第4話 パン屋の灯
午前の光がブラインドの縞になって机に落ちていた。
「こんにちは、ごめんください」
控えめな声とともに、かすかに甘い匂いが流れ込む。柑橘とバニラの混じった、街角の幸福を思わせる匂いだった。
「どうぞ」
真琴が椅子をすすめると、白い前掛けをした若い女性が小さく会釈した。粉がうっすらと残る布地は、仕事の途中で急いで駆け込んできたことを物語っている。
「山名ひよりといいます。祖母が営んでいたパン屋を……あしたで閉める予定なんです」
声の端が震えた。
「最後にお世話になった方々に、祖母の時代に店の名物だった“祖母のクリームパン”を焼きたいのですが……レシピが、金庫から消えていて」
篠原は無言で身を乗り出す。真琴が尋ね返した。
「金庫に入れてあった、レシピが消えた……」
「はい。父と私しか鍵を持っていません。祖母が亡くなってからは、クリームパンを焼いていませんでした。店には食パンや惣菜パンだけを並べて……。でも閉店を決めて、最後にもう一度だけ“祖母の味”を出そうと思って、先週レシピを確認しようと金庫を開けたら……跡形もなく消えていて」
ひよりは両手を膝の上で重ねた。指先が強く食い込んで、爪の色が薄くなっている。
「本当に“消えた”んです。祖母は大切にしていたから、捨てるはずがないのに」
言葉は必死で、だが自信を失ったように小さな声に変わる。
篠原は短く問いかけた。
「カードの束か」
「はい。手書きのレシピカードをまとめて、小さな木の箱に入れていました。祖母が若いころからずっと……」
その説明に、篠原は顎を引き、目を閉じる。机に置かれた資料ではなく、ひよりの言葉の“重さ”に耳を澄ませるように。
「……視えてこないだろうな」
低くつぶやく。
真琴が問いかける。
「やっぱりきついですかね?」
「思い入れが強く宿るのは“書かれたもの”だ。箱だけじゃ、痕跡は弱い」
真琴が依頼人に向き直る。
「つまり、実物のカードを見つけないと、篠原さんの力も十分に発揮できないってことですね」
「……そういうことだ」
篠原は静かに答えた。
ひよりは不安げに唇を噛みしめた。
「お願いです。どうしても、もう一度だけ祖母の味を焼きたいんです」
「わかりました。まずは現場を見ましょう。箱があった場所や、金庫の様子を確認させてください」
真琴の声は温かかった。
篠原は立ち上がり、缶コーヒーをポケットにしまう。
「飲むのは戻ってからだ」
「珍しい。出発前の一口をやめるなんて」
真琴が目を丸くする。
篠原はわずかに口角を動かした。
「ふん、甘いな。そんなに簡単な事件じゃないぞ」
三人は同じ歩幅で、駅北の商店街へと歩き出した。
◇
山名ベーカリーは、駅北の商店街の端にぽつんと佇んでいた。曇ったガラス越しにのぞく棚には、焼ききれなかった食パンが数斤だけ残っている。閉店を控えた店の空気はどこか色あせ、看板に灯る小さな蛍光灯も心細げに瞬いていた。
「明日で閉店なんですね?」
「ええ。祖母が続けてきた五十年に、明日で幕を下ろすことになります」
ひよりは鍵を差し込み、扉を開けた。カラン、と鈴が鳴る。その音だけが、まだ日常を忘れていない。
中に入ると、かすかに残った甘い匂いが迎えてくれた。柑橘ピールとバターが染みこんだ床の木目。磨き込まれた麺台の上には白い粉がわずかに散り、奥のオーブンは煤で黒ずんでいる。
篠原は店の隅々に目を走らせ、低くつぶやいた。
「……長い時間をかけて、積み重ねられた場所だな」
「祖母が最後に焼いたのは、やっぱりクリームパンでした」
ひよりが微笑もうとしたが、その顔はすぐ曇る。
「そのレシピがなくなってしまうなんて……」
篠原は黙って麺台に指を触れた。粉がざらりと残るが、脳裏には何も映らない。
「どうです?」
真琴がのぞき込む。
「……沈黙だな。カードそのものがない以上、ここからは拾えん」
その時、店の奥から声がした。
「おや、ひよりちゃん。閉めちまうって本当かい」
杖をついた老人が紙袋を抱えて出てきた。袋の中には、焼き残しのアンパンが二つ。
「明日で終わりと聞いて、名残に寄ったんだ」
「常連さんですね」
真琴が柔らかく会釈する。
「わしが若い頃からの味だからな。あの人のクリームパンは誰にも真似できん。ひよりちゃん、続けりゃいいのに」
「……すみません」
ひよりは小さく答えた。
老人は扉に掛かった鈴を振り返った。
「おばあさんは配達の時も、必ずあの鈴を腰につけてたよ。どこにいても、カランと鳴れば“ああ、パンが来た”ってわかったもんだよ。懐かしい」
そう言って笑い、ゆっくりと店を出ていった。
篠原は鈴に目を留めた。微かな金属の光沢。
(やはり……鈴が鍵になるか)
入れ替わるように、制服姿の少女が姿を見せた。
「はじめまして、アルバイトの佐々木凛です。片付けを手伝っていて……」
「はじめまして。まあ、高校生?おばあさんにとっては、孫みたいなものだったんじゃない?」
真琴が声をかけると、凛は少し頬を赤らめて頷いた。
「おばあちゃん、閉店の話をした時に言ってたんです。『灯は移すものよ』って」
「灯……」
真琴が繰り返す。
「はい。自分で絶やすんじゃなくて、誰かに受け渡すんだって。だから、レシピもきっと……」
少女の声は、どこか確信めいていた。
ひよりの表情が揺れた。
「でも……父は“店を続けろ”って言ってます。祖母の決断を尊重したい私とは、折り合いがつかなくて」
篠原が目を細める。
「父親にも鍵があると言っていたな」
「……はい。けれど、父が盗むなんて考えられません」
真琴がやんわりと口を挟む。
「でも、閉店の決断をめぐっては意見が分かれているんですよね」
「……そうです」ひよりは声を落とす。
空気が沈みかけたその時、篠原が缶コーヒーを取り出した。プシュ、と軽い音。甘い香りが広がる。
「……ふん、やっぱりまだ視えん」
短くそう言って缶を置く。
真琴が気を取り直すように笑った。
「じゃあ、次は金庫の場所を見せてもらえますか。なくなったのは、そこからなんですよね」
「はい。裏の事務所です」
三人は裏口から細い廊下を抜け、小さな事務机のある部屋へ入った。壁際に、古びた鉄の金庫が鎮座している。ダイヤル錠はすでに開けられており、中は空っぽだった。
「ここに……祖母のレシピカードを入れていました」
ひよりが唇を噛み、視線を落とす。
篠原はしゃがみ込み、金庫の底板に指を滑らせた。
──かすかに、粉の粒と油の染み。
だが、脳裏には映像は浮かばない。
「……やはり空だ。宿るものが残っていない」
立ち上がり、背を伸ばす。
真琴がメモを取りながらつぶやいた。
「鈴、灯、金庫。今のところ出てきた手がかりは三つですね」
「それで十分だ。断片は後からつながる」篠原は冷静に返す。
ひよりは不安げに二人の顔を見比べた。
「本当に……見つかりますか」
「見つけるさ」篠原は淡々と言った。
「祖母が残したものなら、必ず“痕跡”はある」
ひよりはかすかに息をのみ、深く頭を下げた。
◇
事務所から奥の作業場へ戻ると、ひよりは慣れた手つきで電気を点けた。蛍光灯の下、白木の麺台が光を受けて鈍く光る。粉の粒がまだ散り、薄い傷跡が幾筋も刻まれていた。
篠原はその表面に手を置いた。
──木目の感触。
──粉の匂い。
目を閉じると、視界の端にかすかな影が浮かんだ。
──トン。トン。トン。
三拍のリズムを刻む音。木の台に何かを叩きつける手。だが、その正体までは掴めず、像は煙のように揺らいで消えた。
「どうです?」
真琴がのぞき込む。
「……音だけだ。三つ、間を置いて繰り返される」
篠原が答えると、ひよりが小さく息をのんだ。
「なんでわかるんですか」
「あはは、この人、ほら、霊感が強いっていうか何ていうか…」
すかさず真琴がフォローする。
「祖母の成形のリズムかもしれません。……生地を三回叩いて、一度ひねって、二度折る。いつもそうしてました」
「つまり“三・一・二”ってことですか」真琴がメモを走らせる。
「ええ。祖母は“パンは体で覚えるもの”ってよく言っていました」
篠原は腕を組み、麺台を見下ろす。
「リズムが痕跡として残った、というわけか」
真琴は軽く冗談めかす。
「でも、金庫のダイヤル番号にも聞こえません?三・一・二。ありがちなパターン」
「甘いな……ありがちすぎる」篠原の声は冷たい。
「痕跡は、祖母が“残したいもの”に結びつく。金庫の番号じゃなく、手の記憶だ」
その時、扉の鈴がカランと鳴った。
「すみません、閉店間際に」
ふらりと顔を出したのは、近隣の新しいベーカリーの店主だった。三十代半ば、清潔なコックコート姿。
「ひよりさん、店を閉めるって聞いて。ご挨拶だけでもと思って」
「……ありがとうございます」
ひよりは表情を固くした。
真琴がさりげなく会話に割り込む。
「競合店なのに、ご挨拶って珍しいですね」
男は苦笑し、肩をすくめた。
「仕入れの粉をまとめ買いしようって話を、前におばあさんとしたんですよ。うちみたいな小さい店は、材料費を抑えるのが大変で」
「レシピの話とかは?」
篠原が淡々と聞く。
「したことありません?」
真琴も続ける。
「まさか。店の命とも言えるレシピの話しなんて、他のお店の方とするはずがないですよ。」
そう言って深く頭を下げ、足早に去っていった。
ひよりは視線を落とし、ぽつりとつぶやく。
「父は……あの人がレシピを狙ったんじゃないかって」
「疑いあっても、答えは出ません」
真琴がやわらかく返す。
「父は本気で店を続けさせたいんです。祖母の味を残すために……誰であろうと……許せないわ……」
ひよりの声は震えていた。
言葉がしぼみ、店の空気が重くなる。篠原は黙って扉の方を見やった。鈴が静かに揺れている。
(……さっきの音だ。断片に出てきた鈴の音色。だが場所が違う。店頭じゃない。もっと狭い、裏口の……)
彼は歩を進め、裏口の壁に目を留めた。そこには小さな金具が取り付けられている。だが、掛けられるはずの鈴はなかった。
「ここにも鈴があったんですか?」
「ええ。配達のときに祖母が腰に下げていた鈴です。裏口から出入りするときに、必ず鳴って……」
ひよりの声が震える。
「でも、亡くなったあと、どこかへ行方不明になってしまって」
篠原は静かに目を閉じた。
──カラン。
──粉煙の舞う光景。
──そして、三拍のリズム。
「……少しずつ繋がってきたぞ」
低くつぶやく声に、真琴が身を乗り出した。
「何か視えました?」
「鈴だ。失われたのはカードだけじゃない。鈴も一緒に、どこかへ」
ひよりがはっと息をのむ。
「祖母の鈴……」
「レシピを守るのは、カードだけじゃない。祖母は“手”と“音”に託したんだ」
篠原は淡々と告げる。
真琴はメモを閉じ、わずかに息を吐いた。
「じゃあ、次は……お父さんに話を聞いた方がいいですね」
ひよりの肩がわずかに揺れた。篠原は視線を冷たく細めた。
「父親が、どこまで関わっているかだな」
◇
夕暮れが商店街を赤く染めていた。山名ベーカリーの二階、居間に通されると、すでに一人の男が待っていた。無精ひげを生やした五十代半ば。白いワイシャツの袖をまくり、腕組みした姿は頑固さそのものだった。
「……父です」
ひよりが小さく紹介する。
男――山名修司は、篠原たちを見るなり低い声を放った。
「便利屋にまで頼んだのか。馬鹿げてる」
ひよりの肩がびくりと揺れる。
「でも、おばあちゃんの……最後のレシピを見つけたいの」
「レシピだと?あれは俺が子どもの頃から見てきた。分量も手順も頭に入ってる。なくても焼ける」
「それじゃ駄目なの。おばあちゃんの思い出を……きちんと“形”として……残したいのよ……」
ひよりの声は震えていた。
修司は鼻を鳴らし、机を軽く叩いた。
「閉店自体が間違いなんだ。俺は続けるつもりだった。祖母の味を絶やすなんて親不孝もいいところだ」
「でも、おばあちゃんは“もういい”って……」
「甘い!」
修司の声が居間に響いた。
「今までの苦労を知っているのか。材料を揃え、夜明け前から仕込み、昼までに売り切る。その繰り返しを五十年だぞ。俺はまだやれる。続けられる!」
ひよりの瞳に涙が滲む。
真琴が慌てて口を挟んだ。
「お父さん、ケンカは……」
「部外者は黙っていろ!」
修司の一喝に、真琴は一瞬たじろいだ。その横で篠原は缶コーヒーを開け、一口飲んでから静かに言った。
「甘いな」
修司がぎろりと睨む。
「なんだと」
「カードが消えたのは偶然じゃない。父親が続けたい気持ちはわかるが、だからといって“誰かが盗んだ”と決めつけるのは早計だ」
修司は机に身を乗り出した。
「俺を疑っているっていうのか」
「そうは言っていない」
篠原は淡々と返す。
「だが、可能性を潰すわけにはいかない」
沈黙が落ちる。
ひよりは涙を拭いながら父を見た。
「お父さん……もし本当に盗んでないなら、一緒に探そうよ。おばあちゃんの思いを、私たちで確かめたいの」
修司の表情が硬くなる。視線は娘に向けられているが、返す言葉はすぐには出てこなかった。やがて彼は無言のまま立ち上がり、「煙草を吸ってくる」と言い残して居間を出て行った。
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修司の足音が遠ざかり、居間にはひより、篠原、真琴の三人が残された。ひよりは膝に両手を置いたまま、しばらく顔を上げられなかった。
篠原はポケットから小さな紙片を取り出す。金庫の底に落ちていた、粉の粒が付着した紙切れだ。
指先でなぞった瞬間、あの感覚が蘇る。
──カラン。
──裏口で鳴る小さな鈴の音。
──粉煙と三拍のリズム。
篠原は低くつぶやいた。
「……鈴の音だ。だが、場所は店頭じゃない。裏口だ」
真琴が目を丸くする。
「やっぱり……!凛ちゃんが言ってた鈴ですよね」
「バアさんはカードと一緒に、鈴を“もうひとつの鍵”にしたんだ」
「じゃあ、誰かが鈴ごと持ち出した可能性がある……」
「ああ、そんなとこだろう」篠原は短く頷いた。
真琴はメモを取りながら眉を寄せる。
「でも……お父さんが本当に関わってるのかどうか」
「そこはまだ断片だ。断定はできん」
二人の会話はそこで途切れた。
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ほどなくして修司が戻ってきた。窓の外はすでに夜気に包まれ、遠くで商店街の灯りがひとつ、またひとつ消えていく。
修司は無言で腰を下ろし、娘と向かい合った。
ひよりは涙を拭った目で父を見据えた。
「お父さん……私、どうしても最後におばあちゃんの味を残したいの」
修司は視線を外し、拳を固く握ったまま黙っていた。
居間に漂う沈黙は、これから訪れる真相の影を濃くしていた。
◇
夜の帳が下り、店の奥は静けさに包まれていた。ひよりは台所の電気を点け、棚から古びた缶を取り出した。
「これ……おばあちゃんがずっと使っていたオレンジピールの缶です」
錆びついた蓋を開けると、柑橘の甘い香りがふわりと広がる。
篠原は缶を手に取り、目を閉じた。
──カラン。
──三拍のリズム。
──そして、柑橘の香り。
断片が、ようやく輪郭を結び始める。
「……二重底だな」
篠原は缶の内側を指でなぞった。金属がわずかに浮いている。ひよりが息を呑み、震える声を上げる。
「まさか……」
小刀で縁をこじ開けると、薄い紙束が現れた。丁寧な文字で書かれたレシピカード。そして、その一番上には、短い一文が添えられていた。
『ひよりへ。店を畳んでも、“灯”は継いで』
ひよりの頬に涙が伝う。
「……おばあちゃん」
真琴がそっと背を支えた。
「見つかりましたね。これが“最後のレシピ”」
篠原はカードをめくりながら淡々と続ける。
「……他のカードは金庫にまとめたのに、クリームパンだけ別に残したのは理由がある。
このパンは“店の顔”であり、家族の思い出そのものだった。だから祖母は、香りと一緒に隠してまで“誰かに託す”形を選んだんだ」
「……本当に、おばあちゃんらしい」
ひよりは小さく笑った。
「何度も“手と香りで覚えろ”って言ってました」
そのとき、背後で重い足音がした。修司だった。
「……見つかったのか」
低く絞り出すような声。
ひよりは涙に濡れた目で父を振り返った。
「うん。おばあちゃん、私に託してくれてた」
修司はしばし黙り込んだまま、拳を固く握った。
篠原は静かに言葉を挟んだ。
「“続けろ”でも“やめろ”でもない。“移せ”だ。おばあさんはそう書いている」
「……灯を、移す」修司は呟いた。
真琴が柔らかく補う。
「凛ちゃんにも言ってましたよね。“灯は移すもの”って」
修司は目を閉じ、深く息を吐いた。
「俺は……ずっと続けることばかり考えていた。だが、それは俺のためだったのかもしれん」
ひよりがそっと父の腕に触れた。
「お父さん。私、店を閉めても、この味は守りたい。だから……一緒に焼こう。最後のクリームパン」
修司は一瞬ためらったが、やがて頷いた。
「……ああ」
________________________________________
翌日。閉店の朝。
お店には常連たちが次々と訪れていた。焼き上がったクリームパンの甘い香りが、最後の店を満たす。ひよりは汗を拭いながら、父と並んで成形を続けていた。
「三回叩いて、一度ひねって、二度折る」
修司の手は不器用ながら、そのリズムをなぞっている。凛も加わり、笑い声が店内に広がった。
「ほら、できた」
オーブンから取り出されたパンは、ふっくらと膨らみ、黄金色の焼き色を帯びていた。ひよりは思わず目を閉じ、涙をこぼした。
「おばあちゃんの……味だ」
常連たちが拍手を送り、香ばしい匂いが店を包み込む。修司はパンをひとつ割り、湯気の立つ断面を見つめた。
「……やはり、絶やすべきじゃなかったんだな」
「絶やすんじゃない。移すんです」ひよりは力強く答えた。
その言葉に、修司は深く頷いた。
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パンを頬張る人々の笑顔の中、篠原と真琴は静かに店の片隅に立っていた。篠原は缶コーヒーを取り出し、プルタブに指をかける。
「……視えてきたぞ」
真琴がにやりと笑った。
「はいはい、決め台詞。今回は“灯”ですね」
篠原は黙ってパンを一口かじった。甘さが広がり、瞳の奥が少しだけ和らいだ。
◇
閉店の夕暮れ、山名ベーカリーのシャッターがゆっくりと降ろされた。常連たちは名残惜しげに手を振り、やがて商店街の喧騒も遠のいていく。店の裏口だけが、まだ小さな灯りを残していた。
作業場には甘い匂いが残っている。ひよりがトレイを抱えて戻ってきた。
「余った分ですが…よければ全部、持って帰ってください」
湯気を立てるクリームパンがずらり。
「こ、これ……全部!?」
真琴が両手を広げ、目を輝かせた。篠原はひよりを見やり、低くうめいた。
「……やめろ。俺の部屋がパン屋になる」
「最高じゃないですか!“便利屋ですが、パン屋です”に屋号変更ですね!」
「断る」
真琴は大急ぎで紙袋を用意し、ひよりに笑顔を向ける。
「安心してください。私が責任を持って全部平らげますから!」
「お前の胃袋はブラックホールか」
パンを一つ割って渡されると、真琴は嬉しそうにかじりついた。
「やっぱり美味しい!……ほら、じつはこの人、甘いものには目がないんですよ」
「……だまれ」
「ほら出た。メチャクチャうれしいくせに」
裏口のドアを開けると、夜風が吹き込む。篠原は缶コーヒーを開け、甘さを含んだ息をひとつ吐いた。
「視えてきたぞ」
真琴はにやにやしながら即座に返す。
「はいはい。部屋の中がクリームパンの山になるのがね」
「二度と依頼に連れて行かん」
「ひどっ!」
三人の笑い声が裏口に響き、小さな店の奥に温かく残っていた。
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