二章
第9話
銀のトレンチを覗いても、伝票番号を三枚消費しても、サイフォンをユミに手渡しても、サイドメニューのトーストを運んでみても、ニューバランスの馴染んできたダッドシューズの重みを感じてみても、どうやら現状が理解できなかった。これが繁忙期というやつだろうか。閑散期なりのあがきだろうか。働き始めて二週間が経つが、これだけ人にあふれた光景を見たことがない。一度たりともない。二週間目、つまり、梅雨入りから十四日目ということだ。この喫茶店・
「人に優しくあれ! 男なら泣くな! 愛を知れ!」
やはりジョージは唐突に言った。なんだか懐かしい感じがしながら、ジョニーはやはり現状を理解できないままだったりする。カウンター席から、
「あらためて、ジョニーがいつもお世話になっております」
両肘で上半身を預けながら言った。彼は丸眼鏡にセンターパートで分けた髪と頬を揺らしている。するとユミがカウンター内で珈琲を淹れたり、ピザトーストをトースターに入れたりしながら、表情を緩ませてラメを光らせているではないか! なんだかジョニーだけが取り残されているわけで、つまりは、友人である大翔がいることも、彼女がなんの疑いもなく親しく話している様が、どうやら混乱の原因で。挙句の果てにユミは平然と、「いいえー、お世話してます」なんて言うものだから、目を細めて横目を大翔に向けることしかできない。だからジョニーはこの質問をするしかできないわけだ。
「俺、大翔にバイト先教えたっけ?」
記憶にはない。ユミの関係性をうかがう感じのあの間があって、大翔は一切ジョニーとは目をあわせず、なんの惜しげもなくユミに情報を開示しはじめた。
「コイツ、高校のときからの同級生なんすよ。なんかこう、男前なのにパッとしねえし、なんか惜しい感じだから、俺はコイツの暇つぶしに付き合ってやってるんすよね」
なんだかジョニーの思っていることと彼の見ている現実にはすれ違っている部分がありそうだ。どちらかと言えば、彼が勝手にジョニーに絡んできているだけだったりする。なにせジョニーはインスタも、ティックトックも通知は切っているし、ラインだって自分からメッセージを送れるほど会話に重きを置いていない。当然、大翔はそれを知っているし、二十二歳になろうという今ですら、それは同じなわけで。するとユミは、やはりというべきか、
「へえ、いい友達いるんじゃない。なんだか安心したわ」
すると大翔がこう切り出すことも、ジョニーは予測していたりする。
「美人のてんちょーに鼻の下伸ばしてんじゃねえぞ。あ、てんちょーさんってインスタやってますか? 交換しません?」
案の定、大翔が言った。それに対して、やってないのよね、と、ユミが言ったことに少し安心する。なにせ、インスタグラムについてはしばらく開くのをやめたし、大翔だけが親しくなるのはなんだか違う。ジョニーはユミに本名を名乗ってもらっていないわけだし、インスタもティックトックもしたくはない。流れで久しぶりに開きたくは、ない。
「人間として自分の直感を逃してはならない!」
ジョージの言葉があって、ジョニーはいつも通りに彼のスクワットに目を向けない。二人が談笑してはジョニーをチラチラと見つめているような視線を感じて、なんだか仕事に集中できなかった。明日の天気も雨だろう、と、思考を散らしたところでどうにも変わらない。「カメラ、持ち歩いてるのね」「趣味です。俺、まだ大学生なんで」の会話が、雨音をかき消した。どういうわけか、大翔とユミの間の会話に胃もたれをおこしそうだった。ジョニーが視線を向けると、一眼レフカメラのゴツゴツとした筐体を大翔が持ち上げた。彼の指先がカメラにトントン、と触れた。
「そうだ俺、被写体探してて。ちょっと一枚撮ってもいいすか?」
「いいけど。それよりジョニー君はどうなの?」
話の先がジョニーに向いた。すかさず大翔が口をとがらせる。
「コイツ、自分で言わないですけど、昔、結構有名人だったんすよ。だからファンもいて。あ、有名ってのはインスタとかティックトックとかってことで。つっても俺のおかげなんですけどね」
「へえ、そのティックトックっていうのはあれでしょ? 動画とか投稿するっていう」
ユミの疑問に、大翔は首を縦に振って言った。
「ですです。しかも俺カメラ持ってるじゃないすか。ぜってえ今撮らせてくれないです」
「絶対撮らせないよ、俺は」
ジョニーは確固たる意志を持って会話に入った。ほら、頑固っしょー。大翔が言って、なんだかムッとしたかったのだけれど、彼の嫌味のない表情に、ジョニーはいつもまあいいか、という気持ちになる。それが大翔のずるいところであったりするのだが、おかげで、奇跡的に、六年間近く、一緒にいたりもするわけだ。大翔はなんの前触れもなくカメラをユミに構え、含みのない言葉を発す。
「まあ、コイツのそういうところが俺は好きなんですけどね」
大翔という男はこういうヤツで、ジョニーはなんだか言葉を失うまでがセットだったりする。そういう、とか、こういう、を細分化してしまうのは違うような気がした。大翔はカメラを構え、ユミを撮る。まんざらでもなさそうなユミはピースサインをして見せて、カメラの乾いたシャッター音が鳴った。なんだか短いその音が、糸のようだった。
ジョニーはそろそろ二人の情報交換を終わらせたかったのだが、そのタイミングはすぐにやってきた。カランカラン、とドアベルが音を立てる。雨音のカーテンをくぐって、一人の女性が入ってきた。「いらっしゃいませ」とジョニーが出迎えるのだが、その女性――おそらくジョニーと同い年くらい――は入り口付近で立ち止まって、ジョニーに向けてかまぼこみたいな目で見つめ続けている。三秒間。彼女はずっと探していたピアスをソファの下から見つけた、みたいに目を輝かせた。
「カウンター席、いいですか?」
ジョニーが聞くまでもなく、ジョニーに訊いてきた。薄く持ち上がった口角と、一度カウンターに向いた視線がジョニーに向く。どうぞ、とカウンターに促した。ジョニーがお冷を用意している間、彼女の視線がベタベタと、湿気と共にまとわりつく。ジョニーはなんだか高校生のときや、あの、紫色のネオン街のことが思い出されて身を強張らせた。
「あの、ハーブティーって、あります?」
カウンターから質問があって振り向いた。その質問の先は、ジョニーにだけだった。
「珈琲メインですけど、ダージリンとかでもよかったら一応ありますよ」
「じゃあ、それで」
口元のえくぼが、秘密を抱えて笑った。なんだかちぐはぐだった。とにかく、ハーブティーとダージリンでは違うという事実は置いておくとして。ジョニーの肩には物言えぬ重みと、胃の辺りにそれとない警告があった。その女性はカウンターの本を手に取って本を眺めている。しかし、ジョニーの話題で盛り上がるユミと大翔にチラチラと視線を向けている、し、ジョニーがカップをセットしている間も視線が向いている、気がする。なにか別の魂胆があるのはジョニーから見ても明らかだ。本も読んでいるというよりは、見ているという印象だった。ジョニーは一つ一つの動作が重い。「自己愛による愛は真実の愛ではない!」ジョージはスクワットに励みながら愛を説いている。女性の元に紅茶を注ぐ頃には、ジョニーの世界なんかはもう狭まっていて、一点しか見つめられなくなっていた。彼女の視線が恐怖に変わったのはそれからで、しかし言い出すこともできない。全部気のせいだ、と思う。
「あの。ジョニーくんですよね」
突然その女性から紫色の言葉が発せられ、ジョニーはその場に固まった。頭皮から流れた汗が、うなじを伝ってシャツが吸いこんだ。彼女の本当の狙いが、見え透いた。
「私ティックトックでずっとフォローしてて。ジョニー君推しなんです。今も」
彼女のシンプルな推し、という単語にジョニーは、遅れてああ、そういうことか、と思った。ジョニーは自分でもわかるくらいに眉間にしわを寄せていた。
「杏子」
たった三文字の単語を、彼女は口にした。雨のノイズが、鳴り止まない。彼女はすぐに、
「
言った。杏子と名乗った女性が続けた内容に、血の気が引いてゆく。しかし同時に、体温の低下とともに冷静さも一緒に取り戻すわけだが。それで、ジョニーは、ようやく自分の状態を振り返ることができた。動揺していることだけはすぐに理解できた。ジョニーの反応をうかがう間があって、杏子は再び三日月形に唇を震わせる。
「私、〈魔女の占い〉のこと知ってて。それで弟子入りしたいなって思ってて」
「ごめんなさいね、魔女は弟子をとらないのよ」
異変を察知したのか、はたまたタイミングがよかったのか、ユミは敬語を外して言った。
「いえ。いいんです。私が勝手に見習ってるんですから」
とにかく、と前置きをした佐渡杏子と名乗った女は、ジョニーに上目遣いを向け、
「ジョニー君は私のこと、認知してくださいね。杏子です、杏子」
まるで捕食する側の言葉を向けてきた。ジョニーは無意識に視線が揺れていることに気づき、はい、とただやるせなく言う。視線はどこにも定まらない。彼女のかまぼこみたいな目に、ロックオンされた気がした。杏子はさぞかしリラックスしているのか、片手を口元に運んで肩を狭めながら、さらに続ける。
「単純に、ファンなだけですよ。私、紅茶を飲んだら今日は帰りますから」
素敵な本が置いてあるんですね。そう続けながら、杏子の華奢な腕が青い背表紙の『霧雨と片時雨』に伸びて――「その本は、触らないでください」――すかさずユミが制止して、杏子はキョトン、とする。瞬く間にカウンター席に緊張感が走るなか、杏子は瞬きを演出した。まるでその瞳から星でも溢れ、彼女のひざ上丈のスカートに触れ、ニーソックスの隙間に入っていくようだった。もしくは、彼女の肩からかけられた、クロミだかマイメロディだかのバッグに無理矢理入れていそうだと思った。急に間が生まれて、杏子は全員を見渡し、
「みなさんどうしたんですか? え、私なにか変なことでも?」
なにが起きているのか、といったような顔で言う。祭りの最中に生まれた静寂のような、渋谷の暗闇だとか、そういう異質さがあった。なにもなかったように紅茶を飲み始める杏子からジョニーは距離を取った。彼女の視線の射程範囲からは抜け出せなかった。
「砂糖のような甘ちゃんは自分自身すら守れない! 愛を、愛を胸に!」
だからって、なんなんだよ。
状況はおろか、ジョニーは自分自身すら理解ができない。そういう、ものなのだろう。
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