第11話
「ジョニー君」
と、出迎えたのは杏子であって、ユミはジョニーに気づくなり、なんとも言えないといった顔をした。珈琲の香りが漂う中に、渋みのある紅茶の香りがした。まるで紅茶が、杏子の代名詞であるかのように。
「今日は休みだって聞きました。忘れ物ですか?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど」嘘が吐けなかった。
「隣、ほら、隣。空いてます。このお店ガラガラですけど、隣」
荷物を避けますね、と続けた杏子のペースに従わざるを得なくって、ジョニーはわずかな抵抗として、杏子から一つ席をあけて右側に腰かけることにした。肩からかけていた小さな鞄を置く。ジョニーは客として初めてこの店にきたことよりも、杏子がいる事実になんだか身を引いた。アメリカン珈琲を頼んで、スマホを取りだそうとしたが今は危険だと、本能が警告する。だから先ほどの長ネギを見せるタイミングをどうしようかと迷っていたとき、
「ほら、ジョニー君のシフト、教えてくれないけど会えました。巡り合わせってヤツです」
杏子の瞳が輝いて、星が溢れた。ユミは作業をしながら、杏子に向けて口を開いた。
「杏子ちゃん、だっけ? よほどジョニー君のことが好きなのね」
「まあ、推し活ですから」
ジョニーはなにも反応ができなかった。取るべき行動、というものがどこか遠のいていた。なんだか杏子だけが、この、梅雨入りした店内の様子に気づかずにいる。正直帰ろうかと思っていた。しかし、長ネギとラインの連絡先、はたまたその登録名から本名がわかるのではないかという思いが、期待が、この場所にジョニーを繋ぎとめている。
「それで、ジョニーくん。今日は休みなのに珍しいわね」
「いえ、近くを歩いてて。そしたら長ネギが、」つい、うっかりこぼしてしまった。
「長ネギ?」
ユミのラメがジョニーへと向き、数回瞬きをして見せた。それは杏子も同じであったが、その視線の密度がやはり違う。ジョニーはなんだか逃げ場を失った。少し間をあけて、迷った挙句に切りだしてみることにした。
「いや、そこの道路に長ネギが落ちてて。だから、直接見せようかなって」
そもそもラインしてるんですか、とつけ足したところユミが考える間もなく言う。
「さっき杏子ちゃんにも聞かれたんだけど、私、ラインしてないのよね」
彼女の頬にえくぼができた。ティックトックも知らない、ラインもしていない、となると。どうしても、年齢は当然上なのだろうが、ジョニーから見ても彼女の年齢はせいぜい上に見て二十八歳くらいまでにしか見えない。そう考えると、今時珍しいな、と思った。
「魔女のユミさんと仲良くなろうと思ったんですよ。そしたらまさかのやってないなんて、魔女っぽさ増してますよね。そういうところ、すっごいイイ!」
口元が持ち上がっているのに、目が笑っていない杏子の言葉に誰も答えることができなかった。それでも杏子はピン留めした髪を耳にかけながら、アイシャドウとアイライナーの間からジョニーに視線を定めている。ふふ、と笑う杏子がカップを手にし、小指を立てるさまを横目で見ていると、その後ろでジョージがスクワットをしていた。「言葉よりも、行動がすべてだ!」なんだか他人事に思えなかった。アメリカン珈琲がジョークを言ったのかと思うことにした。珈琲がジョニーのカップに注がれて、立ち上る湯気と共に、ユミはおもむろに切りだす。
「それで、落とし物っていうのはどんな写真なの? 見せてよ」
「コレです」
スマホを取りだして、ジョニーは画面をユミに向けた。ただ長ネギが落ちているだけだったが、ジョニーはなんとなく面白さを感じた。覗きこもうとする杏子にも一応画面を向けたのだが、興味がなさそうに何度かうなずいて体を引いた。スマホを収めようとしたとき、ユミがちょっと待って、と言って引き留める。
「めちゃくちゃ面白いじゃない。その画像ちょっと欲しいんだけど。どうしたらいいかな。メールで送れる?」
「アイフォンなら、エアドロップがありますよ」
「ごめん、私スマホとか機械苦手だから、ちょっと教えてほしいんだけど」
言って、ユミはかなり古い機種のボタンがついているアイフォンを取りだした。おそらくアイフォン6だろうと考えたが、大してエアドロップの機能は変わらないだろう。ジョニーは立ち上がって、ユミからアイフォンを預かった。ユミのスマホをカウンターに置いて、エアドロップの設定を操作し、データを送る。「へえ、こんな機能あるんだ。知らなかった」と、のぞき込むユミに、ジョニーは得意げな顔でスマホを差し出した。
「落とし物が無事、私の元に届けられました」
「いやそれ、ユミさんの落とし物じゃないですし」
こういう、よくわからないやりとりがあって、ジョニーはなんだか一瞬だけホッとした気持ちになった。薄っすらと流れている店内BGMが聞こえるほどには。外の雨音にかき消されない程度には。そういう一瞬があって、やはり、杏子が口を挟む。
「私にも送ってくださいよ。それならインスタでDMしませんか? 私彼氏いるんで、ラインはちょっとできないんですけど」
「今はインスタとか、やってなくって」
湿った言葉に乾いた返しをすると、杏子は身を乗り出してさらに続けた。
「でもティックトッカー時代は結構インスタも動いてたじゃないですか。アカウントも残ってるし。私、今でもフォローしてるんですよ。時々見てますし」
「アプリ自体、消したから」
瞳の星が今だ、と言わんばかりに輝いている。そういう杏子の様子に身を引きつつ、ジョニーはわずかに眉を下げた。杏子は未だに諦めていない様子だ。むしろこれをなにかのチャンスだとでも思っているのだろうか。アメリカン珈琲が冷めた目つきでジョニーを見つめていた。「男なら素直に言葉に表せ!」ジョージの言葉がざらついていた。だからジョニーは外の様子を見て、雨が降っているな、なんて、思ったりした。ぶ厚い雨雲が、頭上で漂いはじめた頃、お店の扉の前にぼんやりとしたシルエットが傘をたたんでいた。カランカラン。乾いたドアベルの音と同時に、聞き馴染みのある声がした。
「ういーっす。ユミさんこんにちは! って、ジョニーもいたのかよ」
大翔だった。なんだ、いるなら連絡しろよ。そういう理不尽な要求があって、ジョニーは隣の席に置いた鞄をカウンターに置き直して、席を空ける。「よっ」と、大翔。「よ」と、ジョニー。当然のようにジョニーの隣に座った大翔はアイス珈琲を頼んだ。ミルクは二つ、シロップ多め。なんとも子供っぽかったが、彼の無邪気な笑いにはよく合っている。
「私、帰ります。〈おあいそ〉お願いします」
ユミや大翔に愛想を尽かした、そういう冷たい声が杏子の薄い唇から発せられる。お会計を手早く済ませている杏子は、ジョニーの視界で無造作に小銭を財布に戻した。なにかのパズルのピースが合わなくて、空回りをしている、そういう、たたずまい、みたいなものを感じた。
「名前、覚えてくれました?」
杏子が唐突にジョニーに声をかけてきた。その会話の内実が理解できなくて、ジョニーは遅れて頭を下げた。すると、
「杏子です。杏子。また会いましょう」
杏子は続けてそう言った。スマホを片手に手を振りながら、ジョニーの背後を通り過ぎる。彼女のスマホケースの裏側に、ジョニーの写真が挟まっていることを、見逃せなかった。「なんか、気まずい感じだった?」ジョニーでも、ユミでもなく、ジョージでもなく、大翔の発言が、妙に静寂じみた空気を切り裂いてくれた。正直助かったと思った。雨音が増して本格的に降り始め、なにも助かってはいなかった。これは、しばらく動けない。
「大雨になっちゃいましたね。あの子大丈夫か?」
「知らねえよ」つい、口から言葉が漏れてしまった。
「お、なんかジョニーが久しぶりに怒ってんぞ。そりゃ雨も強くなるわけだ」
平然と失礼な発言をする大翔からジョニーは視線を逸らした。果たして、怒っているのだろうか。そういう疑問が湧いた。ジョニーは自分の感情から逃げるように視線を本の群れに移す。『霧雨と片時雨』に横に、同じ作者の『紙細工の月だけが知っている』があった。月なんて、しばらく見れていないな、と思った。
「大翔君にしてはこの時間、珍しいわね。学校帰り?」
「いや、今日は俺なんも授業なくって。ユミさんにちょっと話があったんですよ」
なんだか会話が聞こえたが、ジョニーは入らない。そういう気分ではなかった。
「なんつうか。本人目の前にして言うことじゃないんすけど。まあ見ての通りコイツ、こんなじゃないですか」
そうね、とユミ。余計に会話に入る気はなくなったが、会話は聞いていることにした。こんな、という部分はジョニーにはわからないし、わかりたくもない。複雑な気持ちになったが、とりあえず大翔の言葉を最後まで聞くことにした。
「こんなだから、ほら、ああいう子とかもいたりして。要約すると、よろしく頼みますってことなんすけど」
なんだよ、それ。ジョニーはようやく二人の会話に割って入った。ユミがよろしく頼まれました、なんて言うものだから、大翔が黒縁眼鏡の奥の長いまつ毛を持ち上げて笑った。空気が徐々に晴れて行く。そういうところに杭を打つのが大翔であったりして。
「お前はとりあえず彼女作れ。ま、ああいう子みたいなのはちょっと気合わなさそうだけど」
胃の辺りがなんだかもたついた。考えたくないことが一気に押し寄せた。突風が視界をかき消していた。ジョニーはうな垂れて、目を逸らす。ジョニーにはどうにも恋人という感覚があまり理解できない。かといって関係だけを持つのも違う。
「男なら、決めどころを逃すな!」
ジョージはいつも、やはり、ジョージだったりするわけだが。どうにも、すべてが重みをもっている気がした。雨音が少しだけ、和らいだ。
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