「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩――
八神 アキト
序章――時代の終焉より、始まりの原点へ
序章 零の刻
夏の初めだというのに、気温は氷点下へと落ち込んでいた。
長らく陽光に触れぬまま朽ち果てた街路には、生気というものが完全に失われている。
不穏な風が枯葉をさらい、紫煙のような霧が空一面を覆い、つい先ほどまで大いなる劫を受けたばかりのこの都市に、さらに深い影を落としていた。
崩落し裂けた地面からは、異形の胞子が這い出し、廃墟と化した街をじわじわと侵食していく。
かつて「新世界の中心」と讃えられたこの地には、今や死寂のみが横たわっていた。
墓地に並ぶ墓碑の多くは倒壊し、粉々に砕け散っている。
死者の慰めとして植えられた桜も、折れた枝をさらしたまま瓦礫に寄り添うように伏していた。
その荒涼とした場所に、ただひとり、墓を掃く女性の姿があった。
灰を思わせる白い長髪が冷たい風に揺れる。
二十にも満たぬ若さでありながら、彼女の表情には既に歳月の風霜をくぐり抜けた者の深い影が宿っていた。
彼女は二つ並んだ墓碑の前で、静かに両手を合わせ、長い沈黙の祈りを捧げる。
しばらくして、そっと墓の表面に積もった塵を払うと、背を向ける――だが歩き出す前に、もう一度だけ振り返った。
「……行きます。
加藤さん……光志……」
天羽町――。
古き商店街が連なる旧市街には、人々の記憶が幾重にも染み込んでいる。
住民のほとんどが既に避難してしまった今日でさえ、ただ一軒、暖簾を掲げたままの店があった。
中華料理店『緋龍館』。
店主の日向 明と、その妻・翔雲は、いつもと変わらぬ調子で店の仕込みをしていた。
翔雲は片腕を失って久しいが、その所作はなお淀みなく、美しく、力強い。
二階から、まだ幼さの残る少女が眠たげな目をこすりながら降りてくる。
夫妻が育てる養女――南 未晞である。
「ん……?
みんな避難したのに、今日は誰か来るの?」
「来るさ。
とても大切なお客さんだよ。
未晞、早く顔を洗っておいで。」
外は紫がかった孢子の霧に包まれている。
日向は暖簾を整え、看板を外へ出すと、くぐもった声で呼び止められた。
「……日向さん。」
振り向いた先、白い長髪が揺れる。
どれほど離れていても見間違えることはない――
「おお、蛍(ほたる)か。
立ち話はよせ、中へ入りなさい!」
「お邪魔します、日向さん。」
彼女の名は星野 蛍。
墓参りを終え、その足で緋龍館へ向かって来たのだ。
「蛍ちゃん、いらっしゃい。」
変わり果てた街並みとは対照的に、翔雲の笑顔は昔と何ひとつ変わらない。
その温もりに、蛍の胸の奥の氷がわずかに溶けていく。
「翔雲さん……。
いつものラーメン、お願いしてもいいですか?」
「もちろん。少し待ってね。」
「蛍お姉ちゃん!? 来てたの!?」
身なりを整えた未晞が弾む声で駆け寄ってきた。
「未晞、久しぶり。ちゃんと言いつけ守ってる?」
「当たり前だよ! 言われなくても、いい子にしてるもん!」
蛍はそっと未晞の頭を撫でる。
「未晞……これから何があっても、笑って、前を向いて生きていくんだよ。
緋龍館も、翔雲さんたちも、あなたが守るんだ。
蛍お姉ちゃんと約束、できる?」
「……うん! 絶対に守る!」
まっすぐな瞳が揺らぎなく蛍を見返す。
その強さに、蛍はかつて自分が翔雲に導かれた日の面影を重ねた。
その時――
二階の奥から、かすかな泣き声が響いた。
静まり返った店内に、幼い嗚咽だけが澄んだ水音のように揺れる。
「あ……北斗だ。
未晞、お願いできる?」
「うん、任せて!」
小さな足音が階段を駆け上がる。
セピア色の店内に、未晞の明るい声が消えていくと、ふたたび微かな静寂が落ちた。
翔雲が差し出した丼。
そこから立ち昇る湯気は、まるでこの町に残された最後の温もりのようだった。
「特製の煎り玉子豚骨ラーメンだよ、蛍。」
「……今日は卵が二つ? それに、チャーシューも……。」
「気にしないで。特別な日だからね。」
蛍は箸を合わせ、息を整え、そっと麺を口へ運ぶ。
濃厚な香りが、長く凍えていた心臓をようやく人間らしい温度へと引き戻す。
――味はいつもどおり。
けれど、胸の奥がじんわり熱くなる。
思い出が、同じ味をしている。
翔雲も日向も、黙って蛍を見守っていた。
三人とも気づいていた。
これは別れの味だ――と。
静かな空気を紛らわそうと、日向はリモコンに手を伸ばし、古びたテレビをつけた。
砂嵐混じりの映像。
やがて、疲れた笑顔のキャスターが画面に現れた。
『こちら、聖都ニュース。
キャスターの佐久間法子です――』
テレビ越しの声は微かに震え、しかし懸命に職務を果たそうとしていた。
『市内の胞子汚染率は、現在六〇%に到達。
まだ避難されていない方は速やかに指定区域へ……』
蛍は、テレビに映る女性をしっかりと見つめた。
自分がかつて救った人のひとり。
『……それから。
個人的な言葉で恐縮ですが――
この世界を、誰よりも静かに守り続けてくれた “ある女性” に、心からの感謝を伝えたい。
彼女が背負ってきた痛みを、私は忘れません』
声が震え、キャスターは一瞬、唇を噛んだ。
職業柄、涙は見せられない。
しかし、その瞳の奥は確かに濡れていた。
映像はノイズを挟みながら薄れていき、ついには砂嵐だけを残した。
日向は静かにスイッチを切った。
蛍は、少しだけ息を吸った。
「……日向さん、翔雲さん。
お二人は避難しないんですか?」
夫妻は顔を見合わせ、ゆっくりと頷いた。
「天羽町と緋龍館は、私たちのすべてだ。
ここを離れる理由はないさ。」
「それに――」
「……それに?」
「私たちは、ずっと信じているんだよ。
“蛍なら大丈夫だ” ってね。」
蛍は、静かに丼を置いた。
「……ありがとうございます。
本当に、お二人のおかげで……私はここまで来られました。」
その時、玄関の引き戸が大きく開いた。
「よーし! お邪魔します!」
元気な声とともに、短髪の若い女性が大きなスーツケースを転がしながら入ってくる。
「水羽先輩!?
アメリカから戻ったんですか!」
「戻ってきたよ! 皆に会いたくなってね。
事前連絡しなかったのはごめん!」
映画のフィルムが一気に彩度を取り戻したかのように、店内の空気が明るくなる。
――彼女。
“水羽 言月”。
蛍と同じ年月を走り続けた、最後の仲間。
「日向先輩、翔雲先輩、久しぶり!
あーもうお腹空いた! 私もラーメン!」
「はいはい、少し待ってね、言月。」
水羽の明るさは、さっきまでの静かな余韵を優しく吹き飛ばした。
それでも蛍の胸には、別れの気配が確かに混じっている。
水羽はスーツケースから大きなアルバムを取り出した。
「ほら、見てよ。
皆で過ごした頃の写真。全部持ってきた。」
蛍はページをめくった。
ページをめくるたび、
色褪せた思い出が、映画のカット割りのように鮮やかに蘇っていく。
翔雲が少女だった頃の写真。
日向の若い頃の、照れくさい笑顔。
蛍がまだ黒髪で、少しだけ人見知りだった頃の姿。
そして――
「……光志(こうじ)。」
優しく笑う少年の写真を触れた瞬間、蛍の手が僅かに震えた。
「蛍……」
水羽はそっと、蛍の肩に手を置いた。
「もし、あの時……もっと上手くやれてたら……
光志も、真也も、皆――」
「言月。」
日向が静かに首を振った。
「過去は変えられない。
だからこそ、明日を守るんだ。」
蛍は目を閉じ、深く頷いた。
「――はい。」
しばらくして、蛍は席を立つ。
穏やかな時間が終わりに近づいていた。
「水羽先輩。
明日、加藤さんたちの墓参りに行くなら……
光志にも、花を一束お願いします。」
「任せて。絶対に行く。」
「日向さん、翔雲さん。
本当に、お世話になりました。」
「蛍、忘れないで。
ここにいる皆の心は、いつも君の味方だよ。」
未晞が北斗を抱きしめながら走ってきた。
「蛍お姉ちゃん、これ見て!」
頭には、蛍が昔プレゼントしたウサギの髪飾り。
「未晞……」
「これね、大事な宝物なの。
蛍お姉ちゃんみたいに、強くなって、この家を守るんだよ!」
蛍は膝をつき、小さな頭を優しく抱いた。
「……ありがとう。
本当に、ありがとう。」
そして――
翔雲と蛍の視線が交差する。
言葉はいらなかった。
たった一度の、深い抱擁で足りた。
「……行ってらっしゃい、蛍。」
「……はい。
翔雲“姉さん”。」
店を出る蛍の背中は、白い霧の中へ溶けていった。
二度と戻らないことを、誰もが悟っていた。
蛍は、霧に包まれた天羽町を静かに歩いた。
瓦礫の影を縫って吹く風は、まるでこの街の最期を告げる挽歌のようだった。
かつて多くの人々が行き交い、笑い声で満ちていた“坠星川”。
幼い頃、願い事を橋の上で語り合った記憶が、ふっと脳裏をよぎる。
――光志と並んで歩いた帰り道。
川面に揺れる夕陽を見ながら、
「いつか映画の主人公みたいに強くなりたい」
と、笑っていた自分。
あの日の少女は、もうどこにもいない。
今ここに立つのは、
世界の命運を背負い、
人類の最後の希望となった 霊皇の器 となる存在だ。
蛍は大橋の中央で足を止めた。
放棄された車、転がるスーツケース、誰も戻らなかった帰り道。
風が吹くたび、壊れた街の残響が乾いた音を立てる。
「……綺麗な街だったな。」
蛍は、最後のつもりで景色を胸に刻む。
明日、自分はもう別の存在になる。
人としての心を保てるかさえ分からない。
だからこそ――
今日だけは、蛍として、ただの少女として、
この世界の最期の姿を目に焼き付けたかった。
その時。
橋の反対側に、
霧を裂くように、ひとりの影が立っていた。
破れた外套。
深くフードをかぶった、異様に細長い影。
蛍の眉がわずかに動く。
「……白鳥(しらとり)。」
男は、ゆっくりと顔を上げた。
霧越しでも分かる、冷たい蒼光の瞳。
“天帝”
世界を滅亡寸前に追いやり、
神さえも超えた存在。
蛍の言葉に、白鳥は答えず、ただ街の廃墟を見下ろしていた。
「用事は……全部片付いたのか。」
感情の起伏を感じさせない声。
それでも、長く共に戦った蛍には、
その奥にかすかな“揺らぎ”があるのを察せた。
「はい。
皆に別れを告げました。
……明日、九天晶塔の頂上で、全てに決着をつけましょう。」
「そうか。
……まだ時間が必要なら、待ってやってもいい。」
「いえ。決めました。
逃げません。」
白鳥は少しだけ目を細めた。
霧の向こうから、二人の間に目に見えない緊張が張りつめる。
「蛍。
約束どおり、俺が勝てば “刻力(きざみのちから)” で世界を進化させる。
争いも、死も、弱さも無い――
完璧な世界を創る。」
「人類は、あなたの理想通りの“標本”ではありません。
人には意志があります。
感情があり、選択があり……
そして、間違う自由もある。
私は世界を元に戻します。
普通の人が、普通に生きていける世界に。」
「ふん。
やはり、お前は最後まで変わらない。」
白鳥はゆっくりと蛍へと歩み寄り、
すれ違いざま、蛍の肩を軽く叩いた。
それは、かつて戦友だった頃の名残。
今は敵として向かい合う二人だが、
互いを誰よりも理解しているのもまた事実。
「最後にもう一度だけ言う。
蛍――俺と組め。
お前となら、人類を“導ける”。
対立する必要など無い。」
「……白鳥さん。
あなたの求める未来は、あなた一人の夢です。
誰かの幸せを“代償”に築く未来なんて……私は選びません。」
霧が流れ、視界の奥で街の廃墟が揺れた。
「そうか。
ならば――仕方ないな。」
白鳥は、蛍に背を向けたまま言った。
「明日、勝った者が“真実”となる。
世界は、どちらかの意志の下に再び生まれ変わる。」
「はい。
だから私は、絶対に負けません。」
蛍の声は静かだったが、揺るぎなかった。
その静けさが、白鳥をほんの少しだけ笑わせた。
「後悔は……しないのか?」
蛍は目を伏せる。
しかし、すぐに首を横に振った。
「後悔しません。
私がここまで来られたのは、
大切な人たちのおかげですから。」
「……そうか。」
二人の影が、すれ違い、離れていく。
互いに後ろを振り返りはしない。
けれど、胸の奥にある感情は――同じ色をしていた。
後悔ではない。
未練でもない。
ただ一つ。
“もしも” が許されたなら……
二人はきっと、同じ道を歩けたのだろう。
蛍は心の中だけで呟いた。
(……白鳥さん。
本当は……あなたを、救いたかった。)
一方で、白鳥もまた霧の向こうで静かに呟いた。
(……蛍。
お前こそが、俺の“唯一の希望”だった。)
天羽町の外れにある八神家の古い洋館。
永い年月を耐え抜いた石壁は、霧の冷気を受けて白く凍りつき、
まるでこの家そのものが“時代の終焉”を待っているかのようだった。
八神氏宅へ戻った萤は、自分が使っていた物をすべて整え、
身体を清めて身支度を整えた。
鏡に映る自分の顔を静かに見つめる。
穏やかだった表情は、次第に強い決意を宿した眼差しへと変わっていった。
敷地奥の隠し部屋へ向かい、
萤はついに自らの“宿命”と向き合う時を迎えた。
部屋の扉を開けると、
そこには萤と同じ白髪を持つ女性が待っていた。
彼女は長い間その場で萤を待ち続けていた。
――八神総雲。
八神グループの最高責任者。
かつて世界の半分を掌握し、
誰もがその名を畏れた存在であった彼女は、
今や生命力を使い果たし、痩せ細った身体を震わせていた。
しかしその瞳だけは鋭く澄み、人間離れした光を宿している。
「萤、来たのね。」
総雲は弱い声で萤に語りかけた。
「萤、準備はいいの?」
「はい。総雲さん、始めましょう。」
「本来なら、これは私一人が耐えるべきものだった。
あなたに継がせてしまうなんて……本当に申し訳ない。」
萤はそっと微笑み、総雲の手を取った。
「大丈夫です、総雲さん。
あなたは長い間、一人で背負ってきました。
今度は……私が受け継ぎます。これが家族というものです。」
総雲の瞳が震えた。
「萤……ありがとう。」
部屋の中央には、結晶で作られた青白い冠が置かれている。
――万象引きの冠(ばんしょうひきのかんむり)。
司馬家(八神家)にのみ受け継がれた、霊皇の証。
「萤、これが“万象引きの冠”。
私たちの一族は、この冠と共に生き、そして滅びてきた。
あなたは玄心剣を扱い、原始龍神の力の一端を得ているけれど……
白鳥はすでに“天帝”となった。
今のままでは勝てない。」
総雲は震える手で冠を持ち上げる。
冠は萤が近づくと同時に青い光を帯び、
低く澄んだ音を響かせた。
「この冠を戴けば、あなたは“霊皇”となる。
万物を創り、生死を司る絶対の力……
そのすべてがあなたに流れ込む。」
萤は静かに膝をつき、頭を垂れた。
「総雲さん……いえ、総雲お姉さん。
あなたの手で冠をお願いします。」
総雲の表情が歪み、涙がこぼれた。
「萤……!
歴代霊皇の絶望も、私の苦しみも……
すべてがあなたに流れ込む。
この残酷な儀式をあなたに受けさせるなんて……」
萤は微笑む。
「大丈夫です。お姉さん。
あなたは一人で耐え続けてきました。
今度は私の番です。」
「萤……行くわよ……」
「はい。」
総雲はついに手を上げ――
万象引きの冠を、そっと萤の頭に戴せた。
次の瞬間――
氷雪の終曲が、轟音のように萤の脳内へ降り注いだ。
魂の奥深くまで達する極寒が、胸の中心を鋭く貫く。
宇宙に散らばる無数の星光が、
萤の意識の中で交差し、回転し、漂い始める。
冠のエネルギーは潮のように全身へと広がり、
周囲の床は氷点下の冷気によって瞬く間に結晶化していく。
歴代の霊皇たちの記憶が、
滝のような奔流となって萤の意識へ注ぎ込まれた。
彼らの千の言葉、絶望と希望、孤独と痛み――
そのすべてが、萤の体内へと流れ込む。
その記憶を理解した時、
萤の胸に長く棲みついていた疑問やわだかまりは、
ついに答えへと辿り着いた。
原始龍神の力の洗礼を受けた萤は、
ゆっくりと目を開く。
それは――
霊皇にのみ許された、青き光の瞳。
総雲の、血と涙が入り混じる視線の中で、
新たに誕生した「孤独の王」は静かに立ち上がった。
萤は起き上がり、身を翻す。
そして、約束どおり 九天晶塔へ向け歩み出す――
最後の一戦を迎えるために。
自らの先祖、史前の上古の時代――
あの男と、彼にまつわるすべての者たち――
その全ての歴史が、萤の脳裏に映し出される。
萤はそこで初めて理解する。
あの男こそ、自分の先祖。
あの男こそ、運命によって霊皇へと押し上げられた「始祖」。
万物の浩劫、天に選ばれし者、やがて皇となる者――
地の劫、天の殤――
これこそが霊皇の伝説であった。
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