第9話 なくしたもの、守ったもの
新しい年の朝は、どこか空気まで澄んでいる気がした。佐藤家の神棚には榊が挿し替えられ、鏡餅の上に橙がころんと乗っている。
義父は両手を合わせ、「今年も元気で過ごせますように」と短く祈った。義母は台所で黒豆を煮ながら、「まめに、まめに」と笑っている。家の中は穏やかな正月の匂いでいっぱいだった。
由紀は、箪笥のいちばん上の引き出しをそっと開けた。布に包まれた薄い箱を持ち出して、蓋を開ける。
――そこにあったのは、今年のお年玉袋。
佐藤家では毎年、手作りのお年玉袋を職人に特注で作ってもらっている。和紙に切り絵で干支をかたどったものである。出来上がりは毎年、少しずつ違う。紙の色味や刃の入り方が変われば、その年にしかない表情になるのだ。
今年の干支は午。力強く首を上げた姿が切り抜かれていて、紙越しの影まで生き生きと見える。
義母が背後から顔をのぞかせた。
「きれいにできたろう?おじいさんが“今年は守りの午でお願いします”って頼んだんだよ」
「守り……ですか」
「そう。午は走るだけじゃなく、大切なものを背にして守る力があるんだって」
義母は笑い、和紙に差す光を調整してやった。畳に映る影が揺れ、午がひと呼吸したように見えた。由紀はそっと指でたてがみをなぞった。
今年は、悠斗にとって“父のいない初めての正月”になる。最初のお年玉をどう渡すか――それを思うと胸が痛む。
けれど、義父母は袋に祈りを込めてくれた。
「“最初のお年玉は三人で”って。職人さんにも、そう伝えてあるんだよ」
義母は静かに言った。
「三人で……?」
「由紀さんと悠斗と、それから……あの子の分も一緒に、ってことさ」
由紀の喉が熱くなる。亡き夫も含めて“家族三人で”お年玉のやり取りができるように。そう願って作られた袋だったのだ。
居間の隅には、これまでのお年玉袋が大事にしまわれている。寅、卯、辰……年ごとに積み重なり、まるで小さな年輪のようだった。
義父母にとっては「家族がまた新年を無事に迎えられた」証であり、毎年元旦に神棚の前で、皆が揃った中で袋を開くのが慣わしだった。今年、その中心役を初めて由紀が担う。悠斗と二人で。けれど、祈りの中では“夫も共にいる”。それが、この袋に込められた思いだった。
廊下の方から軽い足音がした。悠斗が靴下のまま走ってくる。
「ママ、きょうおとしだま?」
「うん。おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に、神様の前でね」
由紀の腕にすり寄る小さな体は、温かくて、けれど少しだけ心細さも伝わってくる。その仕草が春先に事故で亡くなった夫の面影と重なり、由紀は胸がつまった。
彼女は袋を布で包み直し、再び箪笥の一番上の引き出しに大事に戻す。引き出しを閉める前に、由紀はもう一度だけ袋に触れる。紙越しに感じる凹凸が、この世に確かに存在していることを伝えてくれる。
義父が縁側から声をかけてきた。
「お~い。初詣は、人が少ないうちに行ってしまうぞ」
義母は鍋をのぞきこみながら、「ちょっと待ってくださいな。黒豆を焦がしたら縁起が悪いですよ」と笑って返す。
「それに『行ってしまう』だなんて。神様から罰が当たりますよ」
優しく笑顔を向ける義母に由紀は小さく頷き、箪笥に視線を戻した。
――穏やかな新年の朝のはずだった。
◇
事務所の電話が鳴り響いた。正月らしい静けさを破る乾いた音に、篠原と真琴は顔を見合わせる。
「おい、電話鳴ってるぞ」
「いやいや、篠原さんの方が近いでしょ」
正月早々の仕事に腰が引けて、二人はしばらく受話器を押し付け合った。結局、折れたのは当然ながら真琴だった。
「はい、篠原便利サービスです」
受話器の向こうから、震える女性の声が響いた。
「……お年玉袋が、どうしても見つからないんです」
その声は、切羽詰まっていた。真琴は慌ててメモを取りながら問い返す。
「お年玉袋……ですか?お年玉ではなく?袋……?」
「はい。今年、義父母が特別に作ってくださったんです。夫が亡くなってから初めてのお正月で……どうしても大切にしたくて。でも、さっき見たら、なくなっていて」
言葉の端々に涙が混じる。真琴は篠原を見やり、目配せで合図した。篠原は無言で頷き、コーヒーの缶を机に置く。
「詳しく教えていただけますか?」
真琴は声を和らげた。
「ええ……」
女性――由紀が語った内容は、こんなものだった。
◇
昼前、初詣から戻った佐藤家はこたつで温まりながら、神棚の前でお年玉袋を開く準備をしていた。由紀は箪笥に向かい、引き出しを開けた。
――そこにあるはずの布包みが、なかった。
「……ない」
由紀の声に、義父母が振り向く。
「どうした?」
義父が怪訝そうに近寄る。
「ここにしまっておいたはずの袋がないんです」
「どこか違うところにしまったんじゃ?」
義母がつぶやいた。
「いえ、布で包んで、間違いなく引き出しに入れたんです」
居間のこたつにいた悠斗が、不安げに母を見上げる。
「ママ……どうしたの?」
「大丈夫よ。何でもないわよ」
由紀は笑おうとしたが、その表情は強張っていた。義父は神棚を見上げて顔をしかめる。
「新年早々、縁起でもないなぁ」
義母はすぐに口をはさんだ。
「ちょっと。そんな言い方……」
「でもな。守りの午という願掛けの袋なんだ。守るものが失われるなど――」
「いやいや、逆かもしれませんよ。“失われても守ろうとする気持ち”を試されてるのかも」
由紀は箪笥を何度も探し直し、ついに顔を覆った。
「私……ちゃんと守れなかったのかな」
重苦しい沈黙。悠斗はこたつの端で両手を握り、唇をきゅっと結んでいる。
◇
「――ということなんです」
受話器の向こうで、由紀の声が震えたまま途切れた。真琴は深く息をつき、篠原に目で合図する。
「行きましょう」
篠原は砂糖たっぷりのコーヒーを一口あおり、短く答えた。
「ふん、正月から仕事か。――まあ、仕方ない」
二人はすぐに支度を整え、佐藤家へ向かうことになった。お年玉袋の行方と、家族の祈りをめぐる正月の依頼。静かな事務所には、まだ電話の余韻が残っていた。
◇
佐藤家に到着すると、玄関先からすでに張り詰めた空気が漂っていた。由紀が出迎えたが、目は真っ赤に腫れている。義父母は居間に座ったまま口を閉ざし、悠斗はこたつの端でうつむいていた。
「……お忙しいところ、すみません」
由紀が深く頭を下げる。
真琴はすぐに膝を折り、目線を合わせて声をかけた。
「大丈夫ですよ。私たちは、こういう時のためにいるんですから」
篠原は無言で室内を見回し、神棚、箪笥、押入れと順に視線を走らせた。
「それでは、状況を改めて整理させていただきたいんですが……」
真琴がメモを開く。由紀は深呼吸をして答えた。
「朝、箪笥にしまったんです。布に包んで、いちばん上の引き出しに。初詣から戻って、取り出そうとしたら……なくなっていました」
「家族のどなたかが触れた可能性は?」
「……いえ、誰も」
義父が不機嫌そうに低い声で割って入る。
「正月早々に縁起悪いったらありゃしない」
義母は「でも、由紀ちゃんが悪いわけじゃないんですから」と返す。二人の応酬に由紀が肩をすくめると、真琴がやんわり間に入った。
「まずは一緒に探してみましょう。大事なものほど、意外なところに置かれていたりしますから」
こうして“大捜索”が始まった。篠原は神棚の裏、座卓の下、障子の桟にまで目を光らせる。真琴は畳をめくり、押入れの布団を一枚ずつ動かす。義父母も箪笥の衣類をすべて出し直し、由紀は泣きそうになりながら居間と廊下を往復した。
畳が軋む音、襖を開け閉めする音、衣類を畳に積み上げる音――家全体ががさがさと落ち着かず鳴っている。
義父は「家の名折れだ」と小さく吐き捨て、義母は「由紀ちゃんのせいじゃない」と繰り返すが、その声にも焦りが滲んでいた。由紀は何度も同じ引き出しを開け、空っぽの現実が胸を締めつけるたびに、涙がこぼれそうになる。悠斗はこたつの端にちょこんと座り、大人たちの慌ただしい手元をジッと目で追っていた。
だが袋は、どこにもなかった。
「やっぱり、なくしてしまったのかしら」
由紀のつぶやきに、義母が首を横に振る。
「そうねえ、見当たらないわねぇ。落としたのなら、もっと単純に見つかるだろうし……」
捜索も行き詰まり、皆が休憩をしていた時、悠斗が廊下の向こうから走ってくる。脇には、木でできた小さな箱を抱えている。側面には、子どもが書いたような星の模様。そこには、たくさんのシールが貼られている。
「あら、悠斗くん。それはなあに?」
真琴がたずねる。
「これ?宝箱だよ」
「まあ、すてきね。何が入ってるの?」
「大事なオモチャが入ってるんだ。シールとかどんぐりだよ」
「じゃあ、後でそのオモチャでお姉さんと遊ぼうか」
義父は神棚を仰ぎ見て、「保管の仕方に問題があったのかもしれん……」とつぶやく。
「やっぱり神棚にお供えしておくべきだったんだ。箪笥になんかしまっておくから……」
義母は「そんな由紀さんを責めるようなことを。正月早々なんですか」と主張する。二人の考えは交わらず、由紀はというと、いたたまれないように小さくなっている。
真琴はそんな空気を和らげようと、笑みを浮かべる。
「とにかく、もう一度落ち着いて探しましょう。もしかしたら、思わぬところに……」
そのとき、悠斗が小さく「ダメ」と呟いた。だが声は弱く、大人たちには届かなかった。家の中をいくら探しても、お年玉袋は見つからない。
ただ、神棚と宝箱。二つの存在が静かに浮かび上がり、次の真相への道筋を示していた。
◇
居間に戻ると、悠斗はまだ小さな箱を抱えていた。側面の星模様に貼られたシールが、光を反射してきらきらしている。子どもの手には少し大きいその箱を、彼は胸の前にぎゅっと抱きしめて離さなかった。
「ねえ、悠斗くん」
真琴がにっこり笑ってしゃがみ込み、視線を合わせた。
「それ、シールとか、どんぐりとか入ってるって言ってたね。お姉さんも疲れてきちゃった。そのオモチャで、ちょっと一緒に遊ぼうか」
「あとで」
悠斗の表情が険しくなる。声は弱々しいが、その腕の力は箱を放すまいと強く込められていた。
(もしかして……)
真琴は少し考えてから、そっと言葉を選んだ。
「ちょっとだけ、中を見せてもらえないかな。きっとすごく面白いものが入ってるんだろうなって思って」
笑顔を添えて軽く手を伸ばす。だが悠斗は首を横に振った。
「ダメ!」
「ダメ?」
「ダメなの。これは……絶対ダメ」
声が震え、箱をさらに強く抱きしめる。由紀が心配そうに身を寄せた。
「悠斗、どうしたの?いつもは見せびらかしてるじゃない」
悠斗は答えない。答えないかわりに、涙をためた瞳で真琴の手をにらむように見つめた。
真琴は慌てて手を引っ込め、空気を和ませようと笑顔をつくった。
「あ、ごめんね。ちょっとだけ見たかっただけ。……でもね、宝物って“見せびらかすもの”じゃなくて“守るもの”だもんね」
悠斗はこくりと頷き、その言葉にしがみつくように小さく繰り返した。
「……まもるの」
◇
居間の空気が、重く沈む。義父母は顔を見合わせ、義父が低くつぶやいた。
「やっぱり神棚に供えなかったのが、いけなかったんだ」
「いい加減にしてください!」
義母までもが声を荒げる。
「由紀ちゃんを責めてもどうにもならないでしょ!」
義父はむっと口を閉ざし、由紀は板挟みのまま膝を抱えてうつむいた。真琴はどうにか場を立て直そうと努める。
「でもね、悠斗くんが“守る”って思うのはすごく大事なことなんですよ。子どもが大切だと思う気持ちを、ちゃんと大人も受け止めてあげなくちゃ」
「守る……」
由紀はその言葉を反芻するように呟いた。しかし、篠原だけは黙って悠斗の様子を観察していた。コーヒーの缶を指先で回しながら、その目は宝箱ではなく、悠斗の両腕の力の入り具合や、視線の泳ぎ方に注がれていた。
(触れられたくない。開けられたくない。――だが、理由はただの駄々ではない)
篠原は心の中でそう結論づけたが、言葉にはせずにただ缶を口に運んだ。
◇
沈黙を破ったのは、義母だった。
「悠斗ちゃん、その宝物箱、神棚の下に置いたらどうかしら。神様も見守ってくださるし、安心だよ」
悠斗はびくりと肩を震わせ、即座に叫んだ。
「ダメだってば!」
その声は居間の空気を一変させた。障子の外の冬の日差しさえ揺れるような鋭さだった。
真琴はなおも和ませようと、宝箱のふたにそっと指を置いた。
「じゃあ、こうしない? ちょっとだけ開けて、当てっこゲーム。私が中に何が入ってるか当ててみる。もし当たらなかったら、絶対に触らないから」
にこやかに提案したその瞬間、悠斗は烈火のように叫んだ。
「ダメだって言ってるだろ!ダメって言ったらダメなんだ!」
箱を胸に押しつけ、体を小さく丸める。頬には涙が伝い、嗚咽が声に混じる。
由紀は驚いて両肩を抱きしめた。
「もういいの、無理にしなくていいから!」
もう何回目だろうか、義父は「まったく。最初から神棚に供えておけば、こんなことにはならなかったんだ」と吐き捨てる。義母は「子どもの気持ちを追いつめるような言い方はやめて!」と鋭く反発した。
居間の空気はさらに緊迫し、冬の日差しが障子に赤々と映えているのに、誰の顔も凍りついていた。
悠斗の小さな手は箱の蓋をぽんぽんと叩きながら、必死に訴え続けていた。
「これは……ぼくのだから。とられたらダメなんだ……」
その声は震えていたが、幼い体の奥底から絞り出された叫びだった。義父は顔をしかめ、義母と由紀は涙ぐんでいた。
篠原はそっと箱に手を添えた。木の表面には、幼い指で押したような小さな凹みが残っていた。まるで“守ろうとした”時間そのものが、そこに刻まれているようだった。
その光景を前に、篠原は低く呟いた。
「視えてきたぞ」
真琴が篠原を見やる。だが篠原は多くを語らず、缶を静かに置いた。
居間の緊張は解けぬまま、夕陽が障子を朱色に染めていく。探しても出てこない袋。
けれど“守る”という言葉が、初めて悠斗の口から強く放たれた。それは真相への扉が、ようやくかすかに開いた瞬間だった。
「おい、悠斗。お前、小さいのにえらいぞ」
◇
篠原は一拍おいて、少年の抱える箱ではなく腕のこわばりを見た。
「……悠斗。お前は、ママの大事なものをしまっておけば守れると思ったんだな」
その一言に、悠斗の肩がぴくりと震えた。抱きしめるように抱えていた宝物箱を見下ろし、小さな唇を噛んだ。
「守って……たの?」
由紀が絞り出すように問いかける。悠斗は顔を上げた。涙で濡れた頬が光を受けて赤く見える。
「だって……パパ、いないでしょ」
由紀の胸が、ドン!と突き上げられる。
「パパ、もういないから。ママ、泣いてたから。だから、ぼくがママの大事なもの、なくさないようにしなきゃって」
声が途切れ、嗚咽がこぼれる。
「おとしだまの袋……パパがくれたみたいに、大事なやつなんでしょ。だから、ぼくが……ちゃんと守りたかったんだ」
由紀は堪え切れずに泣き出した。
「悠斗……そんなことまで……」
両腕で抱き寄せ、髪を何度も撫でた。
「そうだったの……ごめんね。私、気づいてあげられなかった。あなたがそんなふうに思ってたなんて」
義母の目尻にも涙が浮かぶ。
「あの子の分もこめた袋だったんだよ。やっぱり、ちゃんと伝わってたんだねえ」
義父は無言のまま、鼻をすすった。背筋を伸ばしてはいたが、目は赤い。
真琴はそっと言葉を添えた。
「悠斗くん、えらいね。守りたい気持ちがあったから、こうしてみんなで守ることができたんだよ」
「ほんと?」
「うん。あなたのおかげ。ママもおじいちゃんおばあちゃんも、気持ちを分かち合えたんだもの」
悠斗は小さく「ふえ……」と泣き声を漏らしながら、やっと箱を緩めた。
「なくしたら……パパに怒られるかと思って」
その言葉に、由紀はさらに強く抱きしめた。
「怒られないよ。むしろパパは、きっと喜んでる。だって悠斗が“守ろう”って思ってくれたんだもの。それだけで、もう十分だよ」
義母が頷きながら、「そうだよ。守ろうとした気持ちこそが一番大事なんだよ」と言った。義父も視線をそらしながら、しわがれた声で「……立派なもんだ」と呟いた。
篠原はそんな光景を静かに見つめ、口を開いた。
「悠斗、お前がいなきゃ、この袋は今ごろ本当になくなっていたかもしれない。何かの拍子でモノがなくなるなんてことは、よくあることだ。……大切なものを、お前が立派に守ったんだ」
その一言に、悠斗は母の胸で小さく頷いた。
真琴が優しく微笑んで、由紀に向き直った。
「じゃあ、ここでみんなで一緒に開けましょう。パパもきっと、見てますから」
由紀は震える手で箱を受け取り、慎重に蓋を開けた。中から現れたのは、白い布に包まれた小さな包み。その中には、切り絵の午が描かれた特注のお年玉袋があった。
和紙に刻まれた線は力強く、けれどどこか柔らかさも宿している。
「悠斗……はい、お年玉よ。あなたが守ってくれたお年玉」
由紀の声が震える。悠斗は母に抱かれながら袋を見つめ、小さな声で呟いた。
「パパも……ここにいるよね」
「いるよ。ずっと一緒に」
由紀が答えると、悠斗はようやく安堵の表情を見せた。義母は目を拭いながら、「じゃあ皆で神棚にお供えして、改めて祈りましょう」と言った。
一同は神棚の前に並び、切り絵の午をそっと供える。橙の乗った鏡餅の隣で、袋は光を受けて凜と輝いた。
由紀は手を合わせ、心の中で夫に語りかける。
(あなた……見てる? 悠斗はこんなに頑張ってる。私も、あの子と一緒に歩いていくから。どうか、これからも見守っていてね)
涙を拭き、由紀は深く息を吸った。そして家族の前で、声を震わせながらもはっきりと口にした。
「今年も“家族みんな“で頑張っていきます。私と悠斗と……そして、あなたと」
障子越しの夕陽が、三人の影を重ねた。それはどんな名画よりも美しい光景だった。
◇
佐藤家を後にしたのは、すっかり日が暮れてからだった。空には正月らしい冴えた月が浮かび、街の家々からは夕餉の匂いが漂っていた。
車の中で真琴がふうっと息を吐く。
「なんか……こっちまで泣きそうでした」
「泣けばいいだろうが」
篠原はコンビニの袋を片手に、助手席で腕を組んだままぼそりと返す。
「でも、あの子……本当に頑張りましたね」
「ああ。子どもってのは、大人が思っている以上に強いもんだ」
「“守る”って言葉、キュンときました」
「大人は守るつもりで、大事なものをいつも取り上げちまう。あいつはそれを分かってた」
真琴はハンドルを握りながら、フロントガラスの向こうを見つめた。その視線の先、交差点の向こうに見慣れた灯がともっていた。
「パン工房ときわ」――篠原と真琴が、仕事終わりによく寄る店だ。
「篠原さん、今日くらいコーヒーだけじゃなくて、何か甘いの食べましょうよ」
「いつも食ってるだろうが!」
「そうでした」
二人は小さく笑い合った。
◇
パン屋の店内には、焼きたての香りが漂っていた。ガラスケースには、きつね色に焼けたクロワッサンや、粉砂糖をまとったブリオッシュが並んでいる。
正月限定の札がついた一角に、真琴が目をとめた。
「これ、かわいい!」
小さな栗入りのあんぱん。中央に紅白のリボンが結ばれている。
「“迎春パン”ですって。ご利益ありそう」
「お前はパンにご利益を求めるのか」
そう言いながらも、篠原はふたつ買い物かごに入れた。
店を出ると、夜風が頬に冷たい。近くの公園に停まっていたベンチに並んで腰を下ろした。ベンチの下でショコラが尻尾をゆっくり揺らした。湯気とあんこの匂いに、正月の夜がやわらぐ。紙袋を開け、湯気の立つカップコーヒーを手にする。
篠原は甘い香りに目を細めながら、ひと口かじった。
「……あんこ、悪くねぇな」
「ですよね。甘さ控えめでちょうどいい」
真琴も笑顔で頬張る。しばらく二人で黙って食べた。ベンチの下を、落ち葉が一枚、風に乗って転がっていった。
吐く息が白く、遠くの神社から太鼓の音がかすかに聞こえる。
「由紀さん、あの後、神棚に袋を供えて手を合わせてましたね」
「見てたのか」
「はい。あの人の“ありがとう”って声、聞こえました」
真琴の目がうっすら潤む。
「泣き虫だな」
「篠原さんだって必死に堪えてたじゃないですか。目の奥、メッチャ赤かったし」
「……フン」
少しの沈黙のあと、篠原がぽつりと呟いた。
「“守る”って、難しいな。想えば想うほど、手放す覚悟も要る」
「名言っぽいです」
「名言なら、もっと甘い言い方をする」
真琴はふっと笑い、カップを両手で包んだ。
「今年も、いろんな依頼が来るんでしょうね」
「来るだろうな。泣いたり笑ったり、忙しい一年だ」
「でも、今日のはいい仕事でした」
「ああ。たまにはこういう“視え方”も悪くない」
二人は同時に立ち上がった。篠原が紙袋を片手に掲げる。
「さあ、帰るか。まだパンが一個残ってる」
「……まさか、それ私の分じゃ」
「半分こだ」
笑いながら、二人は再び歩き出した。夜空に、街の灯が静かに滲んでいた。守りの午の切り絵のように、どこか力強く、やさしい光だった。
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