第5話  例外──都市が噛み合わない日

 朝の交差点は、いつもより静かだった。


 車の量は変わらない。人の数も同じだ。

 違うのは、**止まり方**だった。


 赤信号で止まった車列の先頭。

 ブレーキランプが一つ、二つ、三つと点く。

 点き方は揃っている。

 だが、**完全に止まるまでの距離が、揃っていない。**


 先頭車両が止まった瞬間、後続が一拍遅れる。

 ぶつからない。

 ぶつからないが、**止まる“位置”が微妙にずれる**。


 歩行者信号が青に変わる。

 横断歩道に足を出した人たちが、一斉に半歩だけためらう。


「……あれ?」


 誰かが、そう言った。

 理由は分からない。

 音も光も、規則通りだ。


 それでも、**進むべきタイミングが、手応えとして掴めない。**


 桐生ユウトは、歩道の端に立ってそれを見ていた。

 自分の足元だけは、迷いがない。

 世界の“合図”が、彼に対しては常に先に終わっている。


 渡る。

 彼が一歩踏み出した瞬間、他の歩行者も動き出す。

 誰も彼を見ていない。

 だが、**流れが再同期する。**


 交差点を渡り切るころには、違和感は消えている。

 何事もなかったかのように。


 通勤電車のホーム。

 列は整っている。

 だが、ドアの位置に対する立ち位置が、**全体に数センチずれている**。


 電車が入ってくる。

 減速が、ほんの一瞬だけ長い。


 「……遅くない?」


 誰かが言い、

 別の誰かが「いや、定刻だよ」と返す。


 ドアが開く。

 降りる人と乗る人が、交錯しない。

 交錯しないが、**流れがぎこちない**。


 ユウトが乗ると、

 車内の揺れが一度だけ強くなり、すぐに収まる。


 吊革が、同時に揺れない。

 揺れの位相が、バラける。


 誰も転ばない。

 誰も声を上げない。


 だが、**全員が一瞬だけ、足の裏を確認する。**


 研究所の最寄り駅。

 改札機の一台が、停止表示を出している。

 係員が立っているが、修理をしていない。


「こちらどうぞ」


 案内される通路が、いつもより広い。

 通る人数が多いはずなのに、**渋滞が起きない**。


 地上に出るエスカレーター。

 一段目に乗った瞬間、**段の速度が一拍遅れる**。


 ガク、と来る。

 転ばない。

 だが、背後の人が手すりを強く握る。


 上り切るころには、元の速度に戻っている。

 誰も振り返らない。


 研究所の敷地。

 搬入口で、トラックが切り返しに手間取っている。


「ハンドル切りすぎ!」


「いや、これ以上切れない!」


 怒鳴り合いはしない。

 声は低い。

 だが、**車体が“いつもの角度”で曲がらない**。


 ユウトが脇を通る。

 彼の位置を境に、トラックの前輪が滑らかに回る。


「……行けた」


 運転手が呟く。

 理由は考えない。


 午前中、館内の空調が一度だけ止まる。

 アラームは鳴らない。

 五秒後、復旧。


 室温は変わっていない。

 だが、**空気の重さが一瞬だけ変わった**。


 誰かが喉を鳴らし、

 誰かが姿勢を正す。


 昼、外食。

 信号が連動して変わるはずの通りで、

 一つだけ、黄色が長い。


 車が止まる。

 止まりすぎる。

 後続が、判断に迷う。


 クラクションは鳴らない。

 代わりに、全員が**深呼吸を一度**する。


 青に変わる。

 何事もなく、流れる。


 午後、天気が崩れる予報。

 だが、雨は降らない。


 降らない代わりに、

 **雲の影が、街路樹の上で止まる。**


 日差しが切り替わらない。

 眩しくも、暗くもならない。


 帰路。

 バスが一本、運休表示になる。

 理由は「調整中」。


 次のバスは来る。

 混むはずだが、**全員が無意識に間隔を詰めない**。


 発車。

 段差を越えるとき、揺れが遅れる。

 遅れて、吸収される。


 ユウトは窓の外を見る。

 街灯が点く。

 点き方が、同時ではない。


 だが、暗くならない。


 自宅前の横断歩道。

 信号が青になる。


 誰も急がない。

 急がなくても、間に合う。


 渡り切る直前、

 背後で誰かがつまずく。


「……っ」


 声は短い。

 転ばない。

 手すりに触れる前に、**体勢が戻る**。


 家に入る。

 エレベーターが待っている。

 呼んだ覚えはない。


 ドアが閉まる。

 上昇が、少しだけ遅い。


 その遅さが、**心拍に合う**。


 部屋。

 照明が点く。

 少しだけ、遅れて。


 ユウトは靴を脱ぎ、座る。


 今日は、誰も怪我をしていない。

 事故も起きていない。

 ニュースにもならない。


 だが、街は一日中、**噛み合っていなかった**。


 最適化は働いている。

 だが、**間に合わない場面が増えている**。


 それでも、致命傷は避けられる。

 世界は、帳尻を合わせ続ける。


 ユウトは、介入しない。

 介入すれば、帳尻は“彼中心”になる。


 それを、世界も彼も望まない。


 窓の外で、信号が変わる。

 いつもより、少しだけ遅く。


 だが、誰も困らない。


 **これが、例外の形。**

 破壊ではない。

 崩壊でもない。


 **都市が、彼を計算しないまま動き続けるために払う、微細なコスト。**


 ユウトは明かりを落とした。

 暗闇は、ちょうどいい。


 世界は今日も回る。

 完璧ではないが、止まらない。


 ――それで十分だった。

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