人は一人で死んで一人で生まれる

人は一人で生まれて一人で死んでいく。

仏教の教えの一説でも有名な言葉であるこの概念は私は至高であると思う。


それは私が終わるこの瞬間だから、より深く感じられるのかもしれない。


今はおそらく今際の際なのだろう。

大切な人とした人の声も、数か月の心の友だった窓からの風景も、さっきまで香っていた俺が好きだった紅茶の香りも今はもう感じられない。


微かに残るこの思考さえ、心停止後のわずかな期間に起こる鮮明なガンマ波の一説に過ぎない。

しかし、情報は参照できても、俺の信条や思いは決してみられることはないだろう。


よしんば科学が極まってこの思いさえだたの情報の破片になり果てたとして。

俺の今の思いは俺の物であり。誰の物にもなれない。


あぁこの支離滅裂な思考。

これが死ぬ間際の悪あがき。

走馬灯か。


悪くない人生だった。

そう言えるだけの自信はある。


俺は比較的人の心がわからないといわれる傾向のクズだったと思う。

しかし、それを取り繕える知能が存在したことで、なんとか人並みの人生を歩めた自負もある。


妻は俺の目から見ても客観的に不細工だった。

俺が妻の告白を受けたのはただ一点。

『俺に初めて告白してくれた人』だったからだ。


あぁもう一点ある。

彼女が成り上がり地主の娘だったからだ。


愛とは育むものだとは俺は思う。

たとえ彼女の容姿が一般的な嗜好から外れていようとも。

彼女が持つ構成要素はそれだけではない。


財や己の成り立ちだって立派なそれだ。

むしろ容姿が醜いにもかかわらず己を維持し確固たる何かを持っている人は、容姿が整っている人に比べて優れているともいえる。


生理的なデメリットを相殺して余りあるメリットを有するゆえにその意思が保たれているわけだ。

それは意志そのものの強さかもしれないし、財や力、もしくは才、あるいは徳かもしれない。


そして社会において容姿というものは意外に優先順位が低い。

肌の色?そんなものは集団単位の判断基準に過ぎない。


容姿の醜さ?医学的に嫌悪されるような特徴でなければそれは商売的な財力に優越するものなのかな?


大体現代において肌の色や容姿の優劣によって商売を拒否することなど数えるほどしかない。

特に社会の上層に行けばなおさらだ。

かならず容姿以外の要素が強過ぎて容姿のそのものは添え物に成り下がる。


私は彼女と愛をはぐくみ、子にも恵まれた。

彼女の家の稼業を盤石とするための立ち回りも行った。


そりゃあ美人でスタイルのいい嫁さんがベストだが、何事も100点満点というのはなかなかに難しい。

チャンスがあれば取りに行くけど、人生は大体妥協の産物だろう。


目の前に可能性があれば?だたこねてでも取りに行きますが?


……。


とにかく。


私の子たちの今後の成長が見れないのは残念だけど、どう立ち回ろうともめったには破滅しないような手配はしたつもりだ。


一人で生まれて愛すべき人を見つけ、愛をはぐくみ、子を残し、今まさに朽ち果てる。


あぁ私の人生は悪くないものだった。


思考が鈍る。


身体がガンマ波を維持できぬほどに脳機能が低下しだしたのあろう。


強烈な不快感が私を襲う。


そうか、これが死か。


一度しか経験しないのがもったいない。


そんな考えも暗闇に落ちていく。


そして数寸の後。


私はまばゆい光の空間にいた。

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