転生したと思ったけど普通に自分だった、世の中か少しおかしいのでやっぱり転生だった件について報告します。
@Aceojisann
腐敗とアルコール
シーン1:腐敗とアルコール
新宿歌舞伎町の路地裏には、吐瀉物と残飯が腐ったような、都市特有の甘ったるい悪臭が常に滞留している。
午後七時。雑居ビル『ニュー・メトロポリタン』のエレベーターは、定員オーバーのブザーが鳴る寸前の重苦しさを伴って、ゆっくりと上昇していた。
箱の中の空気は最悪だった。
誰かがつけている安物の香水のムスク香と、染みついたタバコのヤニ臭さ、そして、擦り切れた背広から立ち上る、中年男たち特有の脂じみた体臭。それらが混ざり合い、鼻の粘膜にへばりつくような不快な層を形成している。
私は息を浅く吸い込んだ。肺の奥までこの空気を入れれば、自分の中にある何かが決定的に腐ってしまう気がしたからだ。
阿久津健二、五〇歳。
エレベーターの曇った鏡に映る自分の顔は、ひどく浮腫んでいた。目の下の隈は、徹夜の漫画執筆によるものではなく、単なる肝機能の低下と、将来への慢性的な不安によるものだ。
「……阿久津、お前、また太ったか?」
背後から声をかけられ、私は緩慢な動作で振り返った。
声の主は金田だ。かつては神童と呼ばれ、外資系証券会社でブイブイ言わせていた男。だが、今の彼はどうだ。
グレーのスーツは肩口が擦り切れ、襟元には白いフケが点々と落ちている。眼鏡のレンズは脂で汚れ、その奥にある瞳は、相場の乱高下に一喜一憂し続けた人間特有の、神経質で濁った光を宿していた。
「水太りだよ。代謝が落ちてるんだ」
私は短く答えた。
「代謝か。……俺のポートフォリオも代謝不良だ。損切りのタイミングを逃してばかりでな」
金田は自嘲気味に笑い、ポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭った。そのハンカチが黄ばんでいるのを見て、私は胸の奥が締め付けられるような同族嫌悪を覚えた。
チン、と間の抜けた音が鳴り、四階で扉が開いた。
『格安居酒屋 酔いどれ天国』。
床は油で黒ずみ、歩くたびに靴底がペチャッ、ペチャッ、と粘着質な音を立てる。
天井の換気扇は悲鳴のような駆動音を上げているが、店内に充満する焼き鳥の煙と、酸化した揚げ油の臭いを排出するには力不足だった。
通されたのは、奥の座敷席だった。
畳は擦り切れて毛羽立ち、あちこちにタバコの焦げ跡がある。座布団は煎餅のように薄く、湿気を吸って重たい。
そこに、二〇人の中年男女がひしめき合っていた。
大蔵小学校六年二組の同窓会。
聞こえはいいが、その実態は「敗残兵の傷の舐め合い」に過ぎない。
「おう、阿久津! 遅えぞ!」
野太い声が飛んできた。
部屋の隅、上座にデンと構えているのは鬼瓦だ。巨漢である。首周りの肉がワイシャツの襟を食い破りそうで、その太い指には安っぽい金の指輪が食い込んでいる。
元ヤクザ。今は産廃業者の現場監督。
彼の周りには、見えない境界線があるかのように、誰も近寄ろうとしない。ただ一人、酌をしている麗子を除いて。
「……ごめん。締め切り前でさ」
私は嘘をついた。締め切りなどない。連載は半年前に打ち切られ、今はアシスタントも雇えず、アダルトサイトの広告バナー用のイラストを内職で描いているだけだ。
靴を脱いで上がる際、強烈な足の臭いが鼻をついた。誰のかはわからない。全員の、五〇年分の疲労が濃縮された臭いだ。
私は金田の隣に腰を下ろした。
テーブルには、冷めきった枝豆、色の悪いマグロの刺身、そして大量の茶色い揚げ物が並んでいる。
ジョッキのビールは温くなり、泡が消えて、ただの苦い麦汁になり果てていた。
「かんぱーい」
誰かの掛け声で、気のない唱和が起こる。
カチャン、ゴツッ。
グラスがぶつかる音さえ、どこか鈍い。
隣の金田が、一口飲んで顔をしかめた。
「……マズいな。発泡酒か、これ」
「文句言うなよ。会費三千円だぞ」
私は枝豆を口に放り込んだ。塩気が強い。高血圧の敵だ。
口の中で豆の薄皮を舌でより分けながら、私は周囲を見渡した。
かつてのマドンナだった女子は、生活に疲れたパートのおばさんになっていた。
サッカー部のエースだった男子は、ハゲ散らかした警備員になっていた。
学級委員長だった権藤は、選挙に落ちて以来、無職のまま実家のスネをかじっているらしい。今日は来ていないのかと思ったら、トイレの列に並んでいる背中が見えた。その背中はあまりに小さく、丸まっていた。
「ねえ、阿久津くん」
対面に座っていた麗子が、紫煙を吐き出しながら話しかけてきた。
厚塗りのファンデーションが、目尻のシワに入り込んでひび割れている。ヒョウ柄のブラウスに、ジャラジャラとしたアクセサリー。かつて銀座で鳴らしたプライドだけが、彼女を支えている鎧なのだろう。
「あんた、まだ独身なんでしょ? いい加減、身を固めたら?」
「余計なお世話だよ。……麗子こそ、店はどうなんだ」
「閑古鳥よ。若い子はみんなパパ活だのマッチングアプリだのって。スナックで説教聞きながら飲むなんて文化、もう死滅したのよ」
彼女はハイボールを一気に煽り、氷をガリガリと噛み砕いた。
その音は、何かが壊れる音に似ていた。
「俺たち、どこで間違ったんだろうな」
金田がポツリと漏らした。
彼は箸で唐揚げをつついているが、食べようとはしない。油を見るだけで胃もたれがするのだろう。
「バブルの時か? 就職氷河期の時か? それとも、もっと前……あの小学校の教室にいた時から、俺たちの負けは決まってたのか?」
「よせよ」
私は遮った。
「タラレバを言い出したら、酒がマズくなるだけだ」
「でもよ」
鬼瓦が割り込んできた。彼はすでに一升瓶を半分空けており、顔を赤黒く染めている。
「もしもだ。もしも、今の記憶を持ったまま、ガキの頃に戻れるとしたら……お前ら、どうする?」
一瞬、座敷の空気が止まった。
換気扇の騒音だけが、ブォォンと響いている。
誰もが、一度は夢想したことのある妄想。
あの時、あの株を買っていれば。
あの時、あっちの会社を選んでいれば。
あの時、告白していれば。
「……そりゃあ」
金田が眼鏡を外し、指でレンズを拭った。
「全財産でアッペルとママゾンの株を買うさ。あと、ペットコインもな。六本木ヒルズの最上階で、ふんぞり返って暮らしてやる」
「あたしは」麗子が頬杖をつく。「もっと賢く男を選ぶわ。愛だの恋だのじゃなくて、将来性のある男をね。……政治家とか、官僚とか。裏から操って、国ごと動かすような女になりたいわね」
「俺は」鬼瓦が拳を握る。「組なんぞに入らねえ。今の知識がありゃあ、カタギのままで裏社会を牛耳れる。軍隊だって作れるかもしれねえ」
欲望。
薄汚く、浅ましく、そして切実な欲望。
それは、この30年間、社会の底辺で泥水を啜ってきた我々だからこそ抱ける、ドス黒いエネルギーだった。
私はグラスの水滴を指でなぞりながら、ぼんやりと考えた。
私ならどうする?
また漫画を描くか?
いや。今の私には、50年分のエンタメの知識がある。これから流行る映画、音楽、漫画、小説。すべてを知っている。
それらを先取りして発表すれば?
天才になれる。カリスマになれる。文化の神になれる。
「……世界征服だって、できるかもな」
私が冗談めかして言うと、全員がどっと笑った。
乾いた、自嘲の笑い。
歯茎が痩せ、銀歯が見える、美しくない中年の笑顔。
その時だった。
窓の外が、奇妙な色に染まったのは。
夕焼けではない。ネオンの光でもない。
青白い、電気溶接の火花のような、強烈な閃光。
キィィィィィン……。
耳鳴りかと思った音は、瞬く間に鼓膜を引き裂くごう音へと変わった。
「え?」
麗子が口を開けたまま、箸を落とした。
金田が眼鏡をかけ直そうとして、手を止めた。
鬼瓦が「あ?」と野太い声を上げた。
次の瞬間、世界が裏返った。
ドォォォォォォォォォォォッ!!
衝撃波が、雑居ビルの薄い壁を紙細工のように粉砕した。
窓ガラスが凶器の礫(つぶて)となって襲いかかる。
熱い。
熱波が肌を焼く。いや、蒸発させる。
座敷のテーブルが舞い上がり、揚げ物の油が宙に散り、それが炎となって我々に降り注ぐ。
痛みを感じる暇さえなかった。
私の視界の中で、金田の体が瓦礫に挟まれ、人形のように折れ曲がるのが見えた。
麗子の厚化粧が、高熱でドロドロに溶け落ちていくのが見えた。
鬼瓦の巨体が、炎に包まれて消えていくのが見えた。
ああ。
これが死か。
走馬灯などない。あるのは、圧倒的な暴力と、物理的な破壊だけ。
悔しい。
痛風の薬、まだ残ってたのに。
描きかけの原稿、誰が処分するんだ。
俺の人生、なんだったんだ。
ただ、消費されて、磨耗して、最後はゴミのように燃やされるのか。
意識が急速にホワイトアウトしていく。
感覚が消失する寸前、私は最後に思った。
――もしも。
もしも、本当にやり直せるなら。
今度は、誰にも遠慮なんてしない。
倫理も、道徳も、法律も知ったことか。
俺たちの欲望だけで、このクソみたいな世界を塗り替えてやる。
その思考を最後に、阿久津健二という50歳の男の人生は、新宿の夜空に散った塵となって消滅した。
そして。
次に私が感じたのは、熱でも痛みでもなく。
濡れたおむつの、どうしようもなく不快で、生温かい感触だった。
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