第5話 本物の損益は、デモと違う

 数日後。

 俺のスマホには、正式な証券アプリがインストールされていた。


「口座開設、おめでとうございます」


 琴音が、ささやかな缶ジュースで乾杯する。


「これでようやく、自分の金で相場に触れることができるな」


「入金は、とりあえずいくらにします?」


「そうだな……」


 手元にある現金は、多くはない。

 だが、役所の手続きの中で、生活用の支援金が少し出たのと、琴音の知り合いのつてで始めた「投機談義オンラインイベント」で、少額だが謝礼も入った。


「10万円入れて、そのうち半分の5万円を“実験枠”にしよう」


「また10万円」


「キリがいい。それに、10万円あれば、S株だけでなく、普通の単元株も一部触れるだろう?」


「そうですね。

 値段の安い銘柄なら100株単位でもいけます」


「だが、最初のうちは、

 “失っても生活に影響しない額”しか入れない」


「それはマジ大事です」


「破滅したくなければ、

 相場に入れる金と生活費を絶対に混ぜるな。

 これは、昔の俺が守れなかったルールだ」


 スマホで入金操作を行う。

 銀行口座から、証券口座へ。


 数字が変わる。


預り金残高:100,000円


「ようこそ、令和のリアルトレードの世界へ」


「大げさだな」


「いや、ここから先はガチです。

 1円動くたびに、本物のお金が増えたり減ったりするわけですから」


「デモでも数字は増減していたが」


「デモはね、“胃”が反応しないんですよ」


「……言い得て妙だ」


 昔、初めてまとまった資金を市場に入れたときの、

 腹の奥のひりつくような感覚を思い出す。


(あれを、もう一度味わうことになるのか)


 だが今度は、

 前より少しだけ、準備ができている。



初めてのリアルエントリー


「じゃあ、

 “デモで試した戦法を、リアルで小さくやってみる”のがいいですね」


「そうだな。

 同じ銘柄を使うのは避けよう。

 市場は常に変化しているからな」


「じゃあ今日は、地味に右肩上がりの中型株とかどうです?」


「派手ではないが、悪くない」


 琴音が候補をいくつか出し、

 俺はその中から一つを選んだ。


 日足は、緩やかな上昇トレンド。

 移動平均線(平均的な価格の推移を線で表したもの)の上で推移し、押し目らしきポイントもいくつかある。


「移動平均線も、今の教科書に載っているんだろう?」


「もちろん。

 短期線(5日線とか)と中期線(25日線とか)、

 長期線(75日線とか)を組み合わせて見るのが一般的ですね」


「俺の頃は、そういう線は自分で計算していた」


「うわ、面倒くさそう」


「だからこそ、むやみに指標を増やしすぎることはなかった」


「今は逆に、指標“だけ”増やしすぎて何も決められなくなる人が多いですね」


「……それはそれで、違う意味での罠だな」


 俺は日足を見ながら、

 エントリーポイントを考える。


「今日の高値を少し超えたところで買い、

 直近の押し目の安値を損切りラインにする」


「またブレイク順張りですね」


「最初は基本からだ。

 リスクの幅を計算する」


 エントリー予定:2,050円。

 損切りライン:1,980円。

 1株あたりのリスクは70円。


「5万円をこの戦略に使うとして、

 1回のトレードで失っていいのはその2%、つまり1,000円」


「1,000円 ÷ 70円 ≒ 14株……

 最大でも14株ですね」


「だったら、10株にしておこう。

 少し余裕を残す」


「めちゃくちゃ慎重ですね」


「慎重さは、一度失ってから身につくものだ」


 スマホの注文画面を開く。


 指値買い、2,050円。

 数量、10株。

 有効期限、当日。


 残高が減るわけではないが、

 「発注する」という行為だけで、背筋にうっすら汗がにじむ。


ご注文を受け付けました。


「……やっぱり、デモとは違うな」


「胃が反応してきました?」


「ああ、“もしこれが全部消えたら”という想像を、

 勝手にしてしまう」


「そこを、ルールで抑え込むんですよ」


 数分後、

 指値はあっさり約定した。


○○工業 買い 10株

平均取得単価:2,050円


 画面の評価損益が、

 +50円になったり、−30円になったりするたび、

 心臓が小さく跳ねる。


「これが、本物の値動きか」


「そうです。

 この“どうしようかな”って揺れる感情を、

 どう扱うかが投機の本番ですよ」


「……相場は結局、自分の感情との戦いだな」



小さなインフレと、大きな時間の流れ


 その日は、

 結局大きな動きにはならなかった。


 午後の引けに向けて、

 株価はじわじわと上がり、

 終値は2,100円。


 俺は、事前に決めていた通り、

 2,100円に指していた売り注文が約定した。


確定損益:+500円


「……たった500円か」


 率直な感想が、それだった。


 昔なら、

 500ドルどころか、

 数万ドル単位で動かすことも珍しくなかった。


「少ないと感じますか?」


 琴音が尋ねる。


「正直なところ、

 昔の感覚なら“ノイズ”だ。

 だが——」


 コンビニのレジで見た、

 弁当や飲み物の値段が頭をよぎる。


「この国の、

 最低限の食事一食分くらいにはなるだろう?」


「そうですね。

 コンビニ飯1〜2食分って感じですかね」


「なら、悪くない。

 一回、ルール通りに張って、

 コンビニ飯が一回分浮いた。そう考えれば、上等だ」


「感覚が地に足ついてて、いいと思います」


「それに——」


 俺はふと、

 スーパーの価格表示を思い出した。


「この世界、

 ずいぶん物価が高くなっているな」


「インフレですね。

 お金の価値が、昔より薄くなってる」


「となると、

 資産を“現金のまま”持っているだけというのは、

 昔よりも危険ということか」


「そういう考えもあります。

 だから、

 “長期投資でインフレに追いつこう”って人も多い」


「投機ではなく、投資か」


「はい。

 **“いい企業の株を長く持って、

 配当や成長で資産を増やす”**ってスタイルですね。

 インデックス投資とか、つみたてNISAとか、

 そういう制度もあります」


「……インデックス、NISA……

 訳のわからない言葉が増えたな」


「そのあたりは、

 また別の日に“投資編”としてやりましょう。

 今は“投機編”なので」


「投資編と投機編か。

 シリーズものになってきたな」


「はい。

**“令和相場で生き残るための、二本立て講座”**です」


「なかなかうまいタイトルをつける」



過去の自分への、一行


 その夜。

 小さな部屋の机の上で、

 俺は例の紺色のノートを開いていた。


 今日のトレードの記録を書く。


・銘柄:○○工業

・戦略:日足上昇トレンドの押し目後ブレイク狙い

・エントリー:2,050円 × 10株(約2万円分)

・損切りライン:1,980円(−70円 × 10株=−700円を想定)

・利確:2,100円(+50円 × 10株=+500円で確定)

・結果:+500円

・感情:

  ‐ 含み益が+300円〜+400円になったところで、

   “今すぐ売ってしまいたい”という衝動が出た。

  ‐ 損切りラインに近づいたときよりも、

   “利益が減るかもしれない”恐怖の方が強かった。

・反省:

  ‐ 初めてのリアルトレードとしては、

   事前に決めたルールを守れた。

  ‐ 今後、利確目標をどう決めるか、

   “伸ばす練習”も必要。


 そして最後に、

 ページの一番下に小さな一行を付け足した。


・昔の俺へ:

 同じ失敗を、今度は少しだけマシな形でやり直している。

 もし見ているなら、笑ってくれていい。


 書いてから、自分で苦笑した。


「誰に向かって書いているんだか」


 そう呟いたとき、

 机の上の本が視界に入った。


 『ある株式投機家の回想』


 表紙に描かれた男のシルエットが、

 今は少しだけ、他人に見えた。


(過去の俺は、

 この本の中に閉じ込めておけばいい)


 今ここにいるのは、

 令和の日本で、

 ひとつひとつルールを守りながら

 小さく張っているただの男だ。


(そしていつか、このノートが、誰かの手に渡る日が来るのかもしれない)


 そう思うと、

 少しだけ、ペンを走らせる手が軽くなった。

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