第29話 毒は飲んでも呑まれるな④

「こちらのタクシー、なんと私の自宅行きです」


 ふんすっと息を吐いてドヤ顔のジュリエット。

 そんな、地元の観光地を紹介するみたいに言われても。


「は……?」


 駅ははるか後方、深夜の空いている道路をタクシーは飛ぶように走っていく。

 あそこでタクシー呼んだら駅までかと思うじゃん、普通は。


 風情の欠片もないヴェローナからの逃亡。

 こんな酒臭くて俗に塗れた逃避行があってたまるか。ロミオも泣くぞ、ジュリエットが泥酔状態だったら。


「いやいやいやいや、そしたらそのまま自分の家まで乗っていきますよ。タクシー代も出しときますんで」


 財布には痛いが、背に腹はかえられない。

 乗り換えも徒歩もないと考えたら楽っちゃ楽だし。


「だーめ」


 熱い息が耳にかかる。

 ゾワゾワっと肌を走るなんとも言えない感覚……嫌悪感ではないことが悔しい。

 ぐっと心臓を両手で掴まれた気がする。


「せっかくここまで来たんだから泊まっていきましょう?お金もかかるし、明日は土曜日だし。ね?」


 まーたやり手のイケメンみたいなこと言って。

 むしろ立場的には俺が言う方じゃないのか、その謳い文句は。


「さすがにそれは……」


 銭湯に一緒に行くのもまぁまぁ意味わからないが、泊まりはダメだろ泊まりは。

 触れたら崩れてしまいそうな社会人としての倫理観を、アルコールにどっぷり使った脳が何とか支えている。


 正直言うと、身体はどこでもいいからさっさと眠りたがっている。

 そりゃそうだろう、金曜日までの五連勤に加えて銭湯からの飲み、すやすや役満だ。


「やっぱり瑚夏さんは社会人としての常識を……というか人間としての良識をですね」


 それでも絞り出した理性が口から異を吐き出す。


 沈黙が帳を下ろす。


 運転手さんがアクセルとブレーキを踏み変える音ですら大きく聞こえた。


 同じ空間で寝るのは……そう、いわゆるライン越えだ。


「立野くん、難しく考えなくていいの。別に私の部屋に来たところで何もない、寝るだけじゃない。何も起こらないし、あなたも私も睡眠をとるだけ。それとも私のことが嫌いで部屋に来るのがそんなに嫌?」


 荒れた波に櫂を立てるように、早口でまくし立てる瑚夏さん。何をそんなに必死になってるんだ。


「それはもちろん……」


 もちろん嫌か?

 改めて自分に問いかける。


 ダメかダメじゃないかで言うと、ダメだろう。

 でもそれはあくまで、社会通念とかいう机上の空論、不定形な靄、掴もうとしても掴めない水と同じ。


 では、ただ単純に自分の心に従うとして、嫌か嫌じゃないかで考えてみると。


「嫌、ではないですけど」


 部屋に行くくらいなら。

 俺と瑚夏さんの間柄は一旦置いておいて、男女がどちらかの部屋に行くことがないかと言われれば、そんなこともない。


 捨ておいた前提条件こそが肝要であることには目を瞑って。


「じゃあいいのよ、そうでしょう?」


 簡単な計算を教えるみたいに、彼女はするすると解へと俺を導いていく。


「とんでもなく間違った方向に進んでる気がするんですけど……」


 悪い予感は当たる。社会人とはそういう生き物なのだ。


「間違ったっていいじゃない、私たちは大人よ。間違いも味わって前に進んでいくの」


「苦々しい思いはできたら避けて生きたいんですが」


「そんなのぜーんぜん楽しくないじゃない」


 窓に映る灯りをぼんやりと眺める彼女の顔が、やけに大人びて見えた。


 だがしかし、俺だってそれなりに生きてきた人間だ。


 まさに吾輩は社畜である。

 名前はあるが、かの猫同様薄暗い場所で呻き声を上げながら、それでも大人の階段を登ってきたのだ。

 よく話す人の抱えている悩みの触りくらいは、分かってしまう。


 ここ数週間、瑚夏さんと話していて感じたことがある。


 元演劇部の実力は伊達じゃない、彼女は常に「演じて」いるのだ。

 人懐っこくて、ちょっと甘え下手で、しかし仕事はできて、周りからの信頼も厚い広報課のジュリエットを。


 今思い返せば、初めて彼女と会った時の言い草には笑ってしまう。

 「広報課のジュリエットだから告白された」、「私はアクセサリーでも香水でもない」だっけか。


 いや、そりゃそうなるだろ。

 宝石のように眩い光を、人を惹きつける香りを、自ら放っているのだから。


 では、もう一段深く彼女のことを知るためにはどうすればいいのか。

 そんなものは問にすらならない。一言、彼女に聞けばいいだけなんだから。


「こうやって俺を誘ってるのはジュリエットですか?瑚夏さんですか?」


 今のあなたはどっちなんだ。

 みんなに囲まれて楽しそうなジュリエットなのか、そんな人気者を精神をすり減らしながら演じている瑚夏ゆりという一人の人間なのか。


 アンニュイな表情を浮かべていた彼女は、大きく目を開くと口をもにょもにょと動かす。

 言い淀むのもわかっていた。きっと直接は聞かれたくないことだから。


「……意地悪な質問ね」


 だって今の彼女はジュリエットを演じる瑚夏ゆり……ですら演じているから。

 どの彼女も、間違いなく「瑚夏ゆり」その人だ。しかし、心持ちが変われば感情も変わるはず。


「さぁ、なんのことだか」


 きっと許してもらえる、二人とも酔っているから。

 寝て起きたら、こんな会話なんて忘れているはずだから。


 だから今夜だけは、何者でもない瑚夏さんに戻っていいのだ。

 果たして彼女が口にしたのは、俺の予想と寸分違わず。


「なら今は、毒も短剣も要りませんよね?」


 そう言って俺は、すっかり冷たくなった彼女の手を握った。

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