裂け目
春の夕方は、いつも少しだけ冷える。
昼間の暖かさを吸い込んだコンクリートが放つわずかな温度が、風に削られる。
校舎の影は長く伸び、グラウンドの地面をゆっくりと飲み込んでいた。
志藤凌介は、昇降口の外にあるベンチに腰を下ろしていた。
帰る気になれず、かといって誰かを待っているわけでもない。
ただ、胸の奥で何かがざわざわと形を変え続け、その輪郭を掴めないまま時間だけが過ぎていく。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面には、凛太からのメッセージ。
〈結局帰った?〉
〈さっき玲ちゃん職員室でなんか言い合ってたぞ〉
〈大丈夫なんかなあ〉
その言葉に、小さな棘が心臓に刺さる。
――見ていたのか。
自分が職員室前で立ち止まっていたことをではなく、
高槻玲が再び“戦っていた”ということを。
凛太は、誰よりも人の空気を読む。
それなのに、自分が踏み込むべきラインをいつも直感で判断する。
その無邪気さは、時に残酷であり、時に救いでもあった。
〈何を言ってたんだ〉
と返信しかけて、指が止まる。
知りたいのか。
踏み込みたいのか。
それとも――。
スマートフォンの画面を伏せたまま、夕焼けに照らされた地面を見つめる。
そのときだった。
「……志藤くん?」
背後から、控えめな声が聞こえた。
振り返ると、高槻玲が立っていた。
風に揺れる前髪が夕日を吸い込み、柔らかな橙色に染まっている。
その光の中で、彼女の表情はいつもより少しだけ薄く見えた。
「どうしたんだ」
「……志藤くん、こないと思ってたけど」
彼女は言葉を選ぶように、ゆっくりと視線を落とした。
凌介は胸の奥がざわつくのを感じた。
――待たれていたのか。
「帰らないの?」
「……まだ」
「そっか」
玲は、ベンチの端にそっと腰を下ろした。
座る位置が微妙に遠く、その距離が彼女の迷いの形を正確に示していた。
「職員室、どうだったんだ」
聞いた瞬間、自分の声の硬さに驚く。
玲は横顔のまま、小さく息を吐いた。
「別に。よくあるやつだよ。 ‘大人の都合と、生徒の都合’ がぶつかる、いつもの話」
「……怒られたのか」
「怒られたというより、 ‘理解してくれ’ って言われた感じ。……できるわけないのに」
その呟きには、決して大声ではないのに強い熱が宿っていた。
怒りではなく、消耗に近い熱。
しばらく沈黙が落ちる。
その沈黙は、言葉よりも雄弁だった。
「ねえ、志藤くん」
玲が静かに顔を上げた。
「どうして、昨日あんなふうに私に声をかけたの?」
凌介は、答えに詰まる。
喉の奥に言葉が溜まり、それが形を持たないまま沈んでいく。
「……気づいたから、だよ」
「気づく人って、疲れない?」
玲の声は、風にさらわれそうなほどか細い。
けれど、その問いは鋭くて、胸を正確にえぐった。
「疲れるよ。……正直に言うと」
「でも、気づくのをやめられない?」
「……うん」
玲は、ほんの少しだけ微笑んだ。
その笑みは、喜びのものではなく、どこか痛みを分け合うような笑みだった。
「私もだよ」
短い言葉だった。
だが、その一言で、彼女の抱えていたものの輪郭が急に見えた気がした。
*
夕焼けが濃くなり、空が赤い膜のように広がる。
校舎の壁を照らす光の角度が変わり、影の形がじわじわと伸びていく。
「……志藤くんってさ」
玲が、夕陽に染まった手を膝の上で組みながら言った。
「三浦くんと、仲いいよね」
その言い方には、探るような響きがあった。
「ああ。……まあ、そうだな」
「楽しそう」
短く、乾いた言葉。
けれど、その奥には感情がいくつも層になって重なっていた。
「三浦くんって、誰とでも明るく話せるじゃない?」
「そうだな」
「すごいなって思う。そういう人って。……私、ああいうふうになれないから」
「別に、なれなくてもいいだろ」
「なれなくてもいいなら、いいけど……。でも、あの子みたいにはっきりできるのは、羨ましい」
あの子――凛太。
玲が凛太に向けるまなざしに、嫉妬とも憧れともつかない揺れが混ざっているのを、凌介は感じ取った。
「志藤くんは、凛太くんのこと、どう思ってるの」
突然の問い。
胸の奥が跳ねる。
「どうって……友達だよ」
「それだけ?」
玲の声は、やわらかくて、それでいて鋭い。
静かな水面に小石を落とされたように、心が波立つ。
「……何が聞きたいんだ」
「別に。ただ……」
玲は、夕焼けの方向へ視線を移した。
赤く焼けた光が瞳に溶け込み、輪郭を奪う。
「志藤くんて、三浦くんといる時が、一番自然に見えるから」
言葉が、喉の奥に引っかかった。
玲の言葉が、なぜこんなに痛いのか、自分でもわからなかった。
「……そう見えるだけだよ」
「ほんと?」
「ほんとだ」
言った瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。
嘘ではないが、完全に本心でもなかった。
凛太といるとき、確かに気が楽だ。
だが同時に、凛太の視線はときどき深すぎる。
底まで届かないのに、境界だけは触れているような、あの不思議なまなざし。
「三浦くんってさ」
玲がゆっくりと続ける。
「誰にも見せない顔、ありそうじゃない?」
その瞬間、凌介は息をのんだ。
――見えているのか。
凛太の “薄い膜のような違和感” を。
それが光の加減で虹色に揺れることを。
玲は、俯いたまま小さく首を振る。
「私、あの人のこと嫌いじゃないけど……ちょっと怖い」
夕風が吹き抜け、玲の髪が揺れる。
その一瞬、光と影が複雑に交錯し、彼女の表情が読めなくなる。
「志藤くんは、怖くないの?」
その問いは、真っ直ぐに胸を貫いた。
凛太は怖いか――。
考えたことはなかった。
ただ、気づいてはいけないものに、いつか気づいてしまいそうな気配がするだけだった。
「……わからない」
ようやくの言葉は、あまりにも誠実で、あまりにも不安定だった。
玲は、静かに頷いた。
「わからないって言えるの、いいな」
「そんなの、誰でも言えるだろ」
「私は言えないよ」
玲の声は、夕闇の端でかすかに震えていた。
そしてその震えが、次の瞬間、ふっと途切れた。
「……ごめん。変なこと言った」
「別に」
「でも、ありがとう。……話してくれて」
玲は立ち上がった。
腕に抱えた教科書が、夕日を反射して淡く光る。
「じゃあ、また明日」
その言葉は、ほんの少しだけ柔らかかった。
彼女が去ったあと、凌介は静かな空気の中でしばらく動けなかった。
夕焼けはいつの間にか薄れていた。
空は紫に近い青へと変わり、校舎の窓に映る自分の姿は輪郭が曖昧になっていた。
――裂け目。
人と人の距離。
自分と世界の境界。
凛太と玲のあいだで生まれ始めている、小さな亀裂。
その裂け目が、これからどこへ向かうのか。
凌介にはまだわからなかった。
ただひとつだけ確かなのは――
世界の見え方が、もう昨日までとは違うということだった。
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