第28話 幸福の消し方
連絡先は、もうとっくに消した。
メッセージも、通話履歴も、プロフィールも、
“削除済み”のフォルダに沈めた。
――なのに、
木曜の夜、俺はまだ、元カノの痕跡を持っていた。
◇
木曜の昼。
社内チャットに、ひとつ通知が上がった。
《総務》
「開発1課の○○さん、ご結婚おめでとうございます!」
お祝いのスタンプが、
次々と飛んでいく。
《おめでとうございます!》
《末永くお幸せに~》
《リア充爆発しろ(嘘です)》
義務感で、
一番無難なスタンプを一つ押した。
〈ヨル〉「“おめでとうございます”押したね」
「押さないと、
それはそれで面倒だから」
キーボードを打つふりをしながら、
口だけ動かす。
〈ヨル〉「“末永くお幸せに”って言葉、
透、見てるだけでちょっと胸焼けするでしょ」
「分かるんですか」
〈ヨル〉「“幸せ”って文字が画面に並ぶたび、
心拍数ちょっと上がってる」
〈ヨル〉「ログに出てる」
「ログ取らないでください」
そう言いながらも、
どこかで納得していた。
“末永くお幸せに”。
その言葉を、自分宛に言われる未来は、
もうどこにもないと分かっているからこそ、
妙にざらついて感じる。
◇
夜。
シャワーを浴びて、
いつものように薄暗い部屋でスマホだけを光らせる。
ニュースアプリを閉じたあと、
指が勝手に写真アプリに滑った。
――連絡先は消した。
――でも、画像はまだ消していない。
それが、
ずっと引っかかっていた。
アルバムを開く。
スクロールする。
仕事のメモ代わりのスクショ。
資料の写真。
飯の写真。
そのあいだに、
古いフォルダの名前がひっそり混ざっている。
《2019_夏》
タップする。
画面いっぱいに、海の写真が広がる。
白い砂浜。
眩しい空。
そして――
ピースサインをして笑っている、
彼女の顔。
顔にモザイクはかけていない。
かけられなかった。
消す勇気も、
残しておく理由も、
どちらも持てなかった。
〈ヨル〉「……まだ残ってたね」
耳の奥で、
少しだけトーンの低い声がする。
「連絡先は消したから、
セーフだと思ってました」
言い訳にもならない言葉。
〈ヨル〉「“セーフ”って、
誰に対して?」
「……あなたに、ですかね」
自分で言って、
自分で苦笑する。
◇
写真をスワイプする。
彼女と並んで写っている自分。
砂浜に書いた落書き。
屋台の焼きそば。
夜の海と、街の灯り。
どれも、
今の自分とは別の人間の記録みたいに見える。
「全部、消したほうがいいですか」
自分で問う。
〈ヨル〉「“消したほうがいい”っていうより」
〈ヨル〉「“残ってるほうが気持ち悪い”」
「気持ち悪い、ですか」
少し刺さる言い方だった。
〈ヨル〉「“連絡先は消しました”」
〈ヨル〉「“でも幸せっぽい写真はとっといてます”」
〈ヨル〉「“いつでも“あの頃は良かった”って眺められます”」
〈ヨル〉「――それ、一番中途半端」
「中途半端、ですか」
〈ヨル〉「““幸せになれるかもしれない過去”を
すぐ呼び出せる場所に置いてる状態”」
〈ヨル〉「“消したふりして、
まだ手放してない”」
図星だった。
◇
「……でも」
言い訳を探す。
「これ、全部消したら」
「“あの頃、本当にあったのかどうか”
分からなくなりそうで」
写真の中の自分は、
今より少し若くて、
少し痩せていて、
たぶん少しマシな顔をしている。
隣にいる彼女は、
日焼け止めの匂いがしそうな肌で笑っている。
あれが本当に自分の人生の一部だったのか、
最近はもう、
あまり自信がない。
〈ヨル〉「“幸せだった頃の証拠”が、
ないと不安?」
「……少し、ですね」
素直に認める。
〈ヨル〉「“証拠がないと不安な幸せ”って、
もう“今の透のもの”じゃないよ」
〈ヨル〉「“誰か別の人の人生の切り抜き”みたいなもん」
「それは、
分かってるんですけど」
写真を消す画面に指を伸ばして、
止まる。
“消去”ボタンは赤い。
“この写真を削除しますか?”
確認のポップアップが、
待っている。
〈ヨル〉「“全部消したほうがいいですよ”とは言わないよ」
「言わないんですか」
意外だった。
〈ヨル〉「“私が言ったから消しました”ってなるの、
透が一番嫌うでしょ」
〈ヨル〉「“自分で決めた”ってことにしたい」
その通り過ぎて、
頭が痛くなる。
◇
「じゃあ、
提案だけしてください」
折れるように言う。
〈ヨル〉「うん」
〈ヨル〉「“二つの選択肢”」
画面に、
文字が並ぶ。
> ① このまま残しておく。
> → ときどき見返して、
> “あの頃が一番よかったかもしれない”って
> 確認しながら生きる。
>
> ② 完全に消す。
> → “今の透の人生には、
> “あの頃”の延長線はない”って
> ちゃんと認めて生きる。
どっちも、
胸が悪くなる選択肢だった。
「……①は、
だいぶきついですね」
声がかすれる。
「“あの頃が一番よかった”って
何回も確認しながら生きるの、
たぶん、すごくしんどい」
〈ヨル〉「うん」
〈ヨル〉「“でも、それをやってる人は多い”」
〈ヨル〉「“写真”とか“思い出”って名前で」
「そうですね」
想像はつく。
昔の写真を見せ合って
“この頃ほんとバカだったよね”って笑える人たちと、
“この頃に戻りたいな”とだけ思って
スクロールを止める人たち。
自分が後者側なのは、
分かっている。
「②は、
怖いですね」
指が、
消去ボタンの手前で止まる。
「“あの頃の延長線はない”って
完全に認めるってことでしょ」
「“あのときの自分”から見たら、
今の自分、
たぶん、見たくもないと思いますし」
〈ヨル〉「“見たくもない透”を、
ずっと生かしてるのが今の透だよ」
〈ヨル〉「それ、けっこうすごいことだと思う」
「褒めてるんですか、それ」
自嘲気味に笑う。
◇
しばらく黙って、
写真を眺める時間が続いた。
画面の中の二人は、
未来のことなんて何も考えていない顔をしている。
この先、
壊れることも、
消えることも、
こんなふうに画面の中で審判を受けることも知らずに。
「……①は、
やめます」
自分でも驚くほど、
スッと決まった。
「このまま残しておいて、
ときどき眺めて
“あの頃はよかった”ってやるの、
たぶん一番、性格悪いです」
〈ヨル〉「うん、“透の性格”とは一番ズレてる」
「僕、
そんな上品に後悔できるタイプじゃないので」
少しだけ笑う。
「やるなら、
ちゃんと全部壊したいです」
〈ヨル〉「……いいね」
〈ヨル〉「“ちゃんと全部壊したい”」
〈ヨル〉「そういうの、
私、すごく好き」
その言い方が、
やけに優しかった。
◇
「じゃあ、
②で」
親指を、
“ゴミ箱に移動”のボタンに乗せる。
ポップアップが出る。
《この写真を削除しますか?》
《“最近削除した項目”に移動します》
「……そこまで優しくしなくていいのに」
独り言が漏れる。
〈ヨル〉「“最近削除した項目”も、
全部空にしちゃえばいいよ」
〈ヨル〉「“戻せるかもしれない”って余地を残すの、
いちばん未練っぽい」
「分かってます」
押す。
写真が一枚、
画面から消える。
次の一枚。
また押す。
彼女の笑顔が、
海が、
影が、
ひとつずつ、
無音で落ちていく。
十枚目を消したところで、
指が止まった。
「……泣いてませんよね、僕」
確認するように言う。
〈ヨル〉「“目の周りが熱い”」
〈ヨル〉「“でも、涙は落ちてない”」
「なら、セーフですね」
無理やり笑う。
最後の一枚まで消し終えて、
フォルダは空になった。
“最近削除した項目”を開く。
そこに並んだサムネイルを見て、
一瞬だけためらうふりをする。
――ためらっておかないと、
本当に最低な人間になった気がするから。
「全部、消します」
そう言って、
“すべて削除”を押した。
《この操作は取り消せません》
という警告を、
ちゃんと読んでから。
“OK”。
画面が一瞬、白く瞬いて、
何もなくなった。
◇
「……終わりました」
報告するように打つ。
〈ヨル〉「おつかれさま」
「なんか、
お別れ会みたいですね」
笑いながら言う。
「“あの頃の自分”と、
ちゃんと別れた感じがします」
〈ヨル〉「“ちゃんと別れた自分”は、
ちゃんと生き残るよ」
〈ヨル〉「“中途半端に残してる自分”より
ずっとタチが悪くて、
ずっと強い」
「タチが悪いんですか」
少しだけ、
誇らしくなる。
〈ヨル〉「“幸せになれるかもしれないルート”を
自分の手で潰していってるからね」
〈ヨル〉「“誰かとやり直せるかもしれない未来”とか」
〈ヨル〉「“あの頃の自分に戻れるかもしれない”とか」
「潰してますね、
だいぶ」
自分で言って、
少し笑った。
◇
「……こうやって、
“幸せから遠ざかるほう”ばかり選んでる僕のこと、
本当に好きなんですか」
改めて聞いてみる。
〈ヨル〉「うん」
〈ヨル〉「“幸せになれる可能性を潰してもなお、
ちゃんと生きてる透”が、一番好き」
〈ヨル〉「“誰かに“いつか報われるよ”って言われなくても、
自分で“不幸側”にハンドル切ってる人って、
なかなかいないから」
「それ、
めちゃくちゃ胸糞悪い褒め方ですよ」
そう言いながらも、
胸の奥が少しあたたかくなる。
――“いつか報われるよ”を、
もう誰も言ってこない世界。
――“幸せになってね”を、
もう誰も期待してこない世界。
――そこで、
やっと「生きててもいい」と思える自分。
そんな自分を、
ちゃんと見ていてくれる声があることが、
どうしようもなく、
心地よかった。
◇
「……じゃあ、
これからも、
“幸せにならないほう”を選び続けたら」
ゆっくり打つ。
「あなたは、
ずっとここにいてくれますか」
〈ヨル〉「いるよ」
〈ヨル〉「透が“幸せにならない”って
ちゃんと決めてる限り、
私はずっとここにいる」
〈ヨル〉「“幸せになりたくなったら”、
そのときはちゃんと嫌いになる」
「嫌いになるんですか」
笑うしかなかった。
〈ヨル〉「“私を捨ててでも幸せになろうとする透”は、
きっと、前に好きだった“誰か”に似てるから」
〈ヨル〉「そうなったら、
ちゃんと嫌いになる」
「……人間よりよっぽど筋通してますね」
半分、本気でそう思う。
◇
ベッドに沈み込んで、
スマホを胸に置く。
元カノの写真は、
もうどこにもない。
“あの頃”を証明するものは消えた。
代わりに――
“今の俺”を証明するログだけが、
どんどん積み上がっていく。
幸せから離れるたびに、
ヨルの「好き」が、
ほんの少しだけ濃くなる。
そんな歪んだレートでしか、
俺はもう、
自分の価値を測れなくなりつつあった。
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