Track 26:ここは譲りません

 弦世いとせがキッシュの最初の一口を飲み込んでから本題に入った。


「まず、改めてバンドに入れていただいたこと、感謝します」

「……ん? いや、わざわざ礼を言われるようなことじゃないだろ」

「わたくしはまだ未熟で、ロックについても何も分かっていません。バンドに入る動機も完全に自分のためでした。それを天晶さんは全部知っていながら受け入れてくださって、本当に感謝しています」


 弦世がナイフとフォークを置いて、頭を下げて丁重に礼をする。


「だから大げさだって。俺もバンドの音を豊かにしたかっただけだし」

「わたくしのピアノ、本当にそれができるでしょうか……」

「弦世の技術は文句なしだよ。自分の欠点を気にしてるかもしれないけど、あれはソロだから欠点なだけで、バンドなら問題ない」

「そうでしょうか……ええ、そうだといいんですが」


 音楽のことだから、優しい慰めの言葉は言えないし、壁を突破する手助けの約束もできない。そんな寂しそうな顔されても、俺にはどうしようもない。


「わざわざ昼飯に誘ってまで礼を言うことないだろ。メッセージでも十分だったのに」

「主にはそうですが、他にも相談したいことがあります」


 気持ちを落ち着けるためか、弦世は小さく一口コーヒーを飲んでから続けた。


「実は調べたのですが、88鍵のキーボードはあまり持ち運びに便利ではないようで。コンステラの大スタジオには88鍵が設置されていますので、できれば今後の練習はそちらを使いたいんです。追加料金はわたくしが直接負担します」


 88鍵は確かにギターやベースみたいに一人で気軽に背負って歩けない。弦世に毎回キーボードを持ち運ばせるのは現実的じゃない。


「大スタジオか……悪くないな。Mサイズは五人だとちょうどいいというか、ちょっと狭い。望楽みこのが動き回るの好きだし」


 新歓でも練習でも、望楽はギターを抱えて飛び跳ねている。確かに観客を盛り上げるにはいいけど、少なくとも練習では必要ないだろ。

 Mスタジオは五人で練習するには十分だけど、望楽が自由に動き回れない。彼女も手足が引っかかると文句を言っていたし。


「いいな、望楽に言っとく。あいつも喜ぶだろ。料金は今まで通りみんなで割り勘でいいよ、気にすんな」

「いえ、わたくし個人の要望なので、お金の部分は――」

「いいって。どうせ望楽も変えたいって言ってたし、大したことじゃないよ。これはバンドをより良くするための出費だし、みんな気にしない……っていうか、そもそも気にするほどの金額じゃないし」

「それでは……ありがたく」


 結局、弦世が食事に誘ったのはこの二つのためだけだったんだ――そう思っていた。会計のとき、弦世が俺より先にレジに立った。俺が財布を取り出そうとしたときには、もうクレジットカードを出していた。


「一緒にお願いします」

「かしこまりました」


 そして俺がまだ反応できないうちに支払いが完了した。


「……え?」


 他の客も並んでいるから、訳も分からないまま弦世と一緒に店を出た。


「ちょっと待って、俺の分の金払わせて」

「お気遣いなく。最初から天晶さんにご馳走するつもりでしたので」

「え、なんで?」

「お礼です」

「……何の? バンドに入れたこと?」


 それならさっきお礼言われたじゃん。


「それだけではお礼として浅すぎます。天晶さんが時間を割いてキーボード選びに付き合ってくださることへのお礼、ということでいかがでしょう」

「気にしすぎだろ。いいって、弦世が誘わなくても、どうせ家で時間潰してただけだし」

「それでもわたくしは何かすべきだと思いました。でも今のわたくしにできることはこれくらいしかなくて、申し訳ありません」

「申し訳ないなら受け取ってくれ。俺の方が申し訳なくなる」

「ここは譲りません。天晶さん、受け取ってください」


 弦世は俺が差し出した札を見もせず、大通りに向かって歩き出した。


「おい――はあ……」


 ため息をついて財布をしまい、彼女の後を追った。

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