ホテル「リトルフォレスト」と季節の人々

物書き赤べこ

第1話 浮浪者のオムライス

昼下がりのホテルのロビーには、落ち着いたクラシックの調べが流れていた。

重厚な大理石の床に反射する微かな光すら、この場所がどのような場所かを

告げていた。


支配人・木島は、深紺のスーツの襟を指先で直しながら、どこか虚ろな表情

で帰っていく料理人志望者の背を見送った。

今日だけで9人目の応募者だ。

経歴に華はある。技術も申し分ない。だが――胸を刺すものが、何一つない。


「皆、同じだな……」


氷室が吐いた小さな独白を、ロビーの空調がさらっていったその時だった。


「し、支配人‼ 大変です!」

若い女性スタッフが駆け込んできた。

額に浮かんだ汗は、ただ事ではないと物語っている。


「ホテルの前で、倒れている男性を見つけました! 呼吸はありますが……

かなり衰弱しています」

その背後から、別のスタッフが痩せた男を抱えるようにして入ってくる。


髪も髭も伸び放題。

服は色褪せ、泥が染み込み、匂いも強い。

中身が抜け落ちたかのようにその身体は、驚くほど軽かった。

ソファに寝かされると、男のまぶたが小刻みに震え――ゆっくりと開いた。

焦点の定まらない黒い瞳が天井を彷徨い、乾いた唇がかすかに動く。

「……ハ……ラ……ヘ……」

木島はスタッフと一瞬視線を交わした。

「もう少し寝かせておこう、みんなは仕事に戻ってくれあんたも気分が

良くなったら帰ってくれ」

木島の顔は理解できないというより、理解したくない、という表情だった。


その頃、厨房には昼の賄いの支度をする音が心地よく満ちていた。

佐山結は、溶き卵を流し入れるフライパンの音に耳を澄ませながら、

今日の献立「オムライス」の段取りを頭で組み直していた。

賄いだろうと手は抜かない。

食べる相手の顔が見える仕事に、妥協はない。

「……よし」

フライパンに卵が広がる瞬間、結はふと背中に視線の刺さるような気配を感じた。

振り返る。

「……えっ?」


厨房の入り口に、見たことのない、そして明らかにこの場所には不釣り合いな男が立っていた。

警戒して声を上げようとしたが、その一瞬の隙に男はフラフラと結の横を通り抜け、棚からフライパンを取った。

「ちょ、ちょっと待ってください! あなた、誰ですか⁉」

悲鳴に近い言葉は届かない。


男は火をつけ、卵を割り、混ぜ、油を敷き……。

その迷いの無い手際に結は言葉を失った。

体が自然の流れとして動いている。

熟練という言葉すら追いつかない、圧倒的な自然さ。

卵が鍋肌を滑り、フライパンの上で軽やかに返る。

その瞬間だけ、男の身体を覆っていた「浮浪者」という殻がふっと消え、

そこにはまるで別人のような、研ぎ澄まされた料理人の姿があった。


結が息を呑むのとほぼ同時に、スタッフがやって来て怒号が響く。

「おい‼ 何をしてるんだ! ここは厨房だぞ!」

しかし男は気にも留めない。

淡々と皿に盛りつけ、湯気の立つオムライスを一つ手に取り、

まるで飢えを埋めるためだけに生きてきた人間のように、むさぼり食う。

そこへ、支配人の氷室が駆け込んできた。

「君! 許可もなく厨房に入って調理など……言語道断だ。

すぐに出ていきたまえ!」

次の瞬間、男はスプーンを口にくわえ皿を抱えたまま出口へ向かった。

氷室がさらに制止する。

「皿とスプーンは置いていきなさい!」

男は立ち止まり、名残惜しそうに皿を置く。

そして小さく、しかしはっきりと呟いた。

「……ごちそうさま」

追い出されるように去っていくその背は、先ほどの鋭さが嘘のように再び弱々しく揺れていた。

静寂が訪れる。

だが、置き去りにされた皿からは湯気がたちのぼっている。

結は、誘われるようにスプーンを取った。

一口だけ……


――世界が止まった。


「……何これ……私のと、全然違う……」

卵は柔らかい。だがただの“とろとろ”ではないシルクのような滑らかさ。

香りの層が深く、甘さも塩気も、驚くほど繊細に舌の上に広がっていく。

スタッフも支配人も、一口食べて息を呑んだ。

「……あの男は……何者だ?」

氷室は急いで外を探しに出たが――

男の姿はどこにもなかった。

まるで風に溶けるように消えていた。


――数日後。

朝の空気は冷たく、公園には薄い陽光が降り注いでいた。

出勤途中の結は、ふとベンチに横たわる影に気づいた。

近づくと――あの男だった。

肩は震え、呼吸は浅い。

結は迷わず彼の腕を取り、ホテルへ連れ帰った。

仮眠室のベッドに横たわる男を見下ろしながら、氷室が静かに言う。

「……私は彼を、このホテルで採用したい。

あの料理には、人の心を揺さぶる何かがある」

反対の声は、一つもあがらなかった。

眠る男の指先には、あの日のオムライスの記憶が宿っているように見えた。

彼がどこから来たのか――

なぜあれほどの腕を持ちながら路上に倒れていたのか――

誰も知らない。


2話「小さなホテルとハンバーガーのようなスタッフと」へ続く

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る