アレテイア・コード(試作版)

藍堂逢

〈序章〉ー記憶喪失のアンドロイド

「――起きて、お姉ちゃん。」


 耳の奥に、水面を垂らすような声が落ちた。

 誰の声かはわからない。ただ、その響きには、どうしようもなく”懐かしさ”が混ざっている。


「……起動。

 視覚系……正常。

 記憶系……未同期……同期要求、失敗。

 感情出力モジュール……稼働率12%。

 動力系……安定。

 行動制御……ADA命令ラインを検出。

 ――再起動プロセスを開始します。」


 無機質な報告が淡々と口をついて出る。

 それが自分の声なのか、それすら曖昧だった。


 長いこと眠っていたような気がする。

 光のない天井、薄汚れた配線、剥がれ落ちた壁、冷たく乾いた埃の匂い。

 視界には古びた研究所のような景色が広がっている。


 気づけば、足が勝手に前へ動いていた。

 命令した覚えはない。ただ“歩く”という行為だけが自動的に実行されている。


 扉を抜けた瞬間、薄暗い廊下の空気がまとわりついた。

 使われなくなった生活の名残が、その場にぽつりぽつりと散らばっている。

 錆びたマグカップ、転がったままの椅子、ひび割れたモニター。


 床の一部には乾いた黒い痕跡が残り、何かが暴れたような衝撃痕が点々と続いていた。

 

「記憶系……参照要求。

 関連データ……欠損。

 再同期……失敗。」


 私は立ち止まらず歩き続けた。

 まるで、ここから離れなければならないと、体内のどこかが判断しているかのように。


 やがて、古びた階段が現れた。

 地上へと続く、ゆるやかな上り道。


 一段、また一段。

 最後の段を上がった瞬間、夜の空気が流れ込んだ。


 そこは人気のない路地裏だった。

 

「外気温……18.3℃。湿度……81%。

 有害物質……未検出。

 ――起動用プログラムを終了いたします。」


 そこで、私の歩みは止まるようだった。


 見上げると、夜空が広がっていた。

 星が、思っていたより近く見える。

 

 ――何かが、そこにあった。


 その感覚の名前は分からない。

 胸の奥に、微かな温度だけが宿る。

 

 ただ、目を離せなかった。

 理由も、根拠もないのに、そこから視線を奪われるように。


 動く理由はない。

 目的も、命令もない。

 ただここに立つことだけが、今の”私”を構成していた。

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