アキバの魔窟と、シリコンの肉塊
平成元年、夏。
秋葉原の空気は、熱気とハンダの焼ける匂い、そして無数の電子機器が吐き出すオゾン臭で構成されていた。
駅を降りた瞬間、肌にまとわりつく湿気には、微量の金属イオンが含まれているような気がする。
『ラジオ会館』や『ガード下』の狭い通路には、抵抗器、コンデンサ、真空管といった電子の臓器たちが、青果店の野菜のように無造作に積み上げられている。
私は制服の襟を緩めながら、雑踏を歩いていた。
金田正一、一四歳。中学生になった私の背中には、もうランドセルはない。代わりに、ブランド物のレザーバッグがぶら下がっている。中身は教科書ではなく、数冊の通帳と、実印だ。
「6-2ファンド」の資産は、プラザ合意後の円高とバブルの波に乗り、すでに五億円を突破していた。
中学生が持つには余る金額だが、世界を買うには小銭に過ぎない。
目指す場所は、電気街の外れにある雑居ビル『千代田テック』の地下一階。
看板もない、鉄の扉。
その向こう側から、ブォォォォンという低い唸り音が漏れ出している。まるで、巨大な獣が寝息を立てているような重低音。
私は鍵を取り出し、重い扉を開けた。
途端に、熱風が顔を打つ。
室温30度。湿度60パーセント。
そこは、G20の技術開発拠点――通称「ラボ」だった。
「……遅いよ、カネちゃん」
部屋の奥から、くぐもった声が聞こえた。
声の主は、ジャンクパーツの山に埋もれるようにして座っていた。
**博士(ハカセ)**こと、高橋だ。
瓶底のような厚い眼鏡。伸び放題のボサボサ髪。黄ばんだランニングシャツ。
前世ではSEとして過労死寸前まで搾取されていた男だが、今の彼は、その狂気じみた集中力を自分の野望のためだけに使っている。
「悪いな。銀行の支店長を丸め込むのに手間取ったんだ」
私はコンビニ袋(差し入れのコーラとカロリーフレンド)を机に置いた。
机といっても、ビールのケースにベニヤ板を乗せただけの代物だ。その上には、解体された基盤や、剥き出しの配線がスパゲッティのように散乱している。
「で、どうなんだ? 例の『アレ』は」
私が尋ねると、博士はニタリと笑った。歯茎から少し血が滲んでいる。ビタミン不足だ。
「完成したよ。……いや、『培養』に成功したと言った方がいいかな」
博士が椅子を回転させ、部屋の最奥を指差した。
そこには、異様な塔がそびえ立っていた。
高さ二メートルほどのスチールラック。
そこにぎっしりと詰め込まれているのは、サーバーでもワークステーションでもない。
赤と白のプラスチック筐体。
エミリーコンピュータだ。
中古ショップで二束三文で買い集めた数百台のエミコンが、外装を剥がされ、基盤を改造され、無数の黒いケーブルで互いに接続されている。
ケーブルはまるで血管のように脈打ち、基盤の緑色のランプが心拍に合わせて明滅している。
ブーン、ブーン、ブーン。
数百個の冷却ファンが一斉に回り、熱風を吐き出している。
それは機械というより、シリコンと銅でできた「肉塊」に見えた。
「……気色悪いな」
私は正直な感想を漏らした。
「エミコンを直列繋ぎして、何になるんだ?」
「スパコンだよ」
博士は愛おしそうにその塔を撫でた。
「いいかい、カネちゃん。この世界の物理法則は、やっぱりおかしいんだ」
博士はホワイトボードに数式を殴り書きし始めた。
「電子の移動速度、抵抗値、熱伝導率。どれも俺たちの知ってる数値と微妙に違う。具体的に言うと……『この世界は計算が雑』なんだ」
「雑?」
「そう。例えば、CPUに過負荷をかけても、なぜか熱暴走しない。データの転送速度も、理論値の上限を平気で超える。まるで、神様が『細かい処理は面倒だから省略しちゃえ』って設定したみたいにな」
博士はコーラを開け、一気に半分ほど飲み干した。
「だから、この時代のショボい8ビットCPUでも、数千個並列に繋いで、俺が書いた特殊なカーネル(G-OSの原型)で制御してやれば……現代の『京』や『富岳』並みとは言わないが、90年代のスパコンなんて目じゃない計算能力が出るんだよ」
私は息を呑んだ。
エミコンの集合体が、スパコン?
この「バグだらけの世界」だからこそ成立する、禁断の錬金術。
「こいつを使えば、何ができる?」
「なんでも。株価の予測シミュレーション、暗号解読、世界中の通信網へのハッキング……。ダイヤルアップ回線を通じて、ペンタゴンの裏口を開けることだって可能だ」
博士はキーボードを叩いた。
モニター(ブラウン管を四つ並べたもの)に、文字列が滝のように流れる。
それは、現在開発中の次世代OS『G-OS』のソースコードだった。
本来なら、ウィンド95が登場して世界を変えるはずのGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)。それを、我々はこの薄暗い地下室で、すでに完成させつつある。
「メークロソフトもアッペルも、まだガレージでまごついている頃だ」
博士は画面を見つめながら、恍惚とした表情で呟いた。
「俺たちは、未来の技術を『密輸』しているだけじゃない。この世界のバグを利用して、さらにその先へ行ける」
ブォォォォン……。
エミコン・タワーの唸り音が大きくなった気がした。
赤と白のプラスチックの隙間から、青白いスパークが散る。
それはまるで、この世界が存在を許していないオーパーツが、産声を上げているようだった。
「資金はいくら要る?」
私は即座に切り替えた。技術的な理屈はどうでもいい。金になるかどうかが全てだ。
「この化け物を維持するための電気代、冷却設備、そして回線の増強。……月一千万は欲しい」
「安いもんだ」
私は小切手帳を取り出し、ボールペンを走らせた。
「五千万やる。その代わり、来月までにニューヨーク証券取引所のシステムにバックドアを仕掛けろ。ブラックマンデーの再来を、俺たちがコントロールするんだ」
「了解。……ああ、それと」
博士は小切手を受け取りながら、私の顔をじっと見た。
「鬼瓦から注文が入ってる。『自律思考型の殺人プログラム』を組んでくれってさ。中東で使うドローンに乗せるらしい」
「やれるのか?」
「余裕だ。このスパコンなら、人間の脳みそ一個分くらいのシミュレートは簡単にできる。……倫理リミッターを外せばな」
倫理。
その言葉が、熱気のこもった部屋に空しく響いた。
そんなものは、あの新宿の爆発と共に燃え尽きた。
私たちは、この歪んだ世界に対して、敬意など払う必要はない。
バグにはバグをぶつける。
毒には毒を盛る。
「やれ。徹底的にだ」
私は命じた。
博士はニヤリと笑い、再びキーボードに向かった。
カチャカチャカチャ……。
そのタイピング音は、乾いた骨がぶつかり合う音に似ていた。
背後のエミコン・タワーが、明滅を繰り返す。
その光は、まるで私たちを嘲笑う悪魔の目のようにも、あるいは私たちを祝福する神の瞬きのようにも見えた。
私は部屋を出ようとして、ふと壁に貼られたカレンダーを見た。
『平成元年』。
新しい時代が始まったばかりだ。
だが、その未来図は、この薄暗い地下室で、すでにどす黒く塗り替えられていた。
外に出ると、秋葉原の夜風が少し涼しく感じられた。
だが、私の肌に残る「電子の肉塊」の熱気は、いつまでも消えることはなかった。
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