無記名世界最強 〜裂け目に落ちた一般人、管理者権限で現代ダンジョンを無双する〜
空識(くうしき)
第1話 国道の側道、世界の縁で
夕方の研究棟は、昼の喧噪を薄く引き延ばした匂いがする。
消毒用アルコールと、金属の冷え、どこかで淹れられたコーヒーの残り香。
桐生ユウトは端末を閉じ、椅子を引いた。定時。今日も誤差なく終わった。
廊下の掲示板には、ダンジョン由来素材の供給遅延を知らせる貼り紙が一枚、増えている。誰も足を止めない。供給が遅れるのは珍しくないし、遅れた分は別のルートで埋め合わされる。医療用の触媒、耐熱合金、再生繊維——いずれも“ダンジョンがある世界”では、もう日用品に近い。
ユウトは研究者だ。探索者ではない。
深層に潜る理由も、剣を振るう理由も持たない。
彼の仕事は、持ち帰られたものを測り、再現し、使える形に落とすことだ。
年収は悪くない。むしろ良い。ダンジョン関連研究は世界的に資金が集まる。
それでも彼の生活は、驚くほど静かだった。
帰りにスーパーへ寄り、値引きの惣菜を眺め、足りないものを思い出す。
友人は二人いる。学生時代からの縁で、連絡は月に一度あればいい方だ。
家族は健在だが、干渉は少ない。互いに、過不足なく距離を保っている。
研究棟を出ると、空はまだ明るい。
構内の桜は五分咲き。風に揺れ、花弁が数枚、歩道に落ちている。
ユウトはそれを避けもしなければ、踏みしめもしない。
ただ、そこにあるものとして通り過ぎる。
日本はダンジョンと共に生きている。
危険はあるが、恩恵は計り知れない。
救急医療の成功率、エネルギー効率、材料寿命——数字は雄弁だ。
探索者は英雄ではない。命を張る仕事だが、称号は与えられない。
深層ほど危険で、深層ほど価値が高い。
だから彼らは潜る。
それだけの話だ。
駅へ向かう近道として、ユウトは国道沿いの側道を選んだ。
本線は車両専用。側道は縁石で分けられ、歩行者が通れる。
いつもの道だ。信号の癖も、路面の歪みも知っている。
遠くで、重い音がした。
低く、腹に響く振動。
工事の音だろう、と最初は思った。
次の瞬間、空気が変わった。
目の前、国道の側道——
アスファルトが、**裂けた**。
ひび割れではない。
裂け目だ。
地表が、縦に、奥へと口を開いた。
ユウトは一歩、後ろへ下がった。
判断は速い。恐怖より先に、危険を測る癖がある。
その裂け目の縁に、ライトが揺れた。
大型タンクローリーが三台、制動を失っている。
積載は可燃性物質。表示を読むまでもない。
「危ない——」
言葉が出たとき、世界はすでに前へ倒れていた。
一台目が、裂け目に吸われる。
金属が擦れ、火花が散る。
二台目、三台目。
連鎖する重量が、空間を押し広げる。
ユウトは走った。
逃げる、というより、**距離を取る**ための動きだった。
だが、間に合わない。
爆風が来る。
衝撃は、想像より静かだった。
耳鳴りが先に来て、視界が白くなる。
足が宙に浮く感覚。
重力が、方向を失う。
——落ちる。
暗闇が、縦に伸びていく。
火が、雨のように降る。
燃え広がるのではない。**流れ落ちる**。
意識は途切れ、戻り、また途切れる。
熱はあるが、痛みはない。
どこかで、壁が崩れ、空気が奪われ、何かが吼えた気がした。
だが、それを“見る”前に、意識は深く沈んだ。
どれほど時間が経ったのか、分からない。
次に感じたのは、冷たい風だった。
——地上だ。
夜の匂い。サイレン。人の気配。
ユウトは息を吸い、吐いた。
身体は無事だ。異常は感じない。
……いや。
**裸だった。**
「やばい」
呟いた瞬間、周囲が遠のく。
音が薄れ、視線が滑る。
誰の目にも、彼はいない。
理解は追いつかない。
だが、焦りは小さい。
まず、隠れる。
次に、帰る。
「……家に」
言葉が落ちた瞬間、景色が折り畳まれた。
——自宅の玄関。
鍵の感触。見慣れた床。
ユウトは深く息を吐いた。
シャワーを浴びよう。
水に打たれれば、頭が整う。
浴室の鏡に、**自分が映らない**ことに気づいたのは、蛇口を捻った後だった。
「……どうしたら、解除できる?」
問いは独り言だった。
返事は、なかった。
だが、**像は戻った**。
ユウトは、鏡の前で静かに立つ。
肩幅。身長。筋肉の張り。
いつもと、微妙に違う。
頭を洗い、身体を洗い、足の裏まで確かめる。
傷はない。
それでも、**確かに何かが変わっている**。
タオルで拭き、ため息を一つ。
「……腹、減ったな」
その言葉は、いつもの日常の延長だった。
だが、胸の奥で、初めて引っかかる。
——これは、何だ?
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