新しいタブをクリックしてください。

カクヨムSF研@非公式

01 multiverse

multiverse


「新しいタブをクリックしてください。クリックする、クリックする、延々とクリックしてください。多元世界ってそういう世界なんです。それぞれのタブは、ほぼほぼ相互作用しません」


 そういうと先生は、プロセッサの許す限りの新しいタブを展開し続けた。それぞれのタブには、スポーツの記事、科学雑誌Newtonの記事、イラストなどなどが続く。

 永遠に。

 かつ有限に。

 先生はフリーズしたMacBookを白いテーブルのうえに置いて、まえに出た。

 わたしは画面の先生からタブを別にして、開いていたページのペン・ローズのツイスターを見ていた。

 わたしは、クロワッサンを頬張りながら、その断面を見ている。クロワッサンの断面みたいだなと思った。

 ペン・ローズのツイスター。

 わたしは、先生が横にずっと展開し続けた先で、あたらしい一歩を踏み出している。新しいタブはもう使わない。わたしがわたしの地面を歩み出している。


 新しいタブ、正確に言えばマルチバース№489地点では、きょうあなたがわたしを待っているはずだった。でもわたしはやってこない。いつまで経っても。わたしは東京の街にいない。同じマス目上の街で、名古屋の街にいることも、ニューヨークの街にいることもある。それは可能性、重ね合わせ、論理を宙づりにするもの。笑いと不安。

 ――笑いの街。あなたの街。

 ――不安なあなた。不安の街。

 わたしたちは、無限の差延の街に住む。


 新しいタブ、マルチバース№479地点では、きょうもあなたがわたしを待っている。気づけば遠のくあなたの姿は、わたしの知らないあなたの背中。

 わたしたちは、展開し続けるタブの世界で、二度と出会えない。相互作用をする確率はごく僅か。わたしは隣のタブであなたに出会っても、わたしはあなたを初めて見る。何度でも恋をする。何度でも。

 

 マルチバース上でわたしはあなたたちを見ている。ずっと遠くを、そこは無限の入れ子。

 ペンローズのツイスター。クロワッサンの生地とバターの層。そのあいだでわたしたちはあなたと出会う。それでも別れる。あれは、街灯の通り道。クリスマスの、世界の終わり。世界像の一新。


 わたしはあなたたちを見ている。あなたたちはわたしを見ている。きっとそうだと、新しいタブを開くとき、思う。それは自然なことだと思う。わたしはずっと、量子力学的なことが自然だと感じてきたから。

 わたしはもうすぐ、実数部から消えゆくのだ。

 そのころ、宇宙像は組み替え直される。

 宇宙は、時空は、クロワッサンのかたち。その生地とバターのあいまにわたしたちは、組み替え直される。無限の入れ子のなか、あなたは気づく。あなたもまた閉ループに取り残されている。

 きっと気づくはず。

 わたしは、気づいた。

 どうやら、これからわたしたちは始めないといけないらしい。



 わたしのなかの、あなた。

 あなたはきょうも走っている。

 速度を緩めずにまっすぐ走っている。心拍数は上がる、上がる、上がり続ける。

 それでも意思だけは、前に進む。わたしはあなたを知っている。ひたむきな性格で、ひたむきな努力を続けている。あなたのコースには障害物はない。

 わたしは知っている。あなたが来年のレースで一番になることを。それは決定された事実。

 あなたは、走る。走ることを決定づけられている。あなたは走り続ける。となりの新しいタブでもそう。あなたは走っている。そうして、レースに出る。でも、となりのあなたは一等にはなれない。

 なぜなら、組み合わせ上の不幸だから。わたしは知っている。あなたには、あなたの知らないわたしの知るいくつかのバリエーションがある。

 わたしと相互作用して、あなたは一等の勝者になる。でも相互作用して消えたいくつものあなたの星々は、だれも気づかない夜空の星。


 未来になれなかった夜。


 わたしのなかの、あなた。

 あなたは星に願っている。あなたは、眠る。

 夢の中の夢で、あなたは一度も目覚めたことがない。夢では、あなたのコードは別の新しいタブを開いて、どこかのあなたになっている。わたしは、知らないあなたになっている。わたしは知っている。

 わたしはこうして大人になった。あなたは、子どものままだ。

 ちょっとした事故だった。

 あなたは知らない。あなた自身に起きたこと。

 あなたは夢の中の夢。あなたは、誰でもない、あなただけれど、夢の存在。

 気づけば月の砂漠をただひとり走っている。

 銀色に輝くコース、そうして氷、メタン、そういった冷たい温度のなかを。

 わたしは知らない。灯油を運ぶ車がやってくる頃、わたしは凍えた両手で、暖かい新しいタブをクリックした。


 わたしのなかのあなたたち。あなたたちは、もうあなたたちじゃない。わたしの知らない彼らになって、新しいタブが全て落下して、世界が終わる。もう何も戻らない。

 わたしはもう、あなたたちの走りを知らない。あなたたちの朝を知らない。

 夕暮れにひとり、あなたを見いだしても、誰もあなたに手を差しのばさない。

 あなたは、未来になれなかった夜。

 夜空には、ひとつも星はない。


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