准教授・久我山蓮の「解呪」講義:怪異の9割9部は音響物理で説明がつくという証明【短編版】

いぬがみとうま

第1話 准教授とクリスピーチキン

「――咀嚼音の周波数が4000ヘルツから急速に減衰している。衣のクリスピー感、そして肉汁の粘性……駅前にある惣菜屋

のリスピーチキンだな? しかも、揚げてから正確に二時間が経過している」


 静寂に包まれた大学の研究室。本棚という本棚が雪崩を起こしそうなカオスな部屋の中心で、その男――民俗学准教授・久我山くがやまれんは、顔も上げずに古文書へ視線を落としたまま言い放った。


 大正時代の書生のような着崩した和装に、首元には不釣り合いな最新鋭のノイズキャンセリングヘッドホン。

 その奇妙な出で立ちは、キャンパス内でも「歩く指定文化財」だの「ハイテク妖怪」だのと噂される、この男の変人ぶりを象徴している。


「……蓮さん、その無駄に高性能な『耳』で人のランチをスペクトル解析するのやめてもらえます? 美味しくなくなるんですけど」


 私は手に持っていた冷めたクリスピーチキンを口に詰め込み、ジト目で彼を見た。

月見里《やまなし》ヒナ、二十二歳。新米編集者にして、歩けば鳥のフンが落ちてくる自他共に認める不運体質の持ち主だ。


 蓮はヘッドホンをずらし、勝ち誇ったように口角を上げた。黙っていれば深窓の貴公子然とした美青年なのに、口を開けばこれだ。


「心外だな。僕は世界を『音』として観測しているに過ぎない。君の咀嚼音も、僕にとっては環境音の一部、いわば風鈴の音と同じだ」


「揚げた鶏肉を風鈴扱いしないでください」


 私はため息をつき、本題に入るべくバッグからタブレットを取り出した。画面には、山奥の鬱蒼とした森に囲まれた、古めかしい日本家屋が映し出されている。


「友人の実家なんですけど……出るらしいんです。『天狗』が」


 蓮の手がピタリと止まった。獲物を見つけた猛禽類のような鋭い光が瞳に宿る。

「天狗、か」


「はい。夜な夜な屋根の上を走り回る音がして、家の中の家具が勝手に動くポルターガイスト現象まで起きるそうで。おばあちゃんが怖がって体調を崩してしまって……」


「馬鹿馬鹿しい」


 蓮は鼻で笑い、興味を失ったように再び手元の資料に目を落とした。


「幽霊など存在しない。この世にあるのは物理現象と、人間の脳が見せる都合のいい『バグ』だけだ。ポルターガイスト? ただの共振現象か、地盤沈下の類だろう」


「で、でも! 友人が録音した音があるんです!」


 私は食い下がって、スマホの再生ボタンを押した。

 ノイズ混じりの音声データが、研究室の空気を震わせる。


『ヒヒヒヒ……グォォォ……』


 低く、腹の底に響くような唸り声。そして、何かが割れるような衝撃音。

 深夜の静寂を切り裂くその音は、聞いているだけで内臓が冷えるような不快感があった。


「……どうですか? これでもただの物理現象だって言えますか?」


 蓮は何も言わなかった。ただ、ヘッドホンを耳に当て直し、目を閉じてその音に集中している。

 数秒の沈黙。彼が「音」を聞くとき、それは探偵が虫眼鏡で現場を見るのと同じだ。私には聞こえない「音の層」を、彼は脳内で分解し、視覚化しているのだ。


 やがて、蓮はヘッドホンを外し、ニヤリと笑った。


「面白いじゃぁないか」


「え?」


「この唸り声……ただの風切り音じゃないな。位相がズレている。まるで空間そのものが歪んでいるような響きだ」


 彼は立ち上がり、壁にかけてあった羽織を翻して纏った。その動作には、これから始まる「狩り」への高揚感が滲んでいた。


「月見里、車を出せ。この音は人工的だ。そして何より――君が恐怖で上げる悲鳴は、とてもいいサンプリング素材になる」


「サンプリング……って、モルモット扱いじゃないですか!!」


   * * *


 私の運転する軽自動車は、都心を離れ山梨県の深い山間部へと入っていた。

 空はどんよりと曇り、今にも泣き出しそうな天気だ。私の「不運」が天候にも影響しているのだろうか。


 道中、古いトンネルに差し掛かった瞬間、キーンという粘着質な耳鳴りが私の頭を貫いた。


「いった……!?」

「うむ、気圧が下がったな」


 蓮は平然としているが、私はあまりの不快感にハンドルを握る手を強めた。ただの耳鳴りじゃない。もっと重く、何かが鼓膜に張り付くような嫌な感覚だ。


 トンネルを抜けると、そこには時代に取り残されたような集落があった。

 その一番奥、小高い丘の上に、目的の屋敷は建っていた。

 築百年は下らないであろう、重厚な日本家屋。黒い瓦屋根は、まるで巨大なカラスが翼を休めているように見える。


 車を降りた瞬間、肌を舐めるような湿気。そして、どこからともなく聞こえる「ヒョオオオ……」という風の音。


「うわぁ……雰囲気ありすぎ……悪い意味で」


 私が身震いすると、蓮が先に立って歩き出した。

 彼は屋敷の門の前で立ち止まり、ヘッドホンを首にかけたまま、空気を嗅ぐように鼻を鳴らす。


「……聞こえるか、月見里」

「え? 何も聞こえませんけど」

「風の音じゃない。この家自体が、微かに『鳴って』いる」


 蓮の表情から、先ほどまでのふざけた色が消えていた。

 その目は、眼前の屋敷ではなく、その構造の奥にある「何か」を見透かしているようだった。


「どうやら、ただの幽霊屋敷ではないらしい。……招かれざる『指揮者』がいるな」


 重厚な門扉が、ギィィと音を立ててひとりでに開く。

 まるで、私たちを怪異の腹の中へと飲み込むかのように。


「さあ、行こうか。君の不運が、この家でどんな化学反応を起こすか楽しみだ」


 蓮は楽しげに、闇に沈む屋敷へと足を踏み入れた。

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