第37話 『開封された遺言と、妻の知っていた真実』
嵐が去った病室には、穏やかな朝の光が満ちていた。
美咲の腕の中には、スヤスヤと眠る小さな命。
それを取り囲むように、俺、義父の源蔵、義母、そして泥だらけの西園寺と医師が立っていた。
「……いい顔をしてる」
源蔵が目を細めた。
「でかしたぞ、美咲。……そして健太。お前もよくやった」
「ありがとうございます……」
俺は安堵と疲労でフラフラだった。
これでいい。このまま穏やかに……。
「よし!」
突然、源蔵が大声を上げた。
彼は懐から、しわくちゃになった封筒を取り出した。
あの日、俺が回収し損ねた『遺言(告発状)』だ。
「健太。……今こそ、これを読む時だ」
「えっ!?」
「お前が死ぬ覚悟で書いた、家族への手紙だ。……新しい命が生まれた今、この子の前で読み上げ、お前の生き様を刻み込んでやろう!」
やめろ。
それは生き様じゃない。ただの「ネタばらし」だ。
中身は『実は健康です。嘘ついてごめんなさい』という謝罪文なのだから。
「お、お義父さん! それは縁起が悪いです! 捨てましょう!」
「馬鹿もん! 魂の叫びを捨てる奴がいるか!」
源蔵は聞く耳を持たない。
彼は厳かに封を開けようとした。
「あっ、ああっ! ダメですぅぅ!」
医師が奇声を上げて飛びかかった。
「それは僕の! 僕のラブレターです!」
「はぁ!? 何言ってんだヤブ医者!」
「看護師長へのラブレターを、間違えて相沢さんのカバンに入れちゃったんです! 見ないでぇぇ!」
無理がある。あまりにも無理がある嘘だ。
源蔵は医師を軽々と振り払い、ついに中の便箋を取り出した。
「往生際が悪いぞ! ……えー、なになに」
源蔵が読み上げる。
『拝啓、お父さん、お母さん。……そして美咲』
俺は目を閉じた。
終わった。
西園寺が「南無……」と合掌しているのが気配で分かる。
『実は、皆様に重大な嘘をついていました』
病室の空気が凍る。
『私は……余命1年ではありません。心臓は健康そのものです』
シン……。
完全なる静寂。
赤ちゃんの寝息だけが聞こえる。
「……は?」
源蔵が老眼鏡の位置を直し、二度見した。
『医師のカルテ取り違えにより、誤って宣告されましたが、実際はただの不整脈でした。……しかし、美咲の優しさに甘えたくて、今日まで言い出せませんでした。本当に申し訳ありません』
読み終わった源蔵の手が震えている。
顔色が、赤から青、そしてドス黒い紫色へと変化していく。
「……健太ァァァッ!!!」
雷が落ちた。
「き、貴様……! ワシの涙を! マムシドリンクを! 返せぇぇぇ!!」
「ひぃぃっ! ごめんなさいぃぃ!」
俺は土下座した。床に額をめり込ませる勢いで。
医師と西園寺も並んで土下座する。
「お義父さん! 殺すなら俺を! 西園寺たちは関係ありません!」
「全員まとめて東京湾だ!」
源蔵が杖を振り上げた、その時。
「……お父さん、やめて」
静かな声が響いた。
美咲だ。
彼女はベッドの上で、赤ちゃんを抱いたまま、穏やかに微笑んでいた。
「大きな声を出すと、この子が起きちゃうわ」
「し、しかし美咲! こいつはとんでもない嘘を……!」
「知ってたわよ」
え?
俺は顔を上げた。
源蔵も、医師も、西園寺も、口をポカンと開けている。
「……知ってた?」
「ええ。……だいぶ前からね」
美咲は俺を見た。
その瞳は、すべてを見透かしていた。
「あの日、あなたが踏んで隠した診断書。『A判定』って見えたし」
「あ……」
「それに、病人にしては顔色が良すぎるし、階段ダッシュするし、食欲も旺盛だし。……気づかないわけないじゃない」
彼女はクスクスと笑った。
「西園寺くんの演技も、先生の挙動不審も、全部バレバレだったわよ」
西園寺と医師が「うわぁぁ」と頭を抱える。
俺は呆然とした。
彼女は知っていた。知っていて、俺の茶番に付き合ってくれていたのか。
「……じゃあ、なんで」
俺は震える声で聞いた。
「なんで、騙されたフリをしてたんだ? ……俺を軽蔑しなかったのか?」
「軽蔑? まさか」
美咲は首を横に振った。
「嬉しかったのよ。……あの不器用なあなたが、嘘をついてまで私と一緒にいようとしてくれたことが」
彼女は赤ちゃんを撫でた。
「もし、すぐに『健康です』って言われてたら……私たちは元の冷え切った夫婦に戻っていたかもしれない。あなたが必死に『死ぬ気で』愛してくれたから、私も素直になれたの」
美咲は俺に手を差し伸べた。
「健太。……嘘つきのあなたも、健康なあなたも、全部ひっくるめて愛してるわ」
俺は涙が止まらなかった。
彼女の手を握り、その甲に額を押し付けた。
許された。
そして、受け入れられた。
「……ありがとう。……ごめん。……ありがとう」
俺の嗚咽が病室に響く。
源蔵は振り上げた杖をゆっくりと下ろし、ふん、と鼻を鳴らした。
「……美咲がそう言うなら、仕方あるまい」
彼は俺の背中を、杖の先で小突いた。
「おい、嘘つき。……命拾いしたな」
「……はい」
「その代わり! この子はワシが鍛える! お前みたいな嘘つきにならんようにな!」
「勘弁してください……!」
病室に笑いが戻った。
窓の外では、台風一過の青空が広がっている。
365日のカウントダウンは、ここで終わった。
死へのカウントダウンではなく、新しい家族の始まりへのカウントアップだったのだ。
「……名前、決めたわ」
美咲が言った。
「『陽向(ひなた)』。……嵐のあとに、暖かく照らしてくれるように」
「いい名前だ」
俺は陽向の小さな手を指でつついた。
柔らかい。温かい。
生きている。
俺たちの「離婚するはずだった」物語は、こうして幕を閉じた。
……はずだった。
数年後。
俺たちがどうなったか。
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