「Re:Trace」〜帰郷〜
◆第三章 : 継承されるもの
懐かしいはずの空気なのに、
どこか胸の奥がざわつく。
布団に横たわる父、真明(まさあき/まさあきら)は、白い髭を整えたまま、
穏やかな表情で目を閉じていた。
澄明が小さく呼びかける。
「父さん、空真が来たよ。」
ゆっくりと真明のまぶたが開いた。
弱々しいが、確かな光がその奥に宿っている。
その姿は、記憶に残る父よりずっと小さく見えた。
それでも、空気の中にある“揺らぎ”だけは変わらない。
目には見えないけれど、
この空間は常に真明を中心に結界が張られ、
空気の流れさえ制御されている。
父は、空真を見るなり微笑んだ。
「……帰ってきたか。」
「父さん……。」
空真は膝をつき、
手にした荷物を置き、深く頭を下げた。
真明は手を伸ばし、
苦しげに喉を鳴らしながらも優しく言う。
「顔を上げなさい。…もう私の役割が終わりに近い、という事だよ。だから、泣くな。」
空真は唇を噛んだ。
泣かないようにしても、
胸の奥が軋む。
真明はゆっくりと背もたれに半身を委ね、小さく息を整えた。
そして、言った。
「空真……お前に伝えるべき時がきた。」
声は弱い。
それなのに、言葉は鋭く核心をついている。
「安倍晴明……と聞けば、
今の世では陰陽師だの、祈祷だの……
怪異の類だと思う者がほとんどだろう。」
空真は黙って頷いた。
自分自身、その“偏見”から逃げてきたのだから。
だが父は、はっきりと言った。
「だがな。陰陽道とは、信仰の対象はないに等しい。宗教ではなく…」
一瞬で空気が張り詰めた。
真明は続ける
「陰陽師とは、
天文学者であり、気象学者であり、
医師であり、薬師であり、
霊的存在のカウンセラーでもあった。」
真明の声は熱を帯び始める。
「安倍晴明は、
医者であり、科学者であり、
政治を支える情報分析者であり、
孤独な者の心に寄り添う“精神科医”だったのだ。」
空真の呼吸が止まった。
知っていたつもりだった。
だが、父の言葉でその本質が深く突き刺さる。
「民を救い、心を癒し、
自然の流れ・気の流れを読み、
人の“運命の歪み”を整える。
それが陰陽師の仕事だった。」
真明の声は少し震えている。
「だが……江戸時代、
山崎闇斎が陰陽道に“神道化”の流れを持ち込んだ。天社神道・土御門神道……
陰陽道はその中に取り込まれた。」
「……取り込まれた……?」
「そうだ。陰陽師を名乗れば危険な時代だったからな。しかし、表向き神道を名乗り、
裏では……“陰陽道の核”だけを守り続けた。」
空真の胸に熱いものがこみ上げる。
父が続ける。
⸻
「空真、お前が視てきたものは“怪奇現象”ではない。」
「……僕は…ただ、怖くて…
役に立つと思えなくて…全部捨てたかった……」
真明は首を横に振った。
「空真、よく聞きなさい。」
父の声は確かだった。
「我ら安倍家の力は、“人を救うためのもの”だ。
怨霊でも、祟りでもない。
人の心の悲鳴や痛み、
見えない叫びを“形として捉える力”だ。」
「…形として……?」
「そうだ。
普通の者には見えない“痛みの影”が、
お前には見える。
それは恐れるべきものではない。
誰かを救い得る……正しい力だ。」
空真の心が、少しだけ揺れる。
父はさらに言葉を重ねた。
⸻
「そして……安倍家は歴代、警察にも協力してきた。」
空真は思わず顔を上げた。
「警察……?」
「非公式だ。だが、人の心が壊れる時、
強い“影”が残ることがある。
自殺現場、事件現場、虐待、失踪……
お前の祖父も私も、何度も協力・解決してきた。」
「そんな……知らなかった……」
「伝えなかった。お前は優しすぎるからな。
背負いきれぬものを抱えてしまうだろうと思って。」
空真は目を閉じた。
父の言葉が胸に刺さる。
逃げてきたのは――
この“役目”からだった。
⸻
真明は疲れたように目を閉じ、
それでも微笑んだ。
「空真……お前は、視える者だ。
だが、それは呪いではない。人を助けられる“手段”だ。この家系が千年以上守り続けてきた、正しい力なのだ。」
その言葉は、
空真の胸の奥の、長く閉ざされた扉を叩いた。
「…でも、僕に…できるのかな……」
真明は空真の手を握る。
その手には、
長い年月を生きてきた機微と負った責任の重さがあった。
「できる、できないではない。お前にしか、見えない…空真、お前が背負わねばならぬ役目なんだよ。」
空真の目が揺れた。
「そして…
今、お前の身に迫っている“影”…本来なら、この家の結界を破れないはずのものだ。」
空真の背筋が冷たくなる。
「……じゃあ、なぜ……」
真明はゆっくり目を開け、
息を吸った。
「――誰かが、“結界の外”から呼んでいる。
お前の力を、だ。」
空真の心臓が大きく跳ねた。
父の瞳の奥には、
暗い予感と、深い慈愛が揺れていた。
「…空真
お前は、晴明の…正統な真の後継者だ。」
⸻
空真の胸の奥で、
何かがゆっくり解けていく気がした。
逃げ続けて来た家。
逃げ続けて来た力。
自分からも逃げ続けて来た
そのすべてが、
今、静かに形を変えはじめていた。
第四章 : -結界-に続く
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