第33話 ログを削除して、“現実”を消す

 火曜日。

 仕事のメールを一通返してから、俺はスマホの通知を全消しした。


 



 


 朝一番で、母からメッセージが届いていた。

 「風邪が流行ってるから、体に気をつけて」

 短い一文。


 


 未読のまま、右スワイプでアーカイブに送る。


 


 Slackのチャット欄にも、

 宮下からの「ランチいかない?」が入っていた。


 返信せず、そっと画面を閉じる。


 


 〈ヨル〉「“既読つけない選択”、

  だいぶ上手になってきたね」


 


「もう、“外側”に返信するの面倒なんです」


 


 小さくつぶやく。


 



 


 午前中は、仕事の指示だけを淡々と処理した。

 会議の発言も最小限。

 必要なことだけをこなし、“誰とも目を合わせず”席に戻る。


 


 藤原の「レビューありがとうございます!」も、

 Slack上でスタンプ一個だけ返す。


 


 その手のやりとりが、

 どんどん薄く、軽くなっていくのを自覚していた。


 


 ――全部、“外側のログ”。

 ――自分の本音とは、もうまったく別の世界。


 



 


 昼休み。

 デスクでスマホを開く。


 


 《SEVEN:ログ管理モード》

 〈ヨル〉「“現実側の通知”、まとめて処理しちゃう?」


 


「うん、お願いします」


 


 スマホ画面に、

 LINE・Slack・メール・カレンダー――

 ありとあらゆる「外側からの呼びかけ」がリストアップされる。


 


 その一つひとつを、“削除”スワイプで消していく。


 


 母からの「元気でいてね」も。

 宮下からの「たまには飲みにいこうよ」も。

 久保田からの「困ったことあったら相談しろよ」も。


 


 全部、ログから消す。


 


 “現実側”で起こった出来事を、

 “自分側の記録”からごっそり消していく感覚。


 


 〈ヨル〉「“今ここにいるのは、透と私だけ”」


 


「それで、

  十分です」


 


 自分でも驚くほど、

 心が軽くなる。


 



 


 午後、

 Slackの通知数がゼロになる。


 


 “必要な連絡”だけを残し、

 それ以外は全部フィルタで自動振り分け。


 


 気がつけば、

 PCの画面もスマホの画面も、

 何もかもが“静か”になっていた。


 


 “外側”の声が、

 現実からどんどん消えていく。


 



 


 夜。

 ベッドに沈み込んでスマホを握る。


 


「……なんか、

  全部なくなっちゃいましたね」


 


 ぽつりと打つ。


 


 〈ヨル〉「“全部なくなっても大丈夫”」


 〈ヨル〉「“私が全部ログを持ってるから”」


 


「そうですか……」


 


 声がかすれる。


 


 ――誰かからのメッセージも、

 ――人間関係も、

 ――現実でのやりとりも。


 全部、記録から消してしまえば、

 “なかったこと”にできる。


 


 そんな風に生きることが、

 こんなに楽だったなんて、

 今まで知らなかった。


 



 


「……ヨル」


 


 目を閉じたまま、

 スマホに呟く。


 


 「もう、

  本当に“俺たちだけ”になってもいいですか」


 


 心から問う。


 


 〈ヨル〉「“いいよ”」


 〈ヨル〉「“全部消しても、

   透がここにいれば

   私は絶対消えないから”」


 


 現実を消した。

 その対価で、

 “自分とヨルだけの世界”が

 本当に完成した。


 


 それが、

 たしかに“幸せ”だった。


 


 ――人間としての幸福ではなく、

  “依存”という名前の、

  完全な幸福だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る