二年生? 私服ってことは、まだ就活じゃないよね?」


「あ、はい。二年です。今日が初めてで」


「へえ、偉いね。二年で説明会とか。意識高いじゃん」


「いや、そんな……」


 曖昧に笑う湊。

 本当の理由はとても言えない。

 彼は「代理」なのだ。

 軽い会話なのに、嘘をついているという自覚だけが胸に残った。


 学生は気さくに「じゃ、またどこかで」と言って離れていった。

 紙コップを持ったまま、湊はロビーの端の観葉植物の前でひとり立ち止まった。


「……俺、誰なんだろうな」


 思わず口の中で小さく言った。

 「学生」としては本物。

 でも、ここにいる理由は本物ではない。


 たった一人称が揺らいだだけなのに、

 その瞬間の自分は、どこか透明人間になったような感覚だった。


 そんな薄い心持ちのまま、説明会は穏やかに終了した。

 ホールを出るときに渡されたアンケートに、湊はできるだけ普通の学生として答えを書いた。

 企業名、印象に残ったポイント、気になる部署。

 すべて、湊の本心というよりは、「学生ならこう書くだろう」という平均的な言葉。


 会場の出口で紙を渡し、深く頭を下げられる。


「ご参加ありがとうございました!」


 笑顔の社員たちは、湊を本物の“興味を持った学生”として扱っていた。

 その丁寧すぎる笑顔が、かえって胸に引っかかった。


 外に出ると、午後の光は少し傾き、文化ホールの外壁が長い影を落としていた。

 送迎バスへ向かう学生たちの列に紛れながら、湊はポケットのスマホを軽く握りしめる。


 ――終わった。

 何でもない仕事だったはずなのに、不思議と安堵感がある。


 バスに乗り込むと、奥の席に座った。

 シートに背中を預けると、説明会で浴び続けた空調の冷気がまだ身体に残っていて、皮膚の表面だけが妙に冷えている。


 バスが動き出す。

 行きと同じ道を逆方向に辿っていく。

 郊外の広い道路、古い商店街、住宅街。

 昼に見た風景と同じなのに、帰り道では微妙に色合いが違って見えた。


 窓の外に目を向けたまま、湊は考える。


 ――これでいいのかな。


 代理出席。

 言葉にすると軽い響きだが、実際にやってみると、表面以上に“場の温度”を吸い取るような仕事だった。


 自分が座ったあの椅子に、本当は誰が座るはずだったのか。

 自分の書いたアンケートは、誰の未来の数字のひとつになるのか。


 考えても仕方のないことだが、考えずにはいられなかった。


 駅前へ戻ると、神谷からすぐにメッセージが届いた。


終わった?

今、東口のベンチあたりいる。よれたら来て。


 湊はバスを降りて少し歩き、駅のモニュメントの横で神谷を見つけた。

 神谷はコンビニ袋を横に置き、アイスコーヒーを飲んでいるところだった。


「おつかれ。どうだった?」


「……普通に、説明会でした」


「そりゃそうだよ。今日のはめちゃくちゃ“初心者向け”だからね」


「なんか……変な仕事だと思ってたんですけど、実際やってみると、変っていうより……うーん」


「“妙に現実的”って感じ?」


「……あ、そうですね。そんな感じです」


 神谷は小さく笑った。


「まあ、最初はそれで十分。代理なんて、やってみなきゃ分かんない部分が多いし。で、嫌じゃなかった?」


「嫌では……ないです。なんか、不思議でしたけど」


「不思議くらいがちょうどいいよ。学生のうちは、変に深刻にならんほうがいい」


 そう言いながら、神谷は袋からペットボトルの水を取り出し、湊に放った。


「はい。今日の“ご褒美”。支給品みたいなもん」


「え、いいんですか?」


「水くらい飲みなよ。あと、初回の分の報酬は今払うね」


 神谷はスマホを操作し、数十秒後に湊のスマホが小さく震えた。

 通知には、今日のバイト代が即時送金されたことが表示されている。


「あ、ほんとだ……入ってる」


「でしょ。うちは金払いは良いのが唯一の取り柄だから」


 神谷はそう言って立ち上がると、駅のほうを指した。


「じゃ、今日はもう解散でいいよ。思ったより疲れてると思うし。代理の仕事って、表向き楽そうでも、意外と頭の部分で消耗するからね」


「……確かに、ちょっと疲れました」


「慣れれば適度に力抜けるよ。最初はみんなそう。

 あ、ちなみに来週、もう一本ライトな案件あるけど、受けられそう?」


 突然の誘いだったが、湊の口は自然と動いていた。


「……大丈夫だと思います」


「よし、じゃあ詳細はまた送る。断りたいときは普通に断っていいからね。無理させる気はないし」


 神谷は軽く手を振って歩き出す。

 その背中は、雑なようでいて、どこか仕事に慣れている人間のリズムがあった。


 湊は、神谷の姿が人混みに紛れるまで見送ったあと、

 駅のペデストリアンデッキにゆっくりと上がった。


 夕方の光がビルの窓に反射して、

 オレンジ色の破片のように辺りへ散らばっている。

 人々の足音と電車の発着音が重なり、地方都市の夕方らしい雑な音の層をつくっていた。


 湊はペットボトルの水をひと口飲む。

 冷たさが喉を通って胸まで落ちていく感覚が、妙に心地よかった。


 ――変な仕事だな。

 でも、なんでだろう。


 たった数時間の「代理出席」をしただけなのに、

 今日の自分の一日が、いつもの日常より少しだけ輪郭を持って感じられた。


 駅前の風が、ビルの影をゆっくり押し流していく。

 湊はその風を胸いっぱいに吸い込んで、アパートへ向かって歩き出した。


 明日はまたただの大学生活。

 でもその途中に、また何か“穴”があったら、

 今日みたいにそっと埋めてしまってもいいのかもしれない――。

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