【PV100達成】黒いノート

マスターボヌール

第1話 選別

速見は、自分の手のひらを見つめていた。


蛍光灯の白い光が、指の腹に刻まれた細かい傷跡を浮かび上がらせる。古いものは白く硬化し、新しいものはまだ赤みを帯びている。右手の人差し指の付け根に、小さな膿が溜まっている。押せば痛みが走るが、速見は押さなかった。痛みを確認する必要はない。それは既に、そこにある。


「速見、お前また一人で残ってんのか」


振り返ると、同期の田島が呆れたような顔で立っていた。作業服の襟元が汚れている。この工場で働く者は皆、どこかしら汚れている。油か、埃か、疲労か。


「別に」


速見は短く答えて、視線を手元に戻した。


「別にって、もう終業から二時間経ってるぞ。残業代も出ねえのに」


「構わない」


田島は肩をすくめた。「お前さ、無理すんなよ。この仕事、真面目にやったって報われねえんだから」


速見は答えなかった。報われるかどうかなど、最初から問題ではなかった。


田島が去った後、速見は自分のロッカーを開けた。作業服の下に、黒い表紙のノートが隠されている。彼はそれを取り出し、ページをめくった。


水質検査の数値。化学物質の濃度。労働者の健康診断結果のコピー。内部文書の写真。


全て、基準値を超えている。全て、違法だ。


速見は数ヶ月かけて、これらの証拠を集めてきた。誰にも気づかれないように。誰にも話さずに。


彼はノートを閉じ、再びロッカーに仕舞い込んだ。


「まだ、時期じゃない」


誰に言うでもなく、呟いた。


---


翌朝、速見が工場に着くと、班長の久保田が掲示板の前に立っていた。五十代の男で、顔には深いシワが刻まれている。彼もまた、この工場の毒に長年晒されてきた一人だった。


「速見、ちょっといいか」


久保田は速見を詰所に呼んだ。中には誰もいない。


「明日のシフトだが」久保田は書類を見ながら言った。「第三ラインに、新人の宮田を入れようと思ってる」


速見の表情が僅かに変わった。「第三ライン?」


「ああ。そろそろ、あいつにも経験させないとな」


「まだ早いですよ」


久保田は顔を上げた。「お前、また庇う気か」


「庇う?違いますよ。ただ、あそこに新人を放り込めば、二日で倒れる。そんなの、分かりきってるでしょう」


「だから慣れさせるんだろ」久保田は溜息をついた。「お前だって分かってるはずだ。誰かがやらなきゃならねえ。それなら、若いうちに慣れさせた方がいい」


速見は黙った。


久保田の言うことは、間違っていない。この工場で生き延びるためには、毒に慣れるしかない。早く慣れた方が、長く生き延びられる。


しかし、速見はそれを受け入れることができなかった。


「俺が入る」


久保田は眉をひそめた。「またか」


「俺なら、持つ」


「お前が倒れたら、どうする? 結局、宮田みたいな新人に回ってくるんだぞ」


「俺は倒れない」


久保田は速見をじっと見つめた。その目には、困惑と諦めが混ざっていた。


「お前、いつもそうだな。自分から地獄に飛び込みやがる」


「俺は地獄に慣れてますから」


「慣れてるとか、そういう問題じゃねえんだよ」


久保田は書類を机に置いた。そして、腕を組んで天井を仰いだ。


「……分かった。だが、毎回お前が引き受けてたら、他の連中が育たねえ」


「それなら」速見は言った。「新田を入れてくれ」


久保田の表情が凍りついた。


「新田?」


「ああ」


「なんで新田なんだ」


速見は淡々と答えた。「新田は独身だ。それに、体力もある。宮田よりは適任だ」


久保田は何も言わなかった。ただ、速見を見つめていた。


その視線には、何かが混ざっていた。失望か。それとも、共犯の承認か。


「……お前も、選ぶ側になったんだな」


速見は答えなかった。


久保田は深く息を吐いた。「分かった。新田に言っておく」


「ありがとうございます」


「礼を言うな」久保田は低い声で言った。「お前もいつか、この選択の意味が分かる」


速見は詰所を出た。


廊下を歩きながら、彼は自分の手を見た。膿んだ傷が、じくじくと痛んでいる。


---


昼休み、速見は休憩室に入った。


宮田が、弁当を広げて座っていた。彼の隣には、新田がいた。


新田は40代の男で、痩せていて、顔色が悪い。彼はいつも黙って作業をこなし、誰とも深く関わろうとしない。速見も、彼とまともに話したことはなかった。


「速見先輩」宮田が声をかけてきた。「お疲れ様です」


「ああ」


速見は自販機でコーヒーを買い、隅の席に座った。


宮田と新田が、何か話している。新田は小さく頷くだけで、ほとんど喋らない。


久保田が休憩室に入ってきた。彼は新田の前で立ち止まった。


「新田、ちょっといいか」


新田は顔を上げた。


「明日のシフトだが、お前、第三ラインに入ってくれ」


新田の表情が、一瞬だけ強ばった。


「……はい」


「悪いな。急で」


「いえ」


新田は俯いた。


久保田は何も言わず、休憩室を出て行った。


宮田が、不安そうな顔で新田を見ている。


「新田さん、大丈夫ですか? 第三ラインって」


「大丈夫だよ」新田は無表情に答えた。「慣れてるから」


嘘だった。


新田は第三ラインに入ったことがない。それに、彼は持病を抱えている。腰痛と、軽い喘息。第三ラインの劣悪な環境は、彼の身体に確実に負担をかける。


速見はそれを知っていた。


宮田が、速見の方を見た。


「先輩、班長に何を言ったんですか?」


速見はコーヒーを飲んだ。「別に」


「でも」


「気にするな」


宮田は何か言いかけたが、口を閉じた。彼の目には、後ろめたさと——そして、安堵が浮かんでいた。


自分じゃなくて、良かった。


その感情を、宮田は隠そうとしている。しかし、隠しきれていない。


速見は、その目を見た。


そして、自分もまた同じ目をしていることに気づいた。


---


夕方、作業が終わった後、速見は機械の前に残った。


誰もいない作業場で、彼はプレス機の清掃を続けた。油を拭き取り、部品を確認し、ボルトを締め直す。


ふと、視線を感じて顔を上げた。


新田が、遠くの通路を歩いていた。


彼の背中は丸まり、歩き方は重い。防護マスクを手に持ち、もう一方の手で腰を押さえている。


速見は、新田を見た。


新田は、速見に気づいた。


二人の視線が交差した。


新田は、何も言わなかった。ただ、目を逸らして歩き去った。


速見も、何も言わなかった。


彼はただ、新田の背中が角を曲がり、視界から消えるのを見ていた。


---


速見は、工場の外に出た。


冷たい空気が肺を満たし、彼は深く息を吸い込んだ。


空は灰色に曇っていた。


彼は、自分の手のひらを見つめた。


傷跡だらけの手。膿んだ傷が、じくじくと痛んでいる。


「新田は独身だ」


自分に言い聞かせる。


「体力もある」


嘘だった。体力はない。持病もある。


年老いた母親と、離れて暮らす娘。守るべき存在がいるのに、守れる力はない。


速見は、それを知っている。


「宮田にはまだ、将来がある」


それも嘘だ。


将来など、誰にあるか分からない。この工場で働く限り、誰の将来も保証されていない。


速見は、ただ選んだ。


宮田を守り、新田を犠牲にすることを。


その選択に、合理的な理由などない。


ただ、速見が決めた。誰を守り、誰を犠牲にするか。


彼はポケットからロッカーの鍵を取り出した。あのノートが、まだそこにある。


証拠を集めて、何をするつもりだったのか。


告発するつもりだったのか。


それとも、ただ集めているだけなのか。


速見には、分からなかった。分からないからこそメモをとる。


「これで、いいのか」


彼は呟いた。


答えは、見えなかった。


ただ、手のひらの膿んだ傷が、じくじくと痛み続けていた。


---


翌日、新田は第三ラインに入った。


速見は遠くから、新田が防護マスクをきつく締める姿を見た。


新田の手は、僅かに震えていた。


宮田は、第一ラインで作業をしていた。彼は時折、第三ラインの方を見ていた。その目には、後ろめたさが滲んでいた。


しかし、彼は作業を続けた。


久保田は、速見のそばを通りかかった。


「新田、持つかな」


速見は答えなかった。


「お前が選んだんだ。責任、持てよ」


久保田はそう言って、去っていった。


速見は、自分のロッカーを開けた。


黒いノートが、そこにある。


彼はそれを取り出し、ページをめくった。


証拠。数値。記録。


全て、そこにある。


しかし、それを使うことは、できない。


使えば、工場は閉鎖される。全員が職を失う。新田も、宮田も、速見自身も。


だから、速見は何もしない。


ただ、証拠を集め続け、誰かを選び続け、自分の手を汚し続ける。


それが、速見の選んだ「猛毒」だった。


彼はノートを閉じ、ロッカーに仕舞い込んだ。


そして、作業場に戻った。


プレス機の前に立ち、スイッチを入れる。


機械が低い唸りを上げて動き始める。


速見は、黙々と作業を続けた。


---


(第1話 終)

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