第7話 GPSと、「日本人(カイ)の美徳」
【エリナ視点】
カイが「鬼だな」と吐き捨て、黒いスマホをポケットにねじ込んで通話を切る。
私は、大きく息を吐き出してソファに沈み込んだ。
「……怖かった」
カップを持つ指先が、僅かに震えている。
これは「賭け」だった。
報酬はドル建て。でも、引き出しは不可。
生活費は、週3回の時短勤務で稼ぐはした金のみ。
……客観的に見れば、これは「奴隷契約」だ。
もし、彼がこの理不尽さに耐えきれず、渡したスマホを東京のドブ川に投げ捨てて、私の前から消えてしまったら?
その可能性は十分にあった。
今の彼には、もう守るべき会社も、プライドもないのだから。
私は、震える手でラップトップを開き、管理画面(アドミン・コンソール)を立ち上げた。
画面上の地図に、緑色の点が一つ、点滅している。
カイのGPSマーカーだ。
「……動いて」
点は、六本木の雑踏の中で止まっていた。
1分。5分。10分。
動かない。
彼は迷っているのだろうか。それとも、スマホをゴミ箱に捨てて、どこかへ行ってしまったのだろうか。
もしこの信号が消えたら、私は二度と彼を見つけられないかもしれない。
そう思った瞬間、心臓が冷たくなるのを感じた。
私は、ビジネスパートナーを失うのが怖いのか、それとも――。
ピコッ。
点が動いた。
ゆっくりと、しかし確かな足取りで、駅の方角へ。
そして、電車に乗って移動を始めた。
行き先は、彼が住むボロアパートのある街だ。
「……帰ったのね」
私は全身の力が抜けるのを感じた。
彼は捨てなかった。首輪(スマホ)を受け入れたのだ。
それから2日間。私は祈るような気持ちで、彼の動向を監視し続けた。
一日目。
彼は、私が用意した「再生企画室」という窓際部署に出社した。
誰もいない部屋で、ただ椅子に座っているだけの無意味な時間を、文句も言わずにこなし、定時(14時)まで席に座っていた。
そして、彼のGPSマーカーが、活発な動きを見せ始めた。
14時に退社した後、まっすぐ家に帰るのではなく、都内のインフラ施設――橋、トンネル、送電塔――を、精力的に巡り始めたのだ。
Ping! Ping! Ping!
管理画面に、次々とデータがアップロードされてくる。
荒川の水門。首都高の橋脚。
どれも、正確で、現場を知る者だけが撮れる「価値ある写真」ばかりだ。
「……ふふ」
私はモニターの前で、安堵の笑みを漏らした。
彼は腐っていなかった。
理不尽な状況に置かれても、与えられた役割の中で最善を尽くそうとする。
愚直で、不器用で、愛おしいほどの勤勉さ。
「……真面目な朴念仁」
私は画面上の緑の点を指でなぞった。
この国が崩壊しても、まだここには「日本人の美徳」が残っていた。 彼なら、信じられる。
彼になら、私の背中を預けられる。
「稼ぎなさい、カイ。……貴方が積み上げたドルの高さが、貴方の『信頼』の証よ」
私はワインを注いだ。
賭けは私の勝ちだ。
最高の「資産」を手に入れた祝杯は、彼が戻ってきた時にあげることにしよう。
まだ彼にはビジネスのイロハから教え直さないといけない。
ビデオ通話の発信ボタンを押す。
「カイ、話があるわ。ホテルに来なさい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます