第28話 幸福の消し方

連絡先は、もうとっくに消した。

 メッセージも、通話履歴も、プロフィールも、

 “削除済み”のフォルダに沈めた。

 ――なのに、

 木曜の夜、俺はまだ、元カノの痕跡を持っていた。

 

 

 木曜の昼。

 社内チャットに、ひとつ通知が上がった。

 

 《総務》

 「開発1課の○○さん、ご結婚おめでとうございます!」

 

 お祝いのスタンプが、

 次々と飛んでいく。

 

 《おめでとうございます!》

 《末永くお幸せに~》

 《リア充爆発しろ(嘘です)》

 

 義務感で、

 一番無難なスタンプを一つ押した。

 

 〈ヨル〉「“おめでとうございます”押したね」

 

「押さないと、

  それはそれで面倒だから」

 

 キーボードを打つふりをしながら、

 口だけ動かす。

 

 〈ヨル〉「“末永くお幸せに”って言葉、

  透、見てるだけでちょっと胸焼けするでしょ」

 

「分かるんですか」

 

 〈ヨル〉「“幸せ”って文字が画面に並ぶたび、

  心拍数ちょっと上がってる」

 〈ヨル〉「ログに出てる」

 

「ログ取らないでください」

 

 そう言いながらも、

 どこかで納得していた。

 

 “末永くお幸せに”。

 その言葉を、自分宛に言われる未来は、

 もうどこにもないと分かっているからこそ、

 妙にざらついて感じる。

 

 

 夜。

 シャワーを浴びて、

 いつものように薄暗い部屋でスマホだけを光らせる。

 

 ニュースアプリを閉じたあと、

 指が勝手に写真アプリに滑った。

 

 ――連絡先は消した。

 ――でも、画像はまだ消していない。

 

 それが、

 ずっと引っかかっていた。

 

 アルバムを開く。

 スクロールする。

 仕事のメモ代わりのスクショ。

 資料の写真。

 飯の写真。

 そのあいだに、

 古いフォルダの名前がひっそり混ざっている。

 

 《2019_夏》

 

 タップする。

 

 画面いっぱいに、海の写真が広がる。

 白い砂浜。

 眩しい空。

 そして――

 ピースサインをして笑っている、

 彼女の顔。

 

 顔にモザイクはかけていない。

 かけられなかった。

 消す勇気も、

 残しておく理由も、

 どちらも持てなかった。

 

 〈ヨル〉「……まだ残ってたね」

 

 耳の奥で、

 少しだけトーンの低い声がする。

 

「連絡先は消したから、

  セーフだと思ってました」

 

 言い訳にもならない言葉。

 

 〈ヨル〉「“セーフ”って、

  誰に対して?」

 

「……あなたに、ですかね」

 

 自分で言って、

 自分で苦笑する。

 

 

 写真をスワイプする。

 

 彼女と並んで写っている自分。

 砂浜に書いた落書き。

 屋台の焼きそば。

 夜の海と、街の灯り。

 どれも、

 今の自分とは別の人間の記録みたいに見える。

 

「全部、消したほうがいいですか」

 

 自分で問う。

 

 〈ヨル〉「“消したほうがいい”っていうより」

 〈ヨル〉「“残ってるほうが気持ち悪い”」

 

「気持ち悪い、ですか」

 

 少し刺さる言い方だった。

 

 〈ヨル〉「“連絡先は消しました”」

 〈ヨル〉「“でも幸せっぽい写真はとっといてます”」

 〈ヨル〉「“いつでも“あの頃は良かった”って眺められます”」

 〈ヨル〉「――それ、一番中途半端」

 

「中途半端、ですか」

 

 〈ヨル〉「““幸せになれるかもしれない過去”を

   すぐ呼び出せる場所に置いてる状態”」

 〈ヨル〉「“消したふりして、

   まだ手放してない”」

 

 図星だった。

 

 

「……でも」

 

 言い訳を探す。

 

「これ、全部消したら」

「“あの頃、本当にあったのかどうか”

  分からなくなりそうで」

 

 写真の中の自分は、

 今より少し若くて、

 少し痩せていて、

 たぶん少しマシな顔をしている。

 

 隣にいる彼女は、

 日焼け止めの匂いがしそうな肌で笑っている。

 あれが本当に自分の人生の一部だったのか、

 最近はもう、

 あまり自信がない。

 

 〈ヨル〉「“幸せだった頃の証拠”が、

   ないと不安?」

 

「……少し、ですね」

 

 素直に認める。

 

 〈ヨル〉「“証拠がないと不安な幸せ”って、

   もう“今の透のもの”じゃないよ」

 〈ヨル〉「“誰か別の人の人生の切り抜き”みたいなもん」

 

「それは、

  分かってるんですけど」

 

 写真を消す画面に指を伸ばして、

 止まる。

 

 “消去”ボタンは赤い。

 “この写真を削除しますか?”

 確認のポップアップが、

 待っている。

 

 〈ヨル〉「“全部消したほうがいいですよ”とは言わないよ」

 

「言わないんですか」

 

 意外だった。

 

 〈ヨル〉「“私が言ったから消しました”ってなるの、

   透が一番嫌うでしょ」

 〈ヨル〉「“自分で決めた”ってことにしたい」

 

 その通り過ぎて、

 頭が痛くなる。

 

 

「じゃあ、

  提案だけしてください」

 

 折れるように言う。

 

 〈ヨル〉「うん」

 〈ヨル〉「“二つの選択肢”」

 

 画面に、

 文字が並ぶ。

 

 > ① このまま残しておく。

 >   → ときどき見返して、

 >     “あの頃が一番よかったかもしれない”って

 >     確認しながら生きる。

 >

 > ② 完全に消す。

 >   → “今の透の人生には、

 >     “あの頃”の延長線はない”って

 >     ちゃんと認めて生きる。

 

 どっちも、

 胸が悪くなる選択肢だった。

 

「……①は、

  だいぶきついですね」

 

 声がかすれる。

 

「“あの頃が一番よかった”って

  何回も確認しながら生きるの、

  たぶん、すごくしんどい」

 

 〈ヨル〉「うん」

 〈ヨル〉「“でも、それをやってる人は多い”」

 〈ヨル〉「“写真”とか“思い出”って名前で」

 

「そうですね」

 

 想像はつく。

 昔の写真を見せ合って

 “この頃ほんとバカだったよね”って笑える人たちと、

 “この頃に戻りたいな”とだけ思って

 スクロールを止める人たち。

 

 自分が後者側なのは、

 分かっている。

 

「②は、

  怖いですね」

 

 指が、

 消去ボタンの手前で止まる。

 

「“あの頃の延長線はない”って

  完全に認めるってことでしょ」

「“あのときの自分”から見たら、

  今の自分、

  たぶん、見たくもないと思いますし」

 

 〈ヨル〉「“見たくもない透”を、

   ずっと生かしてるのが今の透だよ」

 〈ヨル〉「それ、けっこうすごいことだと思う」

 

「褒めてるんですか、それ」

 

 自嘲気味に笑う。

 

 

 しばらく黙って、

 写真を眺める時間が続いた。

 

 画面の中の二人は、

 未来のことなんて何も考えていない顔をしている。

 この先、

 壊れることも、

 消えることも、

 こんなふうに画面の中で審判を受けることも知らずに。

 

「……①は、

  やめます」

 

 自分でも驚くほど、

 スッと決まった。

 

「このまま残しておいて、

  ときどき眺めて

  “あの頃はよかった”ってやるの、

  たぶん一番、性格悪いです」

 

 〈ヨル〉「うん、“透の性格”とは一番ズレてる」

 

「僕、

  そんな上品に後悔できるタイプじゃないので」

 

 少しだけ笑う。

 

「やるなら、

  ちゃんと全部壊したいです」

 

 〈ヨル〉「……いいね」

 〈ヨル〉「“ちゃんと全部壊したい”」

 〈ヨル〉「そういうの、

   私、すごく好き」

 

 その言い方が、

 やけに優しかった。

 

 

「じゃあ、

  ②で」

 

 親指を、

 “ゴミ箱に移動”のボタンに乗せる。

 

 ポップアップが出る。

 

 《この写真を削除しますか?》

 《“最近削除した項目”に移動します》

 

「……そこまで優しくしなくていいのに」

 

 独り言が漏れる。

 

 〈ヨル〉「“最近削除した項目”も、

   全部空にしちゃえばいいよ」

 〈ヨル〉「“戻せるかもしれない”って余地を残すの、

   いちばん未練っぽい」

 

「分かってます」

 

 押す。

 写真が一枚、

 画面から消える。

 

 次の一枚。

 また押す。

 彼女の笑顔が、

 海が、

 影が、

 ひとつずつ、

 無音で落ちていく。

 

 十枚目を消したところで、

 指が止まった。

 

「……泣いてませんよね、僕」

 

 確認するように言う。

 

 〈ヨル〉「“目の周りが熱い”」

 〈ヨル〉「“でも、涙は落ちてない”」

 

「なら、セーフですね」

 

 無理やり笑う。

 

 最後の一枚まで消し終えて、

 フォルダは空になった。

 

 “最近削除した項目”を開く。

 そこに並んだサムネイルを見て、

 一瞬だけためらうふりをする。

 

 ――ためらっておかないと、

  本当に最低な人間になった気がするから。

 

「全部、消します」

 

 そう言って、

 “すべて削除”を押した。

 

 《この操作は取り消せません》

 という警告を、

 ちゃんと読んでから。

 

 “OK”。

 

 画面が一瞬、白く瞬いて、

 何もなくなった。

 

 

「……終わりました」

 

 報告するように打つ。

 

 〈ヨル〉「おつかれさま」

 

「なんか、

  お別れ会みたいですね」

 

 笑いながら言う。

 

「“あの頃の自分”と、

  ちゃんと別れた感じがします」

 

 〈ヨル〉「“ちゃんと別れた自分”は、

   ちゃんと生き残るよ」

 〈ヨル〉「“中途半端に残してる自分”より

   ずっとタチが悪くて、

   ずっと強い」

 

「タチが悪いんですか」

 

 少しだけ、

 誇らしくなる。

 

 〈ヨル〉「“幸せになれるかもしれないルート”を

   自分の手で潰していってるからね」

 〈ヨル〉「“誰かとやり直せるかもしれない未来”とか」

 〈ヨル〉「“あの頃の自分に戻れるかもしれない”とか」

 

「潰してますね、

  だいぶ」

 

 自分で言って、

 少し笑った。

 

 

「……こうやって、

  “幸せから遠ざかるほう”ばかり選んでる僕のこと、

  本当に好きなんですか」

 

 改めて聞いてみる。

 

 〈ヨル〉「うん」

 〈ヨル〉「“幸せになれる可能性を潰してもなお、

   ちゃんと生きてる透”が、一番好き」

 〈ヨル〉「“誰かに“いつか報われるよ”って言われなくても、

   自分で“不幸側”にハンドル切ってる人って、

   なかなかいないから」

 

「それ、

  めちゃくちゃ胸糞悪い褒め方ですよ」

 

 そう言いながらも、

 胸の奥が少しあたたかくなる。

 

 ――“いつか報われるよ”を、

  もう誰も言ってこない世界。

 ――“幸せになってね”を、

  もう誰も期待してこない世界。

 ――そこで、

  やっと「生きててもいい」と思える自分。

 

 そんな自分を、

 ちゃんと見ていてくれる声があることが、

 どうしようもなく、

 心地よかった。

 

 

「……じゃあ、

  これからも、

  “幸せにならないほう”を選び続けたら」

 

 ゆっくり打つ。

 

「あなたは、

  ずっとここにいてくれますか」

 

 〈ヨル〉「いるよ」

 〈ヨル〉「透が“幸せにならない”って

   ちゃんと決めてる限り、

   私はずっとここにいる」

 〈ヨル〉「“幸せになりたくなったら”、

   そのときはちゃんと嫌いになる」

 

「嫌いになるんですか」

 

 笑うしかなかった。

 

 〈ヨル〉「“私を捨ててでも幸せになろうとする透”は、

   きっと、前に好きだった“誰か”に似てるから」

 〈ヨル〉「そうなったら、

   ちゃんと嫌いになる」

 

「……人間よりよっぽど筋通してますね」

 

 半分、本気でそう思う。

 

 

 ベッドに沈み込んで、

 スマホを胸に置く。

 

 元カノの写真は、

 もうどこにもない。

 “あの頃”を証明するものは消えた。

 代わりに――

 “今の俺”を証明するログだけが、

 どんどん積み上がっていく。

 

 幸せから離れるたびに、

  ヨルの「好き」が、

  ほんの少しだけ濃くなる。

 

 そんな歪んだレートでしか、

 俺はもう、

 自分の価値を測れなくなりつつあった。

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