《短篇》その爪痕は、わたしの手の甲に

シェパード・ミケ

一章 駐車場に逃げ込んだ人たち


夜の街は、静かじゃない。


静かそうに見えるだけで、耳を澄ませば、あちこちから音がする。

遠くのサイレン、止まったままの電車のブレーキの軋み、どこかで鳴き続けている犬。

それから、ときどき混ざる、あまり聞きたくない音。


誰かが走る足音と、梯子を駆け上がる隊員のブーツの音と、

悲鳴になりきらなかった声。


わたしは、それをごっそり聞き流す練習を、もう何年もしている。


 


「葉月ー。無線入ってるよー。今日もお仕事だってさ」


官舎の廊下から、間延びした声が聞こえた。

部屋のドアを開けると、灯が片手をひらひら振って立っている。

髪をひとつに結んで、制服のジャケットは前を閉めずにひらひらさせて、

いつもどおり、緊張感があるんだかないんだかよく分からない顔。


「聞こえてる。ボリューム上げすぎ」

「だってさー、あの人たち声ちっちゃいんだもん。あたしたち命張ってんだから、もっとハキハキ喋ってほしくない?」


灯は笑いながら、じぶんの耳の中の受信機を指でとんとんと叩いた。

わたしも同じように、耳の内側に触れる。今も、冷たい機械の声が続いていた。


『第七封葬班、至急出動。第二危険区域・東側立体駐車場にて屍妖出現。一般人避難中』


「ほら、駐車場だって。逃げ込んでくれてるだけマシだね」


灯が軽く肩をすくめる。


「マシかどうかは、着いてから」

「真面目だなー葉月は。じゃ、行こっか。今日も元気に死体処理」


「その言い方やめろって、前にも言った」


言いながら、わたしもブーツの紐を締め直す。

黒いジャケットの内側には、変身用の術式が縫い込まれていて、

一度袖を通したら、今日はもう普通の人間には戻れない。


 


わたしたちの仕事は、ざっくり言うと二つ。


屍妖を倒すこと。

そして、死体を「残さない」こと。


屍妖は、死んだ人間と、その周りのものがぐちゃぐちゃに混ざってできた怪物だ。

放っておくと増える。増えると街が削れていく。

削れた街の隙間に、また新しい屍妖が生まれる。

そうやって、世界が少しずつ欠けていく。


だからわたしたちは、欠けたところに蓋をする。

光で焼き切って、焼け残りをさらに砕いて、変な動きをするものは全部止める。

その光を扱えるから、「魔法少女」なんて呼ばれているだけで、やっていることは、

火葬と清掃の、ちょっと派手な版だ。


 


「ねえねえ、今日さ」


階段を駆け下りながら、灯が横に並んでくる。

官舎の出口には、簡易の防音結界が張られていて、扉を抜けた瞬間、夜の冷たい空気が胸に刺さった。


「何」


「もしあたしがさ、今日みたいな現場で死んだらさ」


灯は、軽い調子のまま続ける。


「ちゃんと撃ってよ。……ぐずぐずしてたら、絶対あんた後悔するから。」


「……何を」


「決まってんじゃん。ラグナレイ。

 中途半端に残されるの、いやなんだよね。

 どうせなら、きれーいに、ビームでバシュッて」

「あの姿で、葉月のこと追いかけ回したくないんだよね」


「縁起でもないこと言うな」


わたしは前だけを見たまま答える。


「ルールだろ。戦死者は、その場で処理。

 あんたに限らない。わざわざ言うな」


「んー。でもさ。葉月なら、ちゃんとやってくれそうだし」


灯はそう言って、わたしの横顔を覗き込む。


「“かわいそうだから撃てなかった”とか言って、

 変な隊員にフォールンにされるのだけはマジ勘弁なんだけど」


「しない」


「なにを」


「撃ち損ねたりしないって意味」

「……あ、今のちょっとカッコよくない?」


「うるさい」


灯は、くすくす笑う。

その笑い声を聞きながら、わたしは、自分の胸の奥が少し重たくなるのを感じていた。


撃てないかもしれない、なんて、考えたことがない。

そう思っていたはずなのに、

灯にそう言われると、ほんの少しだけ、言葉が胸に引っかかった。


 


第二危険区域までは、官舎から走って十分もかからない。

かつてはショッピングモールや映画館があったはずの一帯は、

今は半分くらいが封鎖されて、街灯もところどころ死んでいる。


立体駐車場は、その端っこにあった。

錆びた鉄骨の骨組みがむき出しになっていて、

入口のシャッターは、途中で止まったまま斜めに歪んでいる。


遠くからでも、嫌な匂いがした。

雨で薄まっても消えない、古い血と焦げたゴムの匂い。

それに混ざって、今ついたばかりの、生の鉄臭い匂い。


「うわ、だいぶやってるね、これ」


灯が顔をしかめる。


『第七封葬班、現着確認。一般人四名、二階スロープ途中の車内に避難中。大型屍妖一体、小型数体。可能な限り民間人優先で保護。——以上』


無線の声は、感情を乗せないように訓練された声音で、それだけを告げて途切れた。


「四人か。車一台分だね」


灯が短く息を吸い込む。


「いつもどおり。あんたは外側を固めて」

「はいはい。ルミナシェル担当、がんばりまーす」


 


駐車場の入口で、わたしたちは足を止めた。

薄暗いスロープの奥から、何かが這うような音がする。

車のドアがきしむ音と、押し殺した泣き声。

重たい何かが、コンクリートを引きずる低い音。


「——変身する?」


灯が、真面目な声になる。


「もうしたほうがいい」


わたしはうなずく。


二人並んで、短く息を合わせる。

掌を胸の前で重ねて、意識を落とす。


「サイン・オン」


小さく呟いた瞬間、ジャケットの内側の術式が燃え上がるように光った。

視界が一瞬だけ白くなって、すぐに戻る。

普通の生地だったはずの布が、焼き印を押されたように熱を帯びて皮膚に吸着する。 肺が圧迫され、守ると同時に自由を奪う、戦闘用のスーツに変わり

腰のホルスターには、いつものライフル型の杖が収まっている。


灯のほうを見ると、彼女も同じように、光をまとっていた。

肩から背中にかけて、羽根のような光がふわりと揺れている。


「はい、魔法少女、起動完了っと」


いつもどおり軽い声。

でも、その足取りは、さっきより少しだけ静かだ。


 


「行くよ」


わたしはライフルを握り直す。

スロープの奥で、小さな影が三つ、四つ、こちらに向かって動いた。


這う音が近づいてくる。

人間だった頃の顔が、まだ半分だけ残っているような輪郭。

首の角度がおかしくて、膝が逆に曲がっていて、

それでも、こちらに来ようとしている。


「小さいの、四。私がやる。灯は車」


「了解。——ルミナシェル、展開するね」


灯が指を鳴らすように手を振ると、スロープの少し上、

避難しているはずの車のまわりに、淡い光の殻がぱっと咲いた。

波紋みたいに広がる光が、車を包み込んでいく。


わたしは一歩前に出る。

靴底の下で、乾いた何かが砕ける音がした。

骨かもしれないし、ただの石かもしれない。確かめる必要はない。


ライフルを持ち上げて、最初の影に狙いをつける。 「ア、あ、ガ、」 影の喉奥から、濡れた雑巾を絞るような音が漏れた。


深く息を吸い込んで、吐き出す代わりに、呪文を乗せる。


「——ライゼクト」


光の刃が、わたしの指先から伸びていった。

夜の空気が、静かに裂ける音がした。

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