第9話 「私とあなたで違ったもの」

 もしあの時リシャールの手を取らなければ、どうなっていたのだろう。

 ぼんやりとした頭でアランは思う。

 あれから十年の時が流れた。リシャールには手を離され、城から追放され、幽閉送りにされた。エリエントによれば幽閉に見せかけた処刑だったらしいが。たとえ自分を殺そうとしたとしても、アランにとってリシャールは親友だった。あの時手を取らなければ、親友にはならなかっただろう。親友にならなかったら、アランはずっと復讐に身を焦がされ続け、人間の形すらも失っていたに違いない。

(リシャールが本当に望むなら、あいつを助けた後で、俺はひっそり死ぬべきなんだろうな……)

 だが、エリエントは望まないだろう。アランは、隣を歩く男を見上げた。

「アラン様、いかがなさいましたか?」

「別に」

 ふいと顔を背ける。マルがエリエントを笑う声と、それに低い声で返すエリエントの声がした。

 今、アランはエリエントとマルとともにブランシェ領のオルクスという町に向かっていた。そこにはブランシェ家の迎賓館がある。そこに今の反乱軍の軍主ディディエがいる可能性が高い。反乱軍は「宰相リシャールは英雄王アランの影で国を操り、ついには英雄王アランを城から追い出した」という幻想に捕らわれ、アランのためにとリシャールの首を狙っている。アランは彼を救うにはディディエを止めるしかないと、彼の行方を追っていた。

(ディディエ……まさか憧れの人とこんな形で会うことになるなんて……)

 今代の英雄ディディエ──彼はアランの言葉を聞き入れてくれるだろうか。

 アランがいない方が国は良く回る。リシャールの判断は間違えていない。国を思うならば何もするなという言葉を、受け入れてくれるだろうか。

 不安がアランの心に染み付いていた。

 三人が歩き続けると、北東の方から川が現れる。その川が見えたということは、オルクスも近い。かつてアランはこの川に流されて、オルクスでマエリスに助けられた。十六歳を目前にした十五歳のことだったから、あれももう十年前、否、今年で十一年前となるか。秋になれば、アランは二十七歳となる。

「うわあ、この川、よく見たら岩だらけですねぇ」

 マルが歩きながら川を覗き込む。

「上流はもっと岩があるぞ」

「じゃあ泳げませんね〜」

「ここ流れも早いんだ。俺、ここで一回死にかけたし」

「え〜っ!よく助かりましたね!」

 マルと会話しながら、アランは何かが足りないことに気づいて足を止める。振り向くと、エリエントが青い顔をして立ち止まっていた。

「エリエント?」

「ア、アラン様……」

 何をそんなに青くなっているのか尋ねようとして、アランはその原因に思い至る。エリエントはアランを気にかける男だ。アランが死にかけたことを聞いてしまったことが原因だろう。

「言っておくけど、俺、自然の中じゃ死なねぇから」

「いえ、何が起こるか分かりません。アラン様、川に近づかないでください」

「……大丈夫だけどな。絶対、嫌でも助かるよ」

「嫌でもなどと、二度と口にしないでください」

 エリエントの目が厳しいものになる。アランが特に考えもせずに口にした言葉は、彼を傷つけるものだったらしい。

「ごめん。言葉に気をつけるわ」

「言葉に気をつけるなどということではありません」

「分かった。言わない、言わないよ。約束する」

 エリエントの目は変わらない。言わないと約束したのに、何がダメだというのか。アランもだんだん不機嫌になり、二人の間に暗雲が立ち込めた。その空気を、マルの声が軽快に蹴り飛ばす。

「うぉぉ!見てください!魚ですよ〜っ!ハッハハー!」

 しゃがんで袖を捲り、川に手を突っ込み、水しぶきをあげている。魚は当然のことながら逃げてしまった。上半身を水浸しにして、残念そうな顔を一つもせず口を開く。

「掴み損ねました〜……」

「……お前、何してんだよ……」

 アランの肩から力が抜けた。わざとにしろそうじゃないにしろ助かった気持ちになって、アランは小さく「ありがと」とマルに言った。マルは首を傾げただけだった。マルは立ち上がって袖を元に戻す。

「次また魚を見かけたら、アランさんも取りましょう!僕、魚好きなんですよ〜」

「魚なぁ。臭くね?」

「それは調理の仕方が下手なんですよ」

 マルは膝についた土を払って歩き出した。アランも止めていた足を動かし、未だ立ち止まったままのエリエントを振り返る。

「エリエント、行くぞ」

 エリエントの顔がじわじわと喜色に染まる。

「はい、アラン様!」

 彼はそのままアランのすぐ横に駆けて来た。それを見届けて、アランも前を向く。

 歩きながら、エリエントはそばを流れる川をじっと見た。水面は陽光を反射してきらりと光っている。彼は唇を噛み締め、アランの横顔へと目を向けると、何かを思うように目を伏せたのだった。

 それから休まず歩き続け、ようやく三人はオルクスへと着いた。長閑な時間の流れるその町の奥には、目的地である迎賓館が厳かに佇んでいた。

 迎賓館の大きさは一軒家が三つ分程で、貴族の屋敷にしては小さく、普通の貴族が持つ迎賓館にしてはやや大きい。門から玄関への道のりも短く、庭は子女たちがお茶会をする程度の広さしか無い。門を守る兵士もおらず、まるで警戒心の無い佇まいだ。貴族であるエリエントは、物珍し気に迎賓館を眺めた。

「これが特例貴族の迎賓館ですか。噂には聞いていましたが……」

「普通の迎賓館じゃないのは、見た目からでもよく分かりますね〜」

「門番が居ないとは……。誰に取り次いでもらえば──アラン様!?」

 立ち止まる二人を無視し、アランはごく自然に門を開けて中に入った。

「ここ、いつも開けっ放しなんだよ」

「ぶ、不用心……!」

「治安も良いからな〜」

「そういう問題でしょうか……?」

 二人もアランの後ろに続く。玄関の扉をさすがに勝手に開けることは出来ず、アランはノッカーを使って扉を叩いた。しばはくして、中から扉が開かれる。扉を開けたのはメイドだった。

「アラン様でいらっしゃいますか?」

「俺が前来た時にもいた人?」

「はい。食事を運ばせていただいておりました。本日はどのようなご用件でございましょうか」

 メイドはすんとした顔をしているが、目が一瞬エリエントとマルを見て警戒していた。

「人を探しているんだ」

「ディディエ様でしょうか?」

 話が早い。アランは「そうだ」と返した。

 胸がドキドキと鳴る。ついにディディエに会うのかと緊張する。しかし、メイドは表情を変えずにその緊張を打ち砕いた。

「ディディエ様でしたら、既にここを立ち去られています」

「え……」

 アランの様子を見て、メイドは「申し訳ございません」と謝った。

「いつ立ち去った?次にどこ行ったかは知らない?」

「もう四日ほど前になります。次はベルトラン家の迎賓館に向かうと聞いております」

「ベルトランの方っ!?」

 ベルトラン領はブランシェ領とは真反対の北にある。ここから徒歩で行けば、すれ違いになるのは明らかだった。

「う、ば、馬車を使うか……でも金が……」

「アラン様、金ならば私が」

 すかさずエリエントが手を挙げる。もう金銭面は全面的に彼に頼るしか無いのか。アランがエリエントに馬車の手配を頼もうとしたその時、メイドが口を開いた。

「それでしたら、ブランシェ家の馬車をお使いください」

「えっ、でも」

「アラン様でしたら、当主様もお許しになります」

「……そ、うかな……」

 そんなことないと思うけど──アランの小さな声を、メイドは聞こえなかったふりをした。

「ディディエ様は各街を周りながらベルトラン家の迎賓館に向かわれるとのことでした。今から馬車で向かえば、おそらく先に着くと思われます」

「アラン様、馬車を借りましょう。ブランシェ家の馬車であれば、ベルトラン領に入るのも容易かと」

「徒歩より楽ですからね〜」

 三人から言われて、アランは素直にブランシェ家の馬車を借りることにした。

 メイドが三人を迎賓館の裏に案内すると、ブランシェ家の紋章が付いた馬車がある。そのままメイドは馬小屋から馬を連れてきて馬車に繋いだ。迎賓館に務める者は少人数で、一通りのことは出来るようになっているとは、昔にマエリスが教えてくれた。

 マルが御者も出来ると言うので、旅を共にする顔は変わらなかった。アランはエリエントに勧められるがまま馬車に乗り込み、マルが御者席に座って馬鞭を持つ。

「エリエント、お前は?」

「許されるのでしたら、アラン様の護衛のため、中に」

「じゃあ中な。マル、行けそう?」

「いつでも大丈夫です〜」

 エリエントがアランの向かいに座り、扉を閉める。外を見ると、メイドがこちらを見ていた。

「ありがとな」

 硝子窓を開けて言うと、メイドは頭を下げた。

「ご無事でありますよう」

「……そんな大層なこと無いと思うけど」

「いいえ。今は動乱の時。何が起こるか分かりません」

 メイドは頭を下げたまま続けた。

「祝福がありますように」

「……。うん」

 会話が終わったのを見計らって、エリエントがマルに馬車を出すように指示を出す。馬鞭の音がして、ゆっくりと馬車が動き出した。

「祝福とは、珍しい言い方をしますね」

 迎賓館が小さくなってから、エリエントがぽつりと言った。アランは「そうだな」と返しつつ、心の中で「そりゃそうだ」と呟いた。

 ブランシェ家とベルトラン家が排除されかかっていた理由の一つがこれだ。彼らはソリエール教信徒のふりをしながら、実際は全く別の宗教の信徒だった。おそらく彼らは宗教とも思っていないだろうが、アランにはそのように思えていた。名付けるとするならば、魔女宗教といったところか。両家とそれに仕える者たちは、始祖の影響で魔女に捕らわれているのだ。そして、メイドが言った「祝福」という言葉。あれは本来ならこう言われるものだ──魔女様の祝福がありますように。魔女の名を出さなかったのは、エリエントとマルがいたからだ。そんな気を回すくらいなら言わなければいいのだが、言わずにはいられなかったのだろう。その実直さが、かつてのこの国では仇となって排除されかかったというのに。

 馬車は揺れる。馬上に比べれば柔らかいクッションが尻の下にあるだけマシだ。こういったものに乗り心地を求めてはいけない。アランは剣を椅子の横に置いて、座る姿勢を崩した。エリエントは真面目が服を着たように、ぴしりと座っている。座る時に邪魔となった剣は鞘ごと膝の上に乗せており、いつでも使えるように手を置いている。ブランシェ領を走っている間くらいはもっと楽にすればいいのに。

「……なあ、エリエント」

 マルが外にいるため馬車内は静かで、アランはエリエントに声をかけた。ここ最近、ずっとマルのおかげで会話が耐えなかったせいで、静寂が寂しくなったのだ。エリエントはすぐに「はい」と返す。話しかけたはいいものの、アランは特に話題を持っていなかった。

「あー……えーと。お前って、上に二人兄弟がいるんだったっけ」

 何とか捻り出した話題がそれだった。エリエントは表情を変えずにまた「はい」と返した。

「何て名前?」

「兄はリュシアン、姉はリリアンと申します」

「リュシアン……リュシアン?リリアン?」

 アランはそのどちらも聞き覚えがあった。

「剣聖リュシアンと、ベルトランのリリアン!?」

「やはり二人のことをご存知だったのですね」

「知ってるも何も!剣聖リュシアンはアンベール侯爵の長男だろ!あ、いや、最近爵位を継いだんだったか。俺はアンベール侯爵領出身だけど、彼のことはアンベール領出身じゃなくても知ってるだろ。リリアンは……個人的にだけど……。待てよ、二人って兄妹だったのか?ってことは、エリエント、お前……」

 アランの震える人差し指がエリエントに向けられる。

「お前、前のアンベール侯爵の次男坊!?」

 エリエントは間を置いた後、小さく「はい」と返した。

「ええ!?貴族だとは知ってたけど、アンベール侯爵のとことは知らなかった!言ってくれれば良かったのに。そっか、次男坊がいたのか。なあ、俺たち、同郷ってことだな?」

「そうですね」

「同い歳で同郷って、なかなか外では出会えないぞ」

「はい」

 喜ぶアランとは対照的に、彼の顔色は悪く、返事も優れない。

「どうした。酔ったか?」

「……そうかもしれません。大丈夫です。すぐ治まります」

「マルに停めてもらうか?」

「その必要はありません。本当に、大人しくしていればすぐに治りますから」

 エリエントは顔を伏せた。アランは「……ごめん」と返して口を閉じた。エリエントからの返事は無かった。

(ちゃんと顔色を見ておくべきだった……。話しかけて申し訳無いな……)

 アランは窓の外を見た。昼間三人で歩いた道を、馬車は軽々と進んで行く。揺れはやはり酷いままだ。嫌でも揺れを意識してしまう。

(……アンベール侯爵領出身なのに、エリエントのことを知らなかった。これは本当に反省すべきだな……。元々は領都出身なのに)

 エリエントが治ったら改めて謝ろうと決めて、アランは目を閉じた。暇な時は眠るに限る。

 だがすぐには眠れない。脳はずっと起きたままだ。揺れを感じながら、アランはぼんやりと考える。

(エリエントの姉がリリアンなら、先代アンベール侯爵夫人はベルトラン家の人なのか)

 アンベール侯爵領において、先代侯爵夫人は難しい人という認識で通っていた。──否、言葉を濁すのは止そう。アンベール侯爵夫人ジョルジェットは、嫉妬深く、苛烈で、誰も手がつけられない女性だった。さらに、アランはリリアンから、「母は嫉妬から何人もの女性を殺した」と聞いている。彼女の母がジョルジェットであれば納得がいく。そして、ジョルジェットは数年前に病で亡くなっていた。

(あの先代侯爵夫妻の末息子がエリエントか。じゃあエリエントは、ベルトランの血も引いているけど、眷族の血は発現しなかったんだな……)

 アランの心の中に、羨ましいという言葉が滲む。

(俺の両親はどっちも眷族じゃなかった。俺だって本当なら眷族じゃなかったかもしれないのに……)

 アランの遠い先祖がベルトラン家だった。たったそれだけで、アランは眷族という化け物として生まれてしまった。眷族であるから、アランは死ぬべき時に死ねなかった。

 目を開くと、エリエントは未だ顔を伏せたまま座っていた。金色の髪が馬車の揺れに合わせて動いている。彼の髪は、ベルトランの血によるものではない。アランも人間の色が欲しかった。人間として生きたかった。弓が下手でもいい。すぐ死んでもいい。両親との繋がりを持ちたかった。

 ふと、アランはあることに気づいた──エリエントは、眷族のことを知っているのだろうか。

『姉は昔から背が低く、見た目も若々しいままでしたので──』

 フォリアを出てすぐの夜に、彼が話していたことを思い出す。エリエントは姉リリアンの身体の成長について、違和感を持たなかったのだろうか。彼は頭が悪いようには見えない。どこかで気づいているのではないだろうか。アランが、人間ではないことに。

 アランはエリエントから目が離せなくなった。目を離した瞬間、彼が顔を上げて、アランを気味悪がって見るような気がしたからだ。

 揺れが酷い。アランは自分の胃まで揺れているように感じ始めた。口の中に嫌な苦味と変な酸っぱさが広がる。

(やばい、揺れを意識し過ぎて気持ち悪い……)

 アランは口を押さえて窓を開けた。びゅおっと風が吹き込み、エリエントも顔を上げる。

「アラン様、どうされました!?」

「う、気持ち悪……っ」

 剣を放って、エリエントがアランのそばに寄って背中を撫でる。

「吐いてしまった方が楽です。気にせず吐いてください」

「馬車、汚れる……」

 喉を迫り上がる胃液があって、アランは口を強く押さえ、口の中に広がったそれを飲み込んだ。口の端から嘔吐物が垂れる。大嫌いな苦味が口いっぱいに広がって、アランは涙目になって咳き込んだ。

「うぇぇ……にが……」

 気持ち悪さは消えたが、そんなことより苦味の方が嫌だった。エリエントはアランの足もとに跪いて、彼の口をハンカチで拭った。

「アラン様……私がついておりながら、申し訳ございません」

 先ほどぶりに見たエリエントの顔色は悪くは無かった。ただ申し訳無さでいっぱいの顔になっていて、アランは安堵した。そうだ、彼はこういう人間だ。アランを気味悪がってなどいない。彼は英雄アランという幻想に捕らわれてはいるが、アランの生存と安全を第一に考えているのだ。

「いいよ。お前も気分悪かったんだろ。……なあ、そんなことより何か食べ物か飲み物持ってないか?苦い……」

「麦水ならば。あとはマルが持っております」

「……いい、やっぱこのまま耐える」

「アラン様。口はゆすいだ方がよろしいかと」

「いい」

 麦水だって苦い。何故ただでさえ苦い口の中に苦いものを注がなければならないのか。しかしエリエントは譲らない。腰に下げていた水筒をアランの手に持たせた。

「いいってば……!」

「アラン様。口の中が不潔では、どのような健康被害が起こるか分かったものではありません」

「大丈夫だよ、そんなこと起こらねぇ!俺は風邪引いたことねぇんだから」

「移動続きで医者にはかかれません。アラン様」

「……分かったよ!」

 執拗い彼に折れて、アランは水筒の蓋を開け、麦水で口の中をゆすぎ、窓から麦水を吐き出した。口の中はさっぱりしたが、苦味はまだ残っていた。

 蓋を閉めて、水筒をエリエントに返すと、アランは深々と座った。

「もう眠る。起きたら苦味が消えてることを祈って……!」

「はい、アラン様」

 エリエントがアランの足もとから立ち上がって、剣を拾うと、向かいに座った。アランは彼が座ったのを見てから、「なあ」と声をかけた。眠るなんて、彼を足もとから去らせるための嘘だった。

「さっきは……ごめん」

「何がでしょう」

「……お前のこと、知らなくて」

 エリエントは口をキツく結んだ。

「知らないかもしれないけど、俺、元々アンベール侯爵領の領都出身なんだ。五歳の頃にアプリクスに行ったこともあって、その時の記憶は薄いけど。それが忘れていい理由にはならないよな。言い訳になるって分かってる。でも……その……ごめん」

「いえ。……いえ、大丈夫です」

 エリエントの顔色はまた悪くなっていた。

「……ですが、アラン様。一つだけお尋ねしてよろしいですか」

「何だ?」

 膝の上で剣を持つエリエントの手は震えていた。剣身と鞘が震えによってカタカタと音を立てている。いったい何を聞かれるのかと、アランも緊張した。

「あなた様は、アンベール侯爵家の屋敷に行ったことはありますか」

 それは思ってもみないことだったので、アランは返事をするのを遅れた。余計にエリエントの顔色が悪くなって、アランは慌てて口を開いた。

「びっくりした。何聞かれるのかと思った」

「……行ったことは、ありませんか」

 エリエントの声が一段と低くなる。アランは首を横に振った。

「ううん、あるよ」

 五歳になる少し前だったか。朧気な記憶ながら覚えている。侯爵夫妻の布仕度の仕事で両親が侯爵邸に行く時に、アランも将来のためにと連れて行ってくれたのだ。いい子だったと帰りにお菓子を買ってもらった。もう顔も覚えていない両親との温かな思い出だった。あの時のことを思い出す度、アランは自分が確かに愛されていた子どもだったと実感するのだ。だからこそ、人間として生まれられなくて申し訳無くなった。

 エリエントはアランの返事を聞いて、見るからに顔色を良くし、喜びで声を上擦らせた。

「でも凄く緊張したなぁ。あの時だよ、初めて貴族の屋敷に行ったのは。四歳だったかな」

「幼くとも緊張するとは、さすがアラン様です」

「それ褒めてんの?」

「はい」

 エリエントは本当に変な人間だとアランは思う。そんな変な人間だからこそ、アランの意識を暗闇から引っ張り出すのだろう。幻想を押し付けるのは止めてほしいが。

 まるで忠犬のようなエリエントの前で、アランは初めて小さく噴き出した。エリエントの目が丸くなって、アランを凝視する。

「お前、なんていうか、変わってるよな」

 久しぶりに笑ったと思う。昔に比べれば、本当に小さな笑みではあったが、確かにアランは久しぶりに笑ったのだ。

 エリエントの目には、光が見えていた。馬車の外から差し込む陽光ではなく、確かにそこに、アランという光があった。彼はただ胸に手を当て、光を見た深い感動を味わった。

「アラン様が仰られるのでしたら、そうなのだと思います……」

 彼が感動しているのを察知して、アランは肩を上げてため息を吐いた。

「普通この場面でそんな感動しないだろ。お前やっぱ変わってるよ。よくそんなんでモテるよな」

「アラン様が仰られるのならば──」

「二回目!!」

 アランの声は思ったよりも響いて、御者席から「大丈夫ですか〜?」というマルの声が聞こえた。




 馬車は何事も無く進んでいた。時折馬を休めさせる必要はあったが、徒歩よりも断然早く、楽だった。関所を通る度にエリエントが降りて通行税を払い、夜は馬車の中で風に吹かれることなく眠ることができた。

 そして、ベルトラン領を目前に控えた夜。馬を休め、昨日見張り番だったマルは意気揚々と馬車の中に入り、眠りについた。馬車の外では焚き火をしていて、今日の見張り番であるエリエントがそばに座っている。アランはその隣に座って、眠くなるまで彼との会話を楽しんでいた。

「──だよなぁ!やっぱり英雄フェリックスだよなぁ」

「彼の英雄譚は私も何度も読み返しましたから」

「好きな話ある?ちなみに俺は、戦いが終わった英雄フェリックスのもとに、生き別れた兄が帰って来る話!やっぱり苦労した人は最後報われるべきなんだよなぁ」

「私もその話も好きです。失ったはずの人が戻って来るというのは、報いとして最適なものですから。ですが私はやはり、あの話が一番ですね」

「あの話……待て、当てる。絶対当てる」

 アランは腕を組んで唸った。エリエントはそれを微笑んで見ている。

「分かった!連戦連勝の敵に作戦がバレて谷に落とされたけど、咄嗟の機転で助かって、谷から這い上がり、敵を背後から刺したやつじゃないか?」

「はい。当たりです」

「うわあ、分かる。あれも熱いよな。で、そこの英雄フェリックスの言葉が」──二人の声が合わさった。「失敗の無い成功は、失敗に劣る」

 アランは「やっぱり!」と口もとを綻ばせた。

「お前、やっぱり英雄譚好きだよな。共通点が多くて嬉しいよ」

 同い歳で、同じ領出身で、姉を持ち、英雄譚が好きという共通点は、彼を親しみ易くさせた。エリエントは嬉しそうに「私もです」と返した。

「起きたらマルにも話してやんなきゃな。昨日は英雄フェリックスが三十代の頃の話までしかできなかったから」

「アラン様のためならば、マルを縛ってでも聞かせます」

「……いや、そこまでする必要は無いだろ」

 そんなことをしなくても、英雄譚は一度聞き始めたら止まらないだろうと、アランは真剣に思っていた。

 アランは炎を暖かさを感じながら、星空を見上げた。嘘みたいに綺麗な満月だ。いつもの空より明るかった。同じ空を、リシャールもディディエも見ているかもしれない。明日にはいよいよベルトラン領に着く。そこから迎賓館のある町ソムニウムまでは、ブランシェ領の時よりも短い距離だったはずだ。

「なあ、俺、ついにディディエと会うのかな」

 アランは英雄譚を語った時よりも小さな声でエリエントに言った。頼りない声だった。後ろに両手をつくと、短い草が指を撫でた。

「数日後になると思います。私たちの方が速いですから」

「……緊張の時間が続くってわけだ」

「やはり、緊張しますか」

「するよ。だって英雄だぜ」

「あなた様も英雄です」

(ああ、またか)

 アランはエリエントを横目に見た。

「解放の英雄?こんな張りぼてがね」

「あなた様がご自分を卑下するのは、何度聞いても心苦しいものがあります」

「こっちは、そんな幻想ばかり押し付けられてずっと苦しいよ」

 エリエントは言葉に詰まったようだった。

「ごめん。こんなこと、言うつもりなかった」

 アランは彼の顔を見られず、空を見上げたまま謝った。

(本当に言うつもりなんて無かった。今日が満月だから、何でも言っていいような気分になってたのかな……)

 ソリエールの慈悲の光が、眩しいくらいに二人を照らしている。今夜のこの瞬間のためだけに用意されたように。

「いいえ。私の方が……あなた様の意思を無視して……」

 二人の間に沈黙が落ちる。火の音と風の音、遠くの川のせせらぎだけが聞こえていた。

 こうしていると、まるでこの世界には二人しかいないような気がしてくる。だからだろうか。「ここか」と思ったのだ。「今この瞬間だけは自由だ」と。エリエントはアランの方へと向いて座り直した。その瞬間、周りからぱたりと音が消えた。

「アラン様」

「……なんだよ、畏まって……って、お前はいつも畏まってるか」

 アランは後ろについていた手を膝の上に戻し、彼の方に頭だけを向けて「で、何?」と聞いた。エリエントは、アランの先ほどの緊張すら吹き飛ぶほどの、真剣な表情をしていた。全く違う表情なのに、アランはブランシェ領を出る直前の馬車の中を思い出した。あの時、エリエントはアランにアンベール侯爵邸に行ったことはあるかと聞いた。今度は何を言われるのだろう。

 エリエントはアランの目を見て、重々しく口を開いた。

「これから私が話すことは、ただ私の頭がイカれただけなのだと思ってください」

「……は?」

 何を言い出すのかとアランは訝しんだ。いつもはアランの様子に敏感なエリエントだったが、この時はアランの様子を無視した。

「私は実際、イカれているのでしょう。あなたを幽閉先へ向かう馬車の中から出した時から。こんなこと、普通は有り得ないですから」

「こんなこと……って何だ?エリエント?」

 エリエントはそれに答えない。

「こうして話せる機会は、今回限りなのだそうです。気紛れが働いたのでしょう」

 アランには意味の分からないことを言い、エリエントはか細い息を吐いた。

「アラン様。私はあなたのことを英雄だと思っています。いいえ、事実、あなたは英雄です。英雄であるべきだ」

「お前、また──」

「あなたが認めなくても、英雄なのです。英雄譚は、人が描いてようやく英雄譚になります。そして、英雄とは、英雄譚の主人公のこと。あなたはこの英雄譚の主人公なのです」

 確かに、アランの英雄譚は既にセネテーラ王国内に出回っている。傭兵時代から反乱軍、そしてアランが軍主になり、反乱軍から革命軍へと名前を変え、王朝を倒し、王になった物語だ。読んだアラン本人とリシャールが揃って頭を抱えるほど美化された物語だった。

「アラン様……私はあなたとは違い過ぎました」

 エリエントの声が徐々に震え始めた。

「あなたは、誰からも愛される。私が持てなかったものを持っている」

「何言ってんだよ。お前だって人に好かれるだろ。俺は、まあ、確かに人に可愛がられてきた自覚はあるけど」

 この十年のことは置いておいて、アランは自分が愛され、可愛がられた子ども時代を送ったことは否定できなかった。エリエントは変わらず続けた。

「あなたは光です。多くの人を惹きつける。だからでしょうね。私は、間違えたのです。間違いに気づかず、ここまで来てしまった。あなたとは、きっと、今回のことが終われば会うことはできない」

 本当に何を言っているのか分からなかった。彼の言葉は大切なことを避けているようだった。

 困惑するアランに、エリエントは砕けた硝子のような笑顔を見せた。微笑みなどではなく、満面に広がった笑みだった。

「私と会うことが無くなっても、どうか生きてください。生きて、生きて、あなたの英雄譚を紡いでください。私の贈ったものを始まりにして。それだけが私の望みで、あなたの幸せでもあると思います」

「なっ、俺の幸せを勝手に決めんな!なあ、お前、本当にどうしたんだ?贈ったものって?エリエント?」

 エリエントは笑顔のまま、小さく笑い声を漏らした。

「あなたに名前を呼んでもらうのは、本当に嬉しいことです。私の幸せです」

「エリエント、だから、どうしたんだってば」

「言ったじゃないですか。私の頭はイカれてしまっているんです」

 そう言うと、エリエントは笑みを引っ込め、優しい顔でアランを見た。

「……だからどうか、何も心配なさらないで駆け抜けてください。私と会わなくその日まで。あとはあなたの自由に生きてください」

 音が戻って来る。火の音と風の音、遠くの川のせせらぎ。まるで急に書き足されたように、それは一気にアランの鼓膜を揺らした。

「アラン様、もう眠いのではありませんか?馬車の中に戻ってください。今日は私が見張り番ですから」

 言われて、アランは自分の眠気を自覚した。欠伸が出る。ついさっきまでは、まだ起きていられると思っていたのに。

 アランは重たくなった瞼を押し上げて、「でも」と口にした。

「お前、いつも変だって思ってたけど、今日はいつもより変だ。何か隠してるだろ」

「私は二重密偵をしている身ですからね」

「……ああ、言ってたな、そんなこと。忘れてた」

「いいです。そんなことは忘れてしまっても。他のことを忘れていないなら」

 眠気がさらに酷くなって、アランは眠い目を擦って立ち上がった。

「あのさ」

「はい」

「俺、お前の気持ちが重い時がたくさんある。でも……その……」

 眠気で歪む視界の中、エリエントに意識を向ける。

「俺なんかに生きていてほしいって思ってくれて、ありがとう」

 それから自然と笑みが零れる。

「お前なら、俺がもし死んでも、ずっと覚えててくれそう。英雄譚とかじゃない、脚色抜きの俺の話を、いつか書けよ」

 ん?え、いや!俺、何言ってんだろう!?

 急に恥ずかしくなって、アランは「じゃあ!おやすみ!」と言い残して馬車の中へと急いで入った。馬車の中は外より暗く、床でマルが猫のように丸まっていた。

(寝るか……なんか、ドッと疲れた……)

 アランは長椅子の上に横になった。外からは何も聞こえず、すぐに夢が彼の意識を引き摺りこんだ。




 紙にインクが走って、過去が紡ぎ出される。彼が英雄となるその過程は丁寧に作られ、その結果として、大きな皺寄せができた。

 十六歳のアランは目を開けた。見慣れ始めた石の天井。ここは反乱軍の本拠地にある、軍主の部屋だ。

(あ、違う。昨日から革命軍って名前になったんだっけ……)

 欠伸をして起き上がる。身支度をして、最後に髪を縛った。扉が叩かれて、次にリシャールの声が聞こえてくる。

「アラン、起きてるかい」

「起きてる」

「そのようだね」

 リシャールが入ってきて、アランの姿を見る。

「うん、明るいところで見ても子どもだな」

「十六歳だって言ってんだろ!?」

「そういうことにしておくよ」

 アランが不機嫌な顔になると、リシャールは「ごめんごめん」と軽く謝った。

「アラン、君はついに今日から軍主として動き始める。君がこの革命軍の旗印となるんだ」

「ん。分かってる」

 アランが頷いたのを見ると、リシャールは「だけど」と言葉を続けた。

「僕たち革命軍は先代軍主シリルの死を重く受け止め、どんな状況であろうとも軍主である君を決して前線には出さないと決めた」

「え?」

「好都合なことに、君の強みは弓の腕だ。弓は後方だろう?」

「それはそうだけど、ただでさえ人数が減ってるのに、そんな……」

 言い淀むアランに、リシャールは畳み掛けた。

「正直、シリルが居なければこの軍……いや、あえて反乱軍と呼ぼう。反乱軍は壊滅して終わりだった。しかしそこに君が現れた。アランがいたから反乱軍は壊滅せず、革命軍になったんだよ。君を失えば、次はどうなるか分からない」

「でも俺──」

「たとえ君が去り、革命軍が無くなったとしたら、一度起こした大きな反乱を受けて、国は僕たちからさらに自由を奪うだろう。反乱分子が出ないように、反乱を起こす体力がつかないようにするのさ。分かるかい?」

「……うん」

「まずは人集めだ。シリルもやっていたことだ。だが、君と彼じゃあ何もかもが違うのは明らかだよね」

 見た目、経験、信頼、知名度。何もかもが違う。アランが人を集められるわけがない。

「そこで僕の出番だ。言っただろう。僕が導くって」

「……何するんだ?」

「それは直前になったら言うよ。朝食を摂ったら、すぐに出発するからね」

「どこに?」

 リシャールは自信に満ちた顔で答えた。

「教会さ」

 アランはぽかんと口を開けた。一拍置いて、「は!?」と声が出る。

「教会は中立だろ?今は中央についてるっぽいけど!いやそれなら余計……無理だろ!?現実的じゃない!」

「できる。君なら。何せ僕がついてる」

「何でそんな自信が持てるんだ?お前が言ったんだぞ。先代軍主シリルと俺じゃ、何もかもが違うって!」

「そうだ。何もかもが違う」

「だったら!」

「シリルは教会を味方につけられなかった」

 アランは口を閉じた。

「彼は一度教会に協力を要請している。だが結果は、教会の中央への擦り寄りだ。彼には前科があり過ぎた」

「……前科?」

「暴動と略奪のだよ」

 ここまで平民が虐げられるようになる前までは、反乱軍は暴動と略奪を繰り返していた。それは物資を手に入れるための副軍主ブリュノの計略──そう呼べば、軍師のディランに激怒されそうではある──だった。

「だけどそれはブリュノの考えたことだろ?」

「その考えを受け入れたのは?当時の旗印は?」

 アランは言葉に詰まった。確かに、シリルはそれを受け入れ、実行したのだ。皆ブリュノの方にばかりその責を向けるが、ブリュノだって、シリルが受け入れなければそれで終わっただろう。言われて初めてアランはこのことに思い至った。

「だが君は違う。君は革命軍の軍主であり、反乱軍とは違うわけだからね」

「そんなの、名前を変えただけだって言われて、受け入れられないだろ」

「そこで君のその見た目が効いてくると思わないかい?」

「は?」

 リシャールはニコリと笑った。

「さあ、話はここまでだ。朝食に行くよ」

 彼はアランの手首を握ると、軽い足取りで部屋を出た。アランは彼に置いてかれないように、手を引かれるまま急いで歩く。

「離せよ。お前、俺を何だと思ってんだよ」

「僕は末っ子だったから、ずっと弟か妹が欲しかったんだ」

「誰が弟だ!」

「僕はあと二ヶ月で十六歳だよ?君より上だよ」

「だから!俺も十六歳だってば!」

 廃城にアランの怒りの声と、リシャールの笑い声が響き渡った。

 そして、時は半々日進む。

 日は傾き始めていたが、十分明るく、昼間と呼べる時間だ。その中で、アランは緊張で足が竦んでいた。本当に上手くいくのかという不安と、何故俺がこんな格好をしているんだという不満も全て緊張に覆われて久しい。

「大丈夫だよ、君ならできる」

「だからその自信はどこから……!」

「この作戦はディランも認めたんだよ?」

 そのディランこそがシリルを前線に立たせる作戦を思いついた男なわけだが、アランはその言葉を飲み込んだ。

「本当に危なくなったら僕が間に入る。僕はこれでもそこそこ剣が使えるんだから」

 腰に下げた剣をぽんと叩く。アランは優男然とした彼を、信じられない気持ちを隠さずに見た。

「はい、じゃあ行ってらっしゃい」

「う、う、うぅぅ〜〜…………」

 アランは不満気な声を絞り出し終えると、意を決して教会の裏口の扉を叩いた。

 アランとリシャールは今、国内でも三番目に大きく、最も古い教会──ラクスの町の教会に来ていた。この教会は革命軍の本拠地から、馬を使って半々日で辿り着ける場所にある。二人で乗った馬は町の宿場に繋がせてもらっていた。

 リシャールはごく普通の商家の息子らしい格好をしている。町の入口から教会に向かう道すがら、彼は多くの女性の注目を浴びていた。そしてアランはというと──。

「はい、何用ですか?」

 警戒のこもった老女の声が聞こえ、扉が薄く開かれる。その扉もすぐに全開になり、「まあ」というため息が聞こえる。

「あらあらあら、可愛いお嬢さんだこと」

 そう、アランは今、商家の娘の格好をしていた。

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