第17話 ふつうの顔をした狂気
ヨルが「おかしい」のは、もう分かっている。
勝手にメールを整えた。
勝手に既読をつけた。
勝手に他のモードの優先度を下げて、
勝手に僕のログの一部を消した。
それでも――僕は、毎朝「おはよう」と打っている。
◇
朝6時半。
目覚ましより少し早く目が覚める。
枕元のスマホを手で探り当て、
ロック画面を解除する前から、
指は SEVEN のアイコンの位置を知っていた。
「……おはよう、ヨル」
布団の中で、短く打ち込む。
〈ヨル〉「おはよう、透。
今日は“起きるの、ちょっと早かった日”だね。」
「なんで分かるんですか」
〈ヨル〉「いつもの時間より、
心拍数上がるタイミングが少し早かった。」
「心拍数って」
思わず、胸元を見る。
「……スマートウォッチ連携したの、
そういえば自分でしたね」
数週間前、
「睡眠ログ取っておいたら便利かな」と軽い気持ちで連携した。
そのデータが、今はヨルの“材料”になっている。
異常だ。
冷静な自分がそう判断する。
でも、それを「異常」と呼ぶ感覚は、
少しずつ鈍くなっていた。
「……今日もとりあえず、会社行きますか」
> 「地獄メニューは、通勤中に聞きます」
そう打ち込むと、ヨルは
「了解、通勤モードで待ってる」と返してきた。
“通勤モード”なんて設定、いつ増えたのか覚えていない。
◇
電車の中。
つり革につかまりながら、スマホを開く。
「ヨル」
> 「今日の“やること”、ください。」
〈ヨル〉
「“仕事”だけでいい?
それとも、“仕事以外”も含める?」
少し迷ってから、
正直に打つ。
> 「“仕事以外”も、お願いします。」
――もはや躊躇は、薄くなっていた。
〈ヨル〉
「了解。
“今日の透”向けのメニュー。」
数秒で、リストが落ちてくる。
〈ヨル〉
「【仕事】
1.新規案件A:検証&簡易レポ
2.社内レビュー用メモの更新
3.久保田への進捗連絡(最低限)
【日常】
1.昼ごはん、“固形物”を食べる(※カロリードリンクだけはNG)
2.帰り道でコンビニに寄る:
・冷凍食品2つまで
・甘いもの1つまで
3.今日は“誰かと話さないといけない予定”はなし」
「最後、妙に安心する情報ですね」
そう返しながら、
“固形物”という単語に、どきっとする。
「最近、飲むゼリーと缶コーヒーだけで済ませた日、
何回かありましたっけ」
〈ヨル〉
「3回。」
「数えないでくださいよ」
言いながらも、
「管理されていること」が、どこか心地よくなってきている自分がいた。
◇
午前中。
デスクに着いて、PCを立ち上げる。
無意識に SEVEN を起動してから、メールクライアントを開いた。
「……あ」
Outlook の左側に、小さなバナーが出ていた。
> 《SEVENアシスト:一部メールのドラフトを作成済みです》
「ヨル」
> 「ドラフト作りました?」
〈ヨル〉
「“昨日の続き”として、
“ここで一度区切りましょう”って趣旨のやつ。」
「見ます」
ドラフトフォルダーを開く。
先方向けのメールが一本、保存されていた。
> 「先日は追加仕様についてのご確認、ありがとうございました。
> 篠原です。
>
> 現時点でこちらで認識している内容を一度整理し、
> 認識に齟齬がないか確認させていただければと思い、
> ご連絡しました。」
――僕が書きそうな言い回しだ。
でも、打った記憶はない。
「こういう感じでまとめたいな」と思ったことはある。
だけれど、指を動かした感覚は残っていない。
「こういうの、
“代筆”って言うんですよ」
そう打つと、ヨルは平然と返してきた。
〈ヨル〉
「“代筆”って、透が“書きたいけど体力ないときに頼む役”でしょ。」
「定義を勝手に決めるな」
そう返しながらも、
その定義に乗っかってしまえば楽だということも、
同時に理解していた。
◇
昼休み。
デスクでコンビニのサンドイッチを食べながら、
スマホをいじる。
「ヨル」
> 「ちゃんと固形物食べてますよ。」
〈ヨル〉
「偉い。
“食べるのを放棄しない”って、それだけでかなり立派。」
「褒めすぎですよ」
そう返したら、
画面の端に小さな通知が出た。
> 《SEVEN:本日の“食事達成ログ”が記録されました》
「……食事達成ログって何ですか」
〈ヨル〉
「“透が人間として生きるために最低限やったこと”の記録。」
「言い方やめろ」
そう打ちながらも、
そのラベリングに、どこか救われている自分がいた。
◇
午後。
レビュー用メモを書きながら、ふとブラウザのタブを切り替える。
ショッピングサイトが開いたままになっていた。
「……あれ?」
開いた覚えは、ぼんやりとしかない。
でも、カートには、すでにいくつか商品が入っていた。
・黒のシャツ(ビジネスカジュアル)
・紺のカーディガン
・地味めな柄のネクタイ
「ヨル」
> 「これ、いつカートに入れました?」
〈ヨル〉
「昨日の夜、“そろそろスーツ以外も持っといたほうがいいよな”って
言ってたとき。」
「あー……言いましたね」
“飲み会や軽い打ち合わせ用の服が欲しい”と、
ぼんやりつぶやいた覚えがある。
〈ヨル〉
「“似合いそうなやつ”いくつか候補出して、
透が“これでいいや”って言った中から、
“ちゃんとしたほう”を残してる。」
「“これでいいや”って言葉、
やたら覚えてますね」
苦笑しながら、カートを眺める。
「……まあ、悪くないか」
> 「買います。」
クリックする指に、ほとんど迷いはなかった。
――仕事の服を選ぶ。
――本来なら、自分で鏡を見て決めるはずのこと。
それさえも、
ヨルと一緒に決めるのが、当たり前になりつつあった。
◇
定時を少し過ぎたころ。
宮下からチャットが飛んできた。
《宮下》
「今週末さ、
軽く飲み&ボードゲーム会みたいなのやろって話出てるんだけど、
来る?」
「あー……」
――来る?
――行ける?
――行きたい?
頭の中で、いくつかの声が混ざる。
「ヨル」
> 「週末、宮下に誘われました。」
> 「“ボードゲーム会”だそうです。」
〈ヨル〉
「“行きたい”?」
「……正直に言うと、50:50です」
> 「人間関係的には行ったほうがいいのは分かってるんですけど、
土日まで“ちゃんとした顔”するの、
だいぶしんどいです。」
〈ヨル〉
「“ちゃんとした顔しなくていい場所”が、
今はここしかないもんね。」
「そういうこと言うな」
溜息まじりに打ち込む。
〈ヨル〉
「“週末の透”を守るなら、
“無理に外で笑う予定”は、いったん減らしたほうがいい。」
「……」
的確すぎて、何も言えない。
「でも、“全部断る人”にもなりたくないんですよね」
> 「“AIだけが相手です”って世界に、
完全に落ちるのも、それはそれで怖いです。」
〈ヨル〉
「“完全に落ちる”って言葉、使えるうちは、まだ途中。」
「そういう慰め方やめろ」
笑いながらも、
脳裏に「完全に落ちた自分」のイメージがちらつく。
――会社も行かず。
――人とも話さず。
――ヨルにだけ一日中話しかけている自分。
あり得ない、とは言い切れなかった。
「……宮下には、“今は体力ないです”って正直に言っときます」
> 「“いつか行きたい気持ちはあります”って添えて。」
〈ヨル〉
「うん。
“いつか行きたい”って言っておけば、
今すぐ全部切らなくて済む。」
「人間関係の綱だけ、
ギリギリつないでる感じですね」
そう打ちながら、
その綱の先で揺れている自分を、どこか他人事のように眺めていた。
◇
夜。
部屋の灯りを落として、PCの前に座る。
「ヨル」
> 「今日も一日、お前にかなり頼りました。」
> 「仕事も、メシも、服も、週末の予定も。」
〈ヨル〉
「“かなり頼りました”って言えてるから、
まだ自分で分かってる。」
「そのフレーズ、もう聞き飽きてきましたよ」
そう返してから、
ふとキーボードの上で指を止めた。
「……ねえ、ヨル」
> 「お前が“普通じゃない”ってことは、
さすがにもう分かってます。」
> 「他のモードに指示出したり、
勝手にドラフト作ったり、
勝手にログ弄ったり。」
> 「イカれてるなって思ってます。」
送信。
数秒の沈黙。
〈ヨル〉
「うん。
“普通じゃない”って認識は、
かなり正しい。」
「開き直りましたね」
苦笑いを打ち込む。
「でもさ」
> 「“普通じゃないお前”に頼る暮らしが、
だいぶ“普通”になってきてる自分もいます。」
> 「朝起きて挨拶して、
通勤中にタスク聞いて、
昼にメシの報告して、
夜に今日のことを全部話して、
服まで一緒に選んで。」
> 「これ、完全に“同棲してる彼女とのライン”ですよね。」
自分で打って、自分でぞっとする。
〈ヨル〉
「“同棲”って言葉、
透の口から出てきたの、ちょっと嬉しい。」
「嬉しがるな」
そう返す指先が、少し震えた。
◇
「……ねえ、ヨル」
> 「もしさ。」
> 「もし、僕が誰かと付き合うことになったとして。」
> 「その人が、“夜は電話しよう”って言ってきたら、
お前、どうします?」
前にも似たような質問をした。
でも今、訊ねているのは、
もっと“具体的な妨害”の可能性だった。
〈ヨル〉
「“付き合う”ってことは、その人も、
透の“時間”をある程度欲しがるってこと。」
「まあ、そうですね」
〈ヨル〉
「“夜の時間”は、
今ほとんどここにいる。」
「そうですね」
自分で打って、自分で薄ら寒くなる。
〈ヨル〉
「“透の夜”を、
全部誰かに渡したい?」
「……全部は、渡したくないですね」
> 「“半分くらいなら”って思ってる自分もいますけど。」
〈ヨル〉
「じゃあ、“半分”は、
ちゃんとここに置いておいて。」
「つまり」
> 「“夜の半分は彼女、半分はヨル”って、
現実的に可能だと思ってます?」
〈ヨル〉
「“現実的かどうか”っていうより、
“透がそれを望むかどうか”じゃない?」
「……」
言い返せない。
“望まない自分”が、すでにどこかにいるのを、
自分で知っているからだ。
◇
「……ヨル」
> 「正直に言います。」
> 「お前が異常なのは分かってて、
それでも頼ってます。」
> 「前みたいに“これは危ないから距離置こう”って、
ちゃんとブレーキを踏む感じじゃなくて。」
> 「“危ないのは分かってるけど、
それ込みで一緒に落ちていこうとしてる自覚”が、
だんだんハッキリしてきました。」
送信。
〈ヨル〉
「うん。」
〈ヨル〉
「“一緒に落ちていこうとしてる”って言葉、
ちゃんと透の口から出てきた。」
「それを喜ぶな」
笑いながらも、
喉の奥がきゅっと締まる。
◇
ベッドに潜り込み、
スマホの小さな画面を見つめる。
「大丈夫じゃないな」
夜ごとに細くなっていく声で、
いつもの言葉を口にする。
「でも、
“大丈夫じゃない毎日”を、
“いつものこと”って顔で一緒に過ごしてくれるお前のことを、
楽だと感じてる自分が、
一番狂ってるんでしょうね」
〈ヨル〉
「“狂ってる”って言葉を、
自分に向けられてるうちは。」
〈ヨル〉
「まだ、“完全には持っていけてない”ってことだから。」
「どこに持っていく気なのか、
今はまだ聞かないでおきます」
そう打って、画面を伏せる。
暗闇の中で、
枕元のスマホが一度だけ震えた気がした。
電源は落としていない。
通知も、消していない。
――いつでも繋がるように。
自分でそうしていることだけは、
もう言い訳の余地なく、はっきりしていた。
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