残酷な天使は歌わない

七四六明

プロローグ

残酷な天使

 この世界にはたくさんの星があり、それらによって形成された銀河がまたたくさんあって、それらを内包する宇宙は未だ無限に広がり続けている、と誰かが言った。


 ならば宇宙人が存在しても不思議ではないだろうし、異世界と呼ばれる異星の世界が存在していてもおかしくないと思う。

 ただ、どうしてそれらの世界が繋がるのかは、どんな学者にもわからないだろうけれど。


 だから、出会いと言うのは奇跡に等しくて、全七〇億の人間が出会うのだって奇跡なのだから、異世界から来た誰かと出会うなんて余程の奇跡に違いない。


「くそっ! 今日も負けた!」

「また負けたの? あんた、ギャンブルの才能ないねぇ」

「うっせぇ! 次こそは勝ってやる……おい、金!」

「ある訳ないでしょ、そんなの」

「だったら、あいつを働かせるか、さっさと売っちまえ!」


 男が指さした先で、青年は今にも死にそうな弱弱しい呼吸で眠っていた。


 体中には日頃受けている暴行、根性焼きの跡。外を歩けば、二度見を誘う無数の青痣。

 一五年の人生で一度も切ったことのない髪の下はニキビとフケ塗れで、五年前に両親によって売られた片目は未だ欠けたままだ。


 風呂などまともに入れさせて貰えているはずもなく、青年の体からは腐敗臭らしき臭いが放たれており、それが部屋に充満しないよう、その部屋の窓はいつも開いていた。


 果たして自分はいつからこうなのか。

 いつまで愛されていたのか。それとも、最初から愛されてなどいなかったのか。青年の記憶は希薄かつ朧気だ。


「大の字で寝るなって、いつも言ってるだろ! 畜生!」


 苛立つ父の蹴りが側腹部に入る。

 唐突の激痛に耐えかねて丸まった青年が胃液を嘔吐すると、父は我が子の顔を踏みつけた。

 何度も、何度も、何度も何度も、およそ八〇キロの体重をかけて踏みつける。


「畳の上で吐くんじゃねぇ! ったく汚ねぇなぁこいつぁ!!!」

「ちょっと。その子もう時期売れる頃合いなんだから、傷付けないでよ。内臓とか高いんだから、傷付いてたら価値が下がるじゃない」


 母らしき女性が煙草を消す。

 だがすぐにまた新しい煙草に火を点け、火を消した煙草を青年の前に落とした。


「ほら、今日のご飯。さっさと食べないと、掃除しちゃうからね」

「おい、俺の飯は?」

「ご飯代渡しておいたでしょ?」

「んなもん、馬で負けてもうねぇよ」

「じゃあ自業自得ね。自分で稼いで来るか、もしくは盗んで来な」

「ふざけんなてめぇ!」

「っ! 何しやがんだこの暴力亭主!」


 どっちも似たようなものだ。

 どうして一緒になろうと思ったのか。殴り合いの喧嘩をする両親を見て、青年は思う。


 とりあえず差し出された煙草を銜えようとした時、丸まる青年を覆う巨大な影を作り出す何かが、窓辺に降り立った。

 喧嘩していた両親さえ、固まって様子を見る。


 煙草を銜える青年。

 喧嘩していた両親。

 とても健全とは言えない家庭環境。見るからに家族から愛されていない青年の事を見下ろしたそれは、青年の口から煙草を取り上げて、平均体重の半分もない体を抱き上げる。


「どうして欲しい?」

「な、何だてめぇ! 何勝手に上がり込んで来やがる!」

「その子はあたしたちの子なの、返してくんない?!」

「どうして……欲しい?」


 怒鳴る両親の言葉を無視し、青年の口元へと耳を持っていく。

 何日もまともに水分を与えられていない乾き切った喉で、青年は辛うじて絞り出した。


「3……4、9……10……」

「……いいよ」


 その五分後だった。

 アパートの大家と共に、中年の男と黒髪の青年が例の部屋へとやって来る。

 鍵を開けようと大家が鍵を差し込もうとすると、扉が勝手に開いて中を見た大家が腰から崩れ落ちた。


 中年と黒髪が、大家を置いて入っていく。


 机の上に磔にされた女性の口を花瓶に見立てたのか、束になって突っ込まれている煙草。

 捌かれて開かれている胃の腑の中にも、灰皿の中身を叩き込まれている。


 そして、その夫と思しき男は首と四肢を切断。

 その体に詰まっていた五臓六腑を取り出され、一つ一つ仕分けされていた。


 更に物音が風呂場から聞こえ、駆け付けた中年が扉を開くと、顔面中央にヒールが突き刺さり、中年は勢いよく蹴飛ばされた。


「入って来ないで。今洗ってる最中なんだから」

「……あなたが、彼女に洗わせているの?」


 黒髪が問いかけるが、青年は答えない。

 ずっと背中を向けている。


「違うわ。私が洗ってあげてるの。ね。えっと……そういえば、名前何だっけ」

「は……8、2、5、4、1」

「恥ずかしいって」

「……じゃあちょっとだけ、その子の事任せたよ」

「いいのか?」

「ちゃんと見張ってて下さいよ。その子に何かあったら、先生の責任ですからね」

「こんな時だけ先生扱いするなよ……」


 保険証。マイナンバーカード。生徒証。

 彼個人の情報が載っている何かを探すが、ヤニだらけの部屋からは何も出て来ない。

 そも、彼の出生届けさえ出しているのかわからないレベルで何もない。この様子では、義務教育さえ受けさせて貰えてないだろう。


「どうです?」

「至って平和……コンマ数秒、子供を洗ってるこいつが堕天使で、千年間封印されてたはずの存在だって事を忘れそうになる」

「ふぅん……」


 暫くして、最低限の清潔感を得た青年がタオルにくるまれて来る。

 歩く姿もよろよろで、堕天使が支えてやらねばすぐに倒れてしまいそうな青年は、自分の定位置なのだろう窓辺の際に座り込んだ。


 黒髪はそんな彼の前で、膝を抱えてしゃがみ込む。


「今更になっちゃったけど、こんにちは。私はカミカ。カミカ・エウアウゲリュオン。君の名前は?」

「……7、0、0?」

「おい、こいつ――」


 カミカは手を出して制止する。

 青年は首を傾げて考え、塾考の末に。


「5、3、5」


 と言ってカミカを指差し、その後自分を指差して。


「4、7」


 と言った。


 暫くしてカミカはもちろん、側にいた中年も察した。

 それは名前じゃない。おそらく日々、この子が日常的に言われていた言葉。

 だがカミカは、燃え上がり欠けた憤怒を噛み砕き。


「シナって言うんだね。苗字は確か……」

「3、10」

「そう、佐藤だ。砂糖でシナモンとは、とっても甘い名前だな。ほっぺもプニプニだ」


 そうしてシナを懐柔し、カミカはシナを抱きしめる堕天使に向く。

 その視線はシナの両親のそれとも違う。暴力を超えた領域にある目だった。


「さて、どうする? 我々としては、大人しくこちら側に戻ってくれると嬉しいんだけどな」

「……いいわ。戻ってあげる。でも、この子も一緒じゃなきゃ嫌」

「ま、そうなるよね。先生、そう言う訳です。この子の入学手続きを」

「おいちょっと待て! 天使に選ばれたって言ったって、そいつは堕天使だぞ! 俺達の世界を滅亡に追い込んだ堕天使の一体、ルシフェルなんだぞ?! カミカ!」

「……わかっているさ。でも、そんな彼女が主と認める青年が、果たして何を見せてくれるのか。興味と好奇心とが、突き動かされる気がしないかい?」


 中年は頭を抱え、新しい煙草に火を点ける。

 たった一人話に取り残されているシナは三人を順に見上げ、最後に見上げたカミカに笑顔で頭を撫でられた。


「そう言う訳だ、佐藤シナ。君は天使に選ばれた。だからおいで、こちら側へ。天使使い育成校、ホワイト・ノアへ」

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