青い春を綴る

滄(そう)

夕凪璃音+プロローグ

その1



 あ、隣のクラスは体育だったのだな、と。

 授業終わりのチャイムが鳴って窓の外を見て、璃音りおんはようやく気が付いた。サッカーボールを片付ける男子生徒たちが、大声で駄弁りあって、どつきあっている。楽しそうだ。


 その男子生徒たちの中に、知っている顔もあった。去年同じクラスだった昼場日織ひるばひおりだ、期末テストは常に学年一位で、運動もできて顔も良い。そして、誰に対しても優しい。

 あんな特別な人間がいるものだなと、去年、感心した記憶がある。


 最も、一言も喋らなかった自分のことなど、向こうは覚えている筈もないが。


 璃音は先生の号令に合わせて席を立ち、頭を下げる。次の授業までにまた『書いておこう』と思い、使い古したメモ帳を広げようとする。

 しかし直前に、クラスメイトが声をかけてきた。


「なあ夕凪ゆうなぎ。さっきの小テストどうだった?」

「おいっわざわざ話しかけんなよー」


 同時に、苦笑混じりで別の生徒がそれを制する。璃音はその様子に顔を向け、じっと彼らを眺めた。だが、口が開かれることはない。


「夕凪は喋んないんだから。姫だもんな、男子なのに。ごめんなーわざわざ話しかけて、嫌だったよなー」


 それが揶揄いを含めた言葉、声色であることに璃音は気付いてたが、何も返さなかった。彼らはまた小さく吹き出して、自分たちの話に戻っていく。

 少しだけそれを見つめたあと、璃音は改めてメモ帳を広げ、書いた。


 夕凪璃音は喋らない。

 この高校に入ってからも、二年生になって数週間経った今も。教師に当てられた時だけ、周りは彼の言葉を聞ける。

 自分が喋らないということは噂にもなっていて、それをなんでと尋ねられるのも、ひとりが好きなんだろと邪推されるのも、先程のように揶揄われるのも、璃音は慣れた。


 周りに何と言われようが、これは、璃音の精一杯だった。


 夕凪璃音は喋らない。

 ……喋れない。





 周りの人間を変えることはできない。

 状況を変えるには、自分が変わるより他ない。しかしひとつの状況下に置かれている時、変わろうと強く思ったとしても、一歩を踏み出すことが難しい時がある。


 璃音もそうだった。

 彼は過去のトラウマから、人とコミュニケーションを取ることができない。

 当然、このままではいけないと思っている。だが、彼は足踏みしていた。授業中の教師とならば物理的な距離もあり、なんとか答えることができる。教師も璃音の事情をある程度知っている。

 しかし、近くにいる人と話そうと口を開けたとき、ぎゅっと喉が締め付けられるような痛みと、自分に一歩を踏み出させない『負の言葉』が次々と降って湧いてくるのだ。


 ──お前の言葉なんて誰も欲しがってないよ。

 ──誰もお前を理解しないし助けないよ。

 ──結局お前はいらないんだよ。


 ──なんで生きてるんだ?


 ……それが辛いから、今は喋ろうとすることすら、ほとんど無い。自分の意気地なさが情けなくなり、その度に喉が痛くなる。

 それでもほんの少しだけ。辛うじて、自分のために続けていることがあった。いつかの自分を少しでも安心させるために、いつか、踏み出せるその日を信じて。

 それが、『書くこと』だ。


 璃音は今日もホームルーム後、放課後に教室に少しだけ残って書いていた。自分の使っている教室は時間が経てば吹奏楽部が使うことになっており、その時間までは自由に残れるのである。

 まあ、他の人は璃音と違って部活に行くか帰るので、璃音しか残っているものはいないが。

 とはいえ璃音も吹奏楽部の人に気を使わせたくないため、早めに教室を出るようにはしている。そもそも、長く書くものでもない。

 発見できなければ、書かない日もあるのだ。


 今日も少しだけ書いて、璃音は荷物を纏めた。一応、窓も締めておく。教室にゴミが落ちていないか気にかけて、落ちていたら、箒で掃いて。居残りさせてもらった教室に最低限の礼を尽くして、外に出る。

 いつもなら普通に帰れる。だが今日は違った。

 誰かが左から駆けてきたのである。


「わぁっ!!」

「……っ」


 ぶつかった拍子にフラッシュバックする。押される、重心がずれる、足元がふらつく、浮遊感が襲って──、

 来ない。廊下に倒れ込んだ。は、はっ、と璃音は息を整え、床を確かめるように触る。


「ごめんっ、大丈夫!? 捻ってない!?」


 かけられた声は女子のものだった。璃音は顔を上げる、クラスメイトのひとりだ。

 朝屋晴香あさやはるかという彼女は非常に汗だくで、ここまで急いで来たのだろうと用意に察せる。璃音は少し怯みながらも頷いた。


「本当にごめんね、あたし忘れ物しちゃって慌てちゃって……! あぁ、荷物もぶちまけちゃってる、ごめん! 拾うの手伝うね!」


 そう告げて晴香が手を伸ばして来たとき、璃音は思わずびくっと肩を跳ねさせ、彼女が拾うよりも先に物を鞄に入れた。

 そしてそのまま勢い良く立ち上がり、走り去る。


「あ、待って!」


 呼び止められたが止まれなかった。急に立ったから転けそうになったが、構わず足に力を入れた。心臓がバクバク鳴っている。

 あんなに近距離に他人が来たのは、あの日以来だった。今の璃音の現状の原因のひとつ。どうしても忘れられない過去。


 母親に海に突き落とされた、あの時。


 学校の外まで走って、立ち止まって、ふらつきながら息を吸った。吐いて、吸って、酸素が変な場所に入る、咳き込む。ここは海じゃない、ここは海じゃないと、何度も唱える。

 道の端でしゃがんで、暫く呼吸をして、ようやく喉から変な音がしなくなった。はあ、と最後に大きく息を吐いたら、少し冷静になって、ああ、朝屋さんに悪い態度を取ってしまったな、と思い至る。


 ずっとこんな自分で、不甲斐ない。

 璃音は立ち上がり、ゆっくり歩き始めた。予想外のことはあったが結局、自分が変われていないだけの話だ、なんて考えながら。




 璃音が住んでいる場所は、高校から数百メートル離れた先にある駅から、電車を乗り継いで、更にバスに乗った先の田舎である。

 バスから降りて少し歩いた先にあるアパートで、祖父母の仕送りのもと、独り暮らしをしていた。

 この場所を選んだのは、祖父母が様子を見に来やすいようにである。中学生の頃は彼らの元で暮らしていたが、……あそこは、あの海に近いから、高校に行くためにはあそこを出なければならなかった。

 優しい二人は何も文句など言わず、過ごしやすいように生きなさい、と告げてくれる。その言葉が苦しくなくなるのは、いつになるだろうか。


 玄関のドアを開けると、自分のものではない靴があった。玄関を開けてすぐにある台所から、醤油のいい匂いもする。これはおばあちゃんの方だな、と璃音は思い、靴を脱いでリビングに向かった。

 予想は当たり、クッションに座ってテレビを見ていた彼女は璃音に微笑みを向けてくる。


「おかえりなさい、璃音くん」


 ただいまの代わりに会釈する。荷物を部屋の角に置いて、自分ももう一つのクッションに座った。祖母はのんびりと話し始める。


「あのねぇ、隣の墨田さんからお野菜を貰ったからね、今日それ持ってきたから璃音くん食べてちょうだい。私たちだけじゃ食べれないくらい貰っちゃってねえ」

「……」

「あとついでに、じいじがお魚釣ってきたから、さっき煮付け作ったよ。食べる?」


 食べる意味を込めて頷き、立ち上がろうとする。しかし「いいのよぉ、座っときなさい」と促され、腰を下ろした。来てくれるのは有り難いが、居心地の悪さを感じてしまう自分は祖母不幸者だろうか。

 廊下を開けたまま台所に向かい、彼女は茶碗に米をよそう。


「今日ね、病院行ってきたよ」


 これは「母に会ってきた」ということだ。璃音は、元より喋らないが、これを聞いた時にどう反応すれば良いのかまだ分からない。

 恨みは無いのだ。だからといって、想う心も今は無い。残っているのは大きな悲しみだけだ。


「あの子は今日も泣いて謝ってたよ、謝って許されることじゃないって、あの子も分かってるけどね……でも、少しは元気になってるみたい」


 祖母が皿を持ってくる。


「それでね。璃音くんに、会いたいって。夏頃に。お医者さんは、璃音くんが良ければ会っても良い状況だって言ってた」

「……」

「答えはすぐじゃなくていいのよ。無理はしないで」


 璃音は少し迷うが、何かをする前に彼女が「いただきます」と手を合わせた。璃音もそれに続いて手を合わせ、箸を持つ。魚の煮付けは口の中でほろりと解けて、すぐに消えた。味がしたような、しなかったような──璃音には分からなかった。


 食べ終わり、祖母は皿を洗ったあと、上着を着る。


「それじゃあ私は帰るね。璃音くん、元気で」


 彼女を見送って、ふう、と璃音は息を付いた。優しさが痛いなんて贅沢な話だろうか。ずきずき痛む胸を抑えて、リビングに戻った。宿題をやらなければならない。

 そうして鞄を開けて、教科書とノートを出す。そうすれば、鞄の中が少しスッキリする。

 だから気付いた。


 メモ帳が無い。


「……!!」


 慌てて鞄の中のものを全て出す。しかしやはりメモ帳は見つからなくて、璃音はすぐに思い至った。あの時だ、朝屋晴香とぶつかった時に落としたのだ。だから彼女は自分を呼び止めたのだ。

 ぐるぐると頭の中で考える。彼女は中身を盗み見るような性格ではない、筈だ。去年は違うクラスだったから彼女のことをまだよく知らない、だから確証はない。

 でも万が一、落ちたその瞬間に、ページが開いてたらどうだろう?


 どっと滝汗が出た。考えても仕方がないのに、怖くて仕方が無かった。宿題をやろう、という気が全く起きず、だからといってこのまま固まっていても何も始まらない。

 璃音はぎこちない動きで宿題分の教科書を手に取り、机に置いた。

 その日の夜は全然眠れなかった。


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