第6話 マオとの出会い

(今日は珍しく、感情を表に出してしまったな……)


 マオが帰ってから、あいも変わらずお客は一人もやって来なかった。

 締め作業をしながら、今日一日の反省をぼんやりと頭の中で思い返す。

 彼女のことを少し怖がらせてしまったかな、なんて湯気の消えたポットを見つめながら思った。


 感情に任せるなんて、自分らしくない。

 けれど、あの時は抑えきれなかった。

 彼女の抱えていた苦痛を聞いてしまったあの瞬間、彼女の辛そうな顔を見て、思わず感情が昂ってしまったのだ。

 脳裏に彼女の声なき悲鳴を上げるような表情が、今もなお鮮明に浮かび上がってくる。

 ふと、カップを持つ手が力強いことに気づく。


(あぁ、今日は感情のコントロールが難しい日だ……)


 頭を冷やそうと、表の看板を片付けに外に出た。

 冷たい風が頬を撫で、熱を奪っていく。

 上着も着ずに出たからか、すぐに身体の芯も冷え、思わず腕を抱いた。


「さむっ……早く戻ろ」


 季節はもう冬になる。

 口から出る息が白く、夜の空気に吸い込まれていく。

 ふと、上を見上げると夜空に一筋の流れ星が目に入った。


「彼女の選択が、彼女にとって良いものになりますように……」


 その願いは、透き通るような夜空の景色に消えていく。

 彼女と出会った日も、こんな澄んだ夜空の日だった——。


★★★


 その日は、お客が一人も来なくて、早めに店じまいでもしようかと考えていた日だった。

 少し肌寒いけれど、上着を持たずに店へきた僕は、薄いシャツ一枚で寒さを凌ぎながら、店の窓を閉めていた。


「カランカラン」


 扉が鳴り、僕は焦った。

 珈琲は僕が飲み干してしまったため、お客が来ても出すものがなかったからだ。

 いや別に、珈琲豆はまだあるし、お湯を沸かして淹れればいいだけの話なのだが。

 今日はもう閉店にしてしまおうと、意を決して決断した矢先だったため、思わず「嘘だろ」と心の中で呟いた。


 閉店間際に来るお客ほど、嫌な気分にさせるものはない。

 そう思う僕は多分、店員失格だ。

 まあ閉店間際といっても、まだ閉店時間から三十分も早いのだけど。

 けれど、以前店長が居た日、「もう今日は客は来ない、閉める」と言いながら、閉店時間の三時間前に閉めたこともあった。

 何を根拠に、と思ったがここは彼女の店なのだから、開けるも閉めるも彼女の自由だ。

 そして、そんな店長に、僕の自由にしていいと言われているのだから、たかだか三十分くらい早めに閉めたところで問題ないと思うのだ。

 だが、お客が来たのに閉め出したとなると、彼女は怒るかもしれない。

 そう思い、僕はいつもの言葉を口にした。


「いらっしゃいませ」


 お客は大切に、店長はよくそう口にする。


「お客様は神様ってやつですか?」


 前に、僕は彼女にそう問いかけた。


 『お客様は神様』——僕はそんな言葉は好きではない。

 お客と店員はあくまで同等。上も下もない。

 お互いに敬意を示すべき。

 そう思うからだ。

 僕はお客には敬語を使うけれど、それはお客だからではなく、単にその方が話しやすいからである。

 店長は、そんな僕のやさぐれた問いかけに、ポカンと不思議そうな顔をしていた。


「神様? そんなわけない」


 そう、言い切る彼女も大概だが。


 そんな、店長とのやりとりを思い返しながら、扉から入ってきたお客へと目を向けた。

 心の中で『帰れコール』をしながら。

 しかし、扉の前には誰もいなかった。

 正確には、居たけれど見えなかったのだ。


「あれ? 今、扉開いた気が——」


 僕は小さく震えあがった。

 幽霊や妖怪といった、非科学的なものは信じていない。

 けれど、信じていないからといって怖くないわけではない。

 大の大人が、お化け一つで怖がっているのも情けない話だが。

 僕は恐る恐る、足を進めながら扉の方へと向かっていた。


「主や」

「うひゃあっ!?」


 なんとも情けない声が出た。

 突如、足下の方から聞こえた声に、思わず飛び退き、後ずさった。

 視線を下に向けると、そこには真黒のローブを羽織った、小さな子どもが立っていた。

 僕にもとうとうお化けが見えるときが来てしまったのだと。

 そう絶望し、顔の血の気が引いていくのが自分でも分かった。

 そして、同時に、人は非科学的なものを目にしたとき本当に言葉を失うのだな、なんて冷静に考えている自分もいた。

 子どもが俯きながら、冷えた声で言った。


「主や、ここは何処じゃ」


 子どもらしからぬ話し方に、更に恐怖を覚える。

 彷徨う霊がそう言っている時の対処法を、頭をフル回転させて考える。

 間違った選択をすれば、この子はここに居座ってしまうかもしれない。

 けれど、そんな対処法を一瞬で考えられるわけもなく、僕は震える声でこう告げた。


「喫茶店です……」


 ただただ、事実を述べただけだった。


「きっさてん? このいい匂いはなんじゃ?」

「こ、珈琲の匂いですかね……?」


 スンスンと鼻を鳴らしながら、子どもは言った。


「我に、それをくれ」

「か、かしこまりました」


 これを飲めば帰ってくれるのだろうかと、そう震えながら珈琲の準備をしていった。

 子どもの声は、男とも女とも言い難いような中性的な声だった。

 子どもに珈琲は苦いのではないだろうか、そう思い勝手にミルクを入れて子どもの目の前へと差し出した。


「砂糖は入れますか……?」

「さとう?」

「い、入れると甘くなります」

「……分からないが、入れてくれ」


 僕は砂糖を一つ、カップに入れ混ぜて、砂糖が完全に溶けたのを確認してから言った。


「どうぞ……」

「うむ」


 子どもはカップを両手で持ちながら、ゆっくりと口つけた。

 その時、顔を上げていれば、子どもの顔は見えたのだが、僕は怖くて顔を上げられなかった。


「う……うまい」


 そう聞こえたのを耳にして、ホッと一息つく。

 これで成仏してくれたらな、と恐る恐る顔を上げた。


「——っ!」


 思わず息を呑んだ。


 恐怖からではない。


 あまりにも——それは、僕が今まで見た中で一番と言えるほど、幻想的で可憐な顔立ちだったからだ。


(幽霊って、綺麗なんだな……)


 肌は雪のように白く、指先で触れれば壊れてしまいそうなほど繊細で。

 桜色の唇が小さく結ばれ、宝石のようにキラキラと照明を反射する赤い瞳が僕を見つめている。

 まるで絵本から抜け出したような、美しく可憐な子どもだった。


 僕が惚けていると、目の前の子どもは不思議そうに僕の頬に手を伸ばした。

 ひんやりと、けれど生身の温かさがその手のひらから伝わってきた。


(ん? 温かい……?)


「生きてる!?」

「なんじゃ? 失礼な。お主、頬に黒いのがついておったぞ」


 そう言いながら、子どもは僕の頬についた珈琲の粉を拭った。

 そして、「これが邪魔じゃな」と言いながら、被っていた鍔広の帽子と羽織っていたローブを脱ぎ捨てた。

 絹のように美しい、地面につきそうなほどに長い白髪の毛が露わになった。


 それでようやく理解した。

 白髪に赤い瞳が特徴の、その姿を。


(アルビノ……?)


 僕の中の恐怖は消え失せていた。

 生きていることがわかったのもあるが、それだけではない。

 彼女の姿からは、何も怖いものが感じられなかったからだ。

 むしろ守りたい、そんな感情が湧いてくるような、儚げな姿をしていた。


「これは、上手い食い物じゃな。確かこーひーと言ったか?」

「あ、はい。正しくはこれは、ミルク珈琲ですね」

「みるくこーひー、か。もっと甘くするには『さとう』とやらを入れればよいのか?」

「そうですね、……入れますか?」

「うむ、もう少し入れてくれ」


 彼女は、そういうと僕の動作を前のめりになりながらジッと見つめ始めた。

 僕はもう二つほど、砂糖を足して出した。


「どうぞ」


 すぐさま彼女はカップを手にし、コクコクと一気に飲み干した。


「これじゃ!! 主や、すごいな!!」


 甘党の彼女には合っていたようだった。

 瞳を更にキラキラと瞬かせながら嬉しそうにしている。

 珈琲人冥利に尽きるな、なんてあるわけもない言葉を考えながら、微笑ましい気持ちになっていた時、ふと気づいた。

 子どもがこんなところに、こんな時間に、一人でいることに。

 幽霊ではないと知った今、別の問題が発生してきた。

 彼女は迷い子なのか、親は何処にいるのか、と。


「もう一つくれ!」


 そうカップを差し出す彼女に、僕は言った。


「あ、あの。親御さんは……? こんな時間に一人……じゃないですよね?」


 戸惑いながらそういうと、彼女はこてんと首を傾げた。


「我は、一人じゃよ? 主の目には他にも見えるのか?」

「いや、み、見えないですけど! 夜遅くだから、子ども一人は危ないと思いまして!」

「安心せい。我は一人でも大丈夫じゃ。ずっと、一人だったからな」


 子どもに諭されているこの状況を変に思いつつも、落ち着きながらそう言う彼女に、不思議と僕の頭の中も冷静になってきた。


「ちゃんと、帰れますか?」


 一呼吸置いて、そう問いかける。

 彼女は「無論だ」とでも言いたげに、得意げな表情を浮かべた。


「心配するでない。我は子どもじゃないからな」


 どこからどう見ても子どもの姿に、僕は呆れながら新しい珈琲を注ぎ始めた。

 今度はカフェインの入っていない珈琲を。

 この年の子どもが大人ぶろうとするのは、今も昔も変わらないらしい。

 大人びたような古風な話し方もその影響だろう。


「それに、我の住処はすぐそこじゃ」


 小学生にしては、しっかりしているようには見えるし、家も近いと言うのなら、これ以上僕が心配する必要はあるまい。


 ミルクを入れた珈琲に、今度は始めから砂糖を三つ落とし入れ、少女の前に差し出した。

 少女はまたもや嬉しそうな顔で、珈琲を飲み干した。

 そして、椅子からヒョイと飛び降りて、ローブを羽織り、帽子を被りながら言った。


「我はマオ。お主の名は?」

「あ、傑です」


 彼女も名前を口にしたので、僕も咄嗟に自分の名前の方を口にした。

 マオと名乗った少女は、ニッコリと微笑んだ後、僕の手のひらに手を添えて何かを渡しながら言った。


「スグル、また来るでの!」


 そう告げて、少女は颯爽と去っていった。

 見ると、手のひらの上には、一つのビー玉が転がっていた。


「あ、送って行きますよ——」


 彼女の後を追って、外へと出てみたが、彼女の姿はもうなかった。

 黒いローブが闇夜に紛れて、見えなかっただけかもしれないけれど。

 冬の始まりを告げる冷たい風が、扉の鈴を揺らした。

 振り返ると、店の背後には満点の星空が広がっていた。


「不思議な女の子だったな」


 それが、少女マオとの出会いだった。

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