第3話

 店番頼まれたから。と手を振るユミナと別れてひとりで店を出た。手にはお目当てのtomoyoさんの新刊。


 ホクホクと頬を緩めて角をまがると「おい」と低く呼び止められて私のホクホクはビュンと彼方に飛び去った。


 まずい。危機察知本能が開化する。逃げろ。


「ちょ、おい!」

「ひいいいいいいっ!」


 だめだだめだめだめだからっ!

 殺される殺さないで殺さないでくださいいいいい


「なんで逃げようとすんの!」


「ひいいいいいいっ」


「ちょ、田代たしろサンっ」

 手首を掴まれて、ハイ、この世が終わった。


「ち、ちがいます!」

「いやちがうくはないだろ」

「ちがうくはないです」

「ちがうくはないのかよ」

「あばあばば」


 そこで「ぷ」と噴き出した。堀田くんが。


「ビビりすぎっしょ。べつに取って食ったりしな────」


 そこで言葉が止まるから私は今度こそ生きた心地がしない。おおおおおお。


 な? は? とキョドキョド彼の褪せたオレンジ色の髪から片耳に三個もついたシルバーのピアス、例のマフラー、ブレザーの中に着込まれた白のパーカーなんかを順々に見つつ結局道路のひび割れに目線を落ち着ける。


「それ────買ったの」


「え」


 それ、とは、tomoyoさんの本で間違いなかった。


「あ……えと、その、あ、ハイ」


 なんで敬語? と首を傾げられたけど立場上敬語は必須だった。


「田代サン、編む人?」

「えっ…………と」


 咄嗟に答えられなかった。

 堀田くんは「まあいいわ」と言うと掴んだままだった手首を離してくれた。ほゎお。下手して怒らせたらへし折られるところだったから心底ホッとする。


「俺が今日そこの本屋にいたこと、誰にも言わないで」


「えっ……」

「たのむな」


 に、と微かに笑うと、堀田くんは私をかわしてうしろの角を曲がっていった。


 ふわり匂う、香水。

 ちょっと苦手だな、なんて思ってしまった。





 やってみようとしたけどやっぱり全然無理だった。


 tomoyoさんの編み図は、難解すぎる。

 そして指定糸が高級すぎる。これはべつに似た安い毛糸にしてもいいんだけど当然質は落ちるし風合いも違ってくるんだよ。


 インスタントのミルクココアをマグに作って木製スプーンでかき混ぜる。コリン、コロリン、と木が陶器に当たる音がするとそれだけでオシャレな気がするんだ。


 ガラリと引き戸が開いて部屋着姿のお母さんが現れた。「なにぃ杏華きょうか、自分のだけー?」と声高に文句を言われて「あーごめんごめん」とほとんどカラのケトルをパスした。お母さん、在宅勤務になってからの落ちぶれ酷いな?


「マシュマロないっけ」

「ない。買ってくれば?」

「やだよ。帰ったばっかなのに」


 口をつけて「あっつ!」と跳ねた。


 ダイニングのイスに座って再びtomoyoさんの本を見る。


 堀田くんのマフラーはたぶん指定糸だった。


 ひと玉七百円はくだらないだろう。何玉使ってんのかな。五玉か六玉? もっとか。


 堀田くんはその価値をわかってんのかな。


「んん……」


 また堀田くんのことを考えていた。

 せっかくのミルクココアまであの香水の匂いがする気がして気持ち悪くなってしまった。




「重症やな」


「……なんで関西弁?」


 翌朝会うなりまたユミナは挨拶もなしにそんなことを言ってくる。


「昨日あれから堀田となんかあったん?」

「…………なんも」


 ユミナは「ふうん」とだけ言って、「ああそだ」とスマホを取り出した。


「トモヨ氏、動画あげてたね。見た?」

「……へっ?」


 なんだそれ。全然知らないんだが。


「やっぱ知らなかったね。おめぇまじで情報に疎いな。アナログ少女キョン」

「へんなあだ名で呼ぶなて」


 ほら、とユミナが見せてくれた画面には白くてスラリと美しい指先と高級毛糸が映っていた。


「ふむふむ、『新刊発売記念として編み方の難所を詳しく解説します』とな」


 うわうわ! これは見逃せない!

 興奮する私の頭上で予鈴が鳴った。




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