今日のお昼はモンスターグルメ!
風
プロローグ
あのとき、自分の足元が沈んだような感覚がしたのを覚えている。
ジムの入り口。いつも通り、汗を流しに行くだけの午後だった。特別な予感なんてものはなくて、ただ仕事帰りの息苦しさを何とかしようと、機械的に足を運んだだけだ。
けれど、そこにあったはずの白い扉は、見慣れない石造りのアーチに変わっていた。時間をかけて作られたものではなく、ほんの一瞬で、誰かの意図に従って書き換えられたような、そんな存在だった。
誰かが悪ふざけしたにしては、手が込みすぎている。
誰かが改装したにしては、あまりにも急すぎる。
……いや、そもそも改装なら入り口に貼り紙があるはずだ。
そう思い直しながらも、足は自然と前に出ていた。馴染みの場所が突然形を変えたというのに、不思議と恐怖よりも気になったのだ。人間というのは案外、変化に対して前向きらしい。
そして一歩、また一歩と進むたび、世界はジムではなくなり、石壁の冷たい空気が頬を撫でた。
――気づけば、そこはダンジョンと呼ばれる場所になっていた。
最初に目に入ったのは、緑色の小さな生き物だった。
後から聞いた話では「ゴブリン」という名前らしい。だがそのときは、ただの変わった着ぐるみのようにしか見えなかった。向こうもこちらをじっと見つめてくる。反射的に距離をとったものの、逃げ出すほどの恐怖はなかった。
その理由は簡単で、あまりにも小さかったのだ。
あれなら殴れば倒せるんじゃないか、と。
そんなふうに、浅はかな考えが浮かぶ程度には現実味がなかった。
けれど、その浅はかさは案外正しかった。
試しに拳を握ってみたら、何の抵抗もなくゴブリンは倒れた。手応えは軽く、それ以上の意味もない。ただ、そこで突然、頭の奥に光が走ったような感覚がして、妙に体が軽くなる。
後に知ることになるが、それがレベルアップという現象だった。
その日を境に、世界は静かに変わり始めた。
恐怖ではなく、好奇心が人々を動かすようになっていった。
気づけば、ダンジョンは日常の中に溶け込み、当たり前のようにそこに存在していた。危険だと叫ぶ声はもちろんあった。政府は隔離を訴え続けていたし、専門家たちも頭を抱えていた。
それでも、人は慣れていく。
慣れてしまえば、あとはどう楽しむかを考えるだけだ。
SNSを開けば、見知らぬ誰かがモンスターを捌いて料理にしていた。
配信を覗けば、学生がボス討伐に挑んでいる。
通勤中、ふと横を見れば、商店街の奥に小さなダンジョンが形成されていることもあった。
そして――世の中にはいつだって、何かに命を燃やす連中がいる。
その代表みたいな四人組が、後に“ダンジョングルメハンター”と呼ばれることになる面々だ。
リーダーは、元会社員。
平凡な生活を続けるうちに、平凡ではないものに巻き込まれた。ジムがダンジョン化しても通い続けた結果、世界最高レベルの人間になったという、理解の難しい経歴を持っている。強いくせに、料理だけは驚くほど壊滅的だ。
カリウドは元教師。
学校がダンジョンになり、弱音を吐きたい状況でも、生徒たちの前で強がり続けた。そのまま鍛えたらトップランカーになってしまった、という人だ。ボス戦では頼もしいのに、緊急事態では暴言が先に出る。若者に人気なのは、不器用さも含めて人間味があるからだろう。
チーターは元ニート。
勤勉さとは無縁の生活を送っていたのに、気がつけばモンスター牧場を構築する第一人者になっていた。効率化の鬼で、倫理観が終わっているとよく言われるが、本人は気にしていない。むしろ誇っている節がある。
センセイは元SE。
人の手を煩わせない完全自動化を愛している人で、少し効率が落ちても自動化を優先する。彼の配信は便利か危険か、そのどちらかの感想で割れることが多い。政府の頭痛の種でもある。
四人に共通しているのは、迷いなく生きているということだった。
ダンジョンも、モンスターも、レベルアップも、そのどれもが彼らにとって障害ではなく、遊び場に近かった。
そして彼らがやり始めたのが、モンスターを食材として扱うことだった。
「こんばんは親子丼だー!」
「「「おー!」」」
そんな声が飛び交う配信が、気がつけば当たり前の光景になっていた。
視聴者数は日々増え続け、企業も協賛し始め、世界はゆっくりと形を変えていった。
日本だけが異質だと言われるようになったのは、しばらくしてからのことだ。
食べられる、稼げる。
その二つが揃っていれば、やることは決まっている。
日本人は真面目に容赦がないのだ。
世界各国の都市がダンジョン化していく中で、日本の主要都市だけが縮小し続けていた。モンスターが見つかれば乱獲し、討伐し、料理にする。そんな国をどう評価するべきか、他国は判断に困っていたらしい。
政府も頭を抱えてはいたが、止めることはできなかった。
止めれば経済が止まる。
止めれば治安も悪化する。
止めれば人々の楽しみが奪われる。
そして、誰よりも自由に動き回る四人組は、今日もどこかのダンジョンで、楽しげに鍋をかき回しているのだろう。
「今日のお昼は何にしようか」
その程度の、なんでもない会話が、いつの間にか世界の未来を左右している。
そんな時代になったのだと気づくのは、もう少し先のことだった。
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