第5話 窓のない城と14時の退勤ボタン
【カイの視点】
エリナがバスルームに消えた後、俺はもう一度シャワーを浴び直した。
肌に残る高級な石鹸の香りよりも、彼女の冷たい香水の匂いと、突きつけられた現実の方が強烈だったからだ。
7年ぶり、と彼女は言った。
だが、シャワーの水圧に打たれながら思う。
いや、もっとだ。
絵里がカナダへ発つ前の数年間、俺は現場のトラブル対応にかかりきりで、まともなデートすらしていなかった。
記念日も忘れ、彼女の誕生日すら
「ごめん、仕事が入った」
とキャンセルした記憶がある。
「……10年、か」
俺の「男」としての時間は、それくらい止まっていたのかもしれない。
鏡の中の自分を見る。仕立ての良いスーツを着ていても、目だけはまだ、追いつめられた社畜のままだ。
言われた通り、俺はかつての発注元であり、今はエリナが買収したインフラ企業の本社ビルへ向かった。
受付で「再生企画室長」としての新しいIDカードを受け取る。
プラスチックのカード一枚が、今の俺の命綱だ。
「こちらです」
総務の社員に案内されたのは、フロアの隅にある窓のない小部屋だった。
以前は備品倉庫として使われていたのだろう。
埃っぽい空気と、パイプ椅子、そして型落ちのデスクトップPCがポツンと置かれている。
「……ここが、俺の城か」
贅沢は言えない。
俺は席に着き、PCの電源を入れた。
ここからは、日本企業特有の「通過儀礼」だ。
遅すぎるOSの起動。
社内イントラネットへのログイン申請。
メールアカウントの設定。
『パスワードは英数字記号を混ぜて12文字以上、3ヶ月ごとに変更してください』という、セキュリティという名の嫌がらせ。
「……まどろっこしい」
俺は舌打ちしながら、キーボードを叩く。
この非効率な手続きこそが、正社員の証だというなら笑い話だ。
だが、俺にはやらなきゃいけないことがある。
エリナから渡された黒いスマホを取り出し、会社のシステムと同期させる。
PCのメールやスケジュールを、スマホから外部アクセスできるように設定を書き換える。
昨今はこういった設定は、気の遠くなるような稟議の果てに、許可がでる。
しかし、実のところ大したセキュリティは掛かっていない。
室長権限のアカウントであれば、ヘルプを見ずともできる。
没頭していると、腹の虫が鳴った。
時計を見る。13時55分。
昼飯を食うのも忘れていた。
だが、この俺の労働契約に「昼休憩」なんて悠長な時間はないし、「残業代」もつかない。
俺は作業を中断し、勤怠管理画面を開いた。
14:00。
秒針が頂点を回った瞬間、俺は迷わず【退勤】ボタンをクリックした。
「……お疲れ様でした」
誰もいない部屋で呟く。
かつての俺なら、ここからが「本番」だった。
深夜まで続くサービス残業の入り口。
だが今は、ここが出口だ。
俺はカバンも持たず、手ぶらで廊下に出た。
すれ違う社員たちが、怪訝な顔で俺を見る。
「あいつ、もう帰るのか?」
「あの部屋、リストラ部屋だろ?」
という視線。
昼休憩がすでに1時間押している事実を、彼らは認識することさえない。
ビルを出ると、真昼の太陽が眩しかった。
まだ日は高い。
街は動いている。
こんな時間に会社を出るなんて、現場監督時代にはあり得なかったことだ。
自由? いや、違う。
俺はポケットの中の黒いスマホを握りしめた。
会社員としての「篠田カイ」は終わった。
エリナにはさっさと戻って来いと言われている。
「……さて、鬼が出るか蛇が出るか」
俺は空腹を水で流し込み、雑踏の中へと歩き出した。
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