第二話【標本02:虚偽の熱】

二人が高架下の倉庫を再び訪れたのは、前の訪問から一週間後の、水曜日の放課後だった。


​​ハヤトが、軋む扉を開ける。


​「誰もいないな。」


​「いるよ!」


とアカリが言った。


​科学者は、部屋の隅、錆びたパイプが集中している場所に、古いラジオのチューナーのようなものを置いて、一心不乱に調整していた。彼は白衣の上から、さらに分厚い革製のエプロンを着けていた。


​「また来たのか。……君たちに質問だが、『熱』とは何だ?」


先生は、手を止めずに尋ねた。


「え、熱いから……温度が高いってこと?」


アカリは質問の意味がわからないというように質問で返す。


​「そういうことじゃないだろ、きっと。熱を起こす原理ってことなら、原子の運動エネルギーってことじゃないか?」


とハヤトが答える。


​「正解だ。さすがだな。つまり物理的な現象だ。では、『信じること』は、物理的な現象か?」


​「精神的なもの、じゃないの?」


​「ふむ。」


先生はチューナーをカチリと合わせた。


「それは、今日の物語で検証しよう。」


​彼は革のエプロンの上に置かれた、何の変哲もない、白い錠剤を指差した。


​――「信じること」の実験

​先生が語る物語の主人公は、製薬会社に勤める、信仰心の厚い研究員だった。


​彼の会社は、ある難病に対する「全く効果のない、ただの砂糖玉」を、新薬として偽装投与する臨床試験を行っていた。これが、プラセボ(偽薬)効果の実験だった。


​「ご存知の通り、プラセボは人間の『治るはずだ』という信念が、実際に身体に化学反応を起こさせる現象だ。治験は順調に進み、多くの患者がこの『偽薬』で快方に向かっていた。」


​物語の中の研究員は、当初は患者の自己治癒力に感動していた。


​しかし、ある時、彼はふと気づく。


​「なぜ、『効かない薬』だと知っている自分たちが作った薬で、本当に病気が治るのか?」


​彼は、プラセボがもたらす化学反応は、「信念」という精神エネルギーの塊が、原子の運動エネルギーを操作しているのではないか、という恐ろしい仮説を立てた。


​「彼は実験を続けた。被験者に投与する薬の瓶に、特定の周波数で『病巣を破壊せよ』という指令を込めた音波をわずかに浴びせるようにした。彼が知っているのは、その砂糖玉が『病気を治す薬』であるという『信念』の塊でなければならない、ということだ。」


​プラセボ錠剤は、薬効の限界を超え始めた。


​ある被験者は、医師が冗談で「これは副作用で発熱する」と告げたところ、実際に40度の高熱を出し、臓器に炎症を起こしてしまった。


​「信じること」は、治癒だけでなく、病気そのものを物理的に作り出し始めたのだ。


​これはノセボ(有害作用を信じ込むことによる悪影響)の効果とも異なる。錠剤自体が、周囲の「信念」の熱を吸収し、その熱を病巣に向けた物理的なエネルギーとして変換する装置になってしまったのだ。


​「研究員は気づいた。彼らが作り出したのは、人の『信仰心』を燃料とする、小さな『呪いの爆弾』だった。」


​そして、悲劇は研究員自身に降りかかる。


​彼は、自分が関わった実験が「信念による殺傷兵器」を生み出したという『恐怖』という名の信念に取り憑かれた。


​その瞬間、彼が研究室で触れていた全てのプラセボ錠剤が、彼自身に向けたノセボの標的となった。


​「彼は、一瞬で病に侵された。信じたくないはずの、自らが作った『虚偽の熱』によって、彼の全身の細胞は過剰に活性化し、燃え尽きるように死んだそうだ。」


​先生は、今度は自分の着けている革のエプロンを叩いた。


​「なぜ、私がこんなものを着ているか分かるかね? これで、周りの『信念の熱』から身を守っているつもりだ。」


​彼は、目の前の白い錠剤をアカリの前に差し出した。


​「さあ、アカリ。君はこれを『ただの砂糖玉』として信じ込むか、それとも『病を治す奇跡の薬』として信じ込むか? それによって、この錠剤は君の体の原子を動かし始めるかもしれない。」


​アカリは、ハヤトと顔を見合わせた。錠剤はただ白いだけだ。何の匂いもしない。しかし、その小ささに、彼らの心の力が全て詰まっているような気がして、怖くて手が出せない。


​「信じる必要はない。」


と先生は錠剤を手に戻した。


「だが、一つだけ覚えておけ。この世界には、君の『信じたくない』という意志すらも利用して、現象を現実のものにしようとする力が働いている。」


​二人がラボから出た後、アカリがハヤトの袖を強く引いた。


​「ハヤト、今、先生の横にあったパイプが、一瞬、すごく熱そうに見えた……。」


​ハヤトは、振り返って倉庫を覗き込んだ。パイプは冷たそうだ。ただ、先生が身につけていた革のエプロンが、彼らの去っていく不安を吸収しているかのように、わずかに湯気を立てているような、そんな錯覚を覚えた。


​「熱なんて、ただの幻想だ。」


ハヤトは吐き捨てるように言い、足元の水たまりを蹴った。水面が揺れ、そこに映り込んでいた二つの白い輪が、ぐにゃりと混ざり合って消えた。

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