ヘロヘロ獏と言わないで
不二原光菓
プロローグ
ドンっ、教卓が傾くほどの衝撃。
ざわめいていた教室が静かになって、視線が一斉に目の前の大きな盾に集中した。
よろめきながら下が先細りした四角い盾を運んできた金髪の若い先生は、肩で息をしながら目を丸くしている子供達をぐるりと見回す。
赤いほっぺ、膨らんだ鼻、桜色の唇。服装の違いはあるが、みな今日初めて学校に上がる新入生達だ。
「みんな、この盾を知っていますか?」
はーい、子供達は目をキラキラさせて大きな声を上げる。緊張に強ばっていた教室が一気に息を吹き返す一瞬だ。
この盾に描かれているのは、セシェル・デレット。聖なる守護者を意味するこの王国の紋章である。どこの学校でも決まって入学して一番始めの授業で習うこと、それはこの盾に書かれている聖獣達であった。
銀色に光る盾はその真ん中に円、そしてその残りの部分が十字で四つの部屋に分けてある。それぞれの部屋には古めかしい描き方で5体の聖獣と呼ばれるこの王国の守護精霊が色とりどりに描かれていた。
彼ら聖獣は、いにしえの昔から聖獣家と呼ばれる家系の代々の当主を依り代として幾度となくこの王国を魔族の危機から救ってきた。そしてこれからもこの国を守り続けるであろう彼ら聖獣とその依り代である聖獣家は、民衆から絶大な信頼を寄せられている。
この王国では、聖獣家の当主と王家を中心にして構成されるセシェル・アッセ(聖なる集まり)という会議で主な法律を作っている。収入や家柄に関わらず就学年齢に達した子供達全員が無償で教育を受けられるというのも、このセシェル・アッセで決められたことであった。
先生はまず盾の左斜め上に描かれている聖獣を指さす。
「皆さん、この聖獣を知っている人は手を上げて」
子供たちは一斉に手を上げる。そして聞かれもしないのに口々に叫ぶ。
「獅子王。炎の聖獣っ」「勇敢なの。お姫様を救ったのよ」
左斜め上に居るのは黒いたてがみを振り立てた獅子王だ。背景は炎を操り邪を払う聖獣獅子の色、すなわち燃え上がるような赤で塗られている。
新任の先生は、まず獅子王から質問することを古参の先生から勧められる。一番人気の聖獣の質問は、まず間違いなく盛り上がるからである。
読み書きを習う前から、獅子王の伝説は子供たちが眠りにつく前のおとぎ話の定番であった。勇敢な獅子王は聖獣たちの中でももっとも逸話が多く、獅子王だけで一冊の本ができるほどだ。
中でも有名なのは、都が暗黒から迷い出た魔族に囲まれたときの伝説だ。多勢に無勢、窮地に陥った獅子王グラマシャーンは地下に満々と水をたたえる地底湖がある場所に魔族をおびき寄せ獅子王が持つ炎を地下に繋がる穴から水源に送り込んだ。地下水は一瞬にして蒸発し、魔族軍の陣地で吹き上がる。ものすごい熱と、蒸気の爆発で、敵軍は散り散りばらばら。主力を失った魔族の軍勢はほうほうのていで逃げ帰っていった。
この話、今でこそグラマシャーン独りの手柄になっているが、もちろんこの作戦はグラマシャーンが考えたものではない。獅子王は勇気ではだれにも引けを取らないが、ちょっと、思慮深さに欠けるところがあるから。
これを考えたのは――。
「じゃあ、次に行くわ、これは何?」
いつまでも終わらない子供たちの発言をどうにか制して、先生が次にたずねるのは向かって右上のマスにいる聖獣だ。
「一角獣! 病気を直す力があるの」「一角獣が駆けると、空に虹が架かるのよ」
桃色の背景に真珠色に光る長い角と美しい銀色のたてがみを持って描かれる一角獣はとりわけ女の子に人気だ。
「それでは、他の聖獣を知っている子はいるかな」
「右下は龍。鱗が青いんだよ」「あの鱗で、雷を走らすのさ」
「左下のは鳳凰よ、尾羽が七色に光るの」「翼をはためかして、風や雨を呼ぶの――」
止らない子供達の声。
しかし、彼女が待っている聖獣の事を発言しようとする子は誰もいない。苦笑しながら先生は盾の中央の丸い部屋を指さす。
「えっと、この真ん中のまん丸な部屋の聖獣の名前は何かな。この中で一番偉い聖獣なんだけど」
先生の言葉をかき消すように、教室中は大笑いに包まれる。
慣れない早起きで眠っていた子も目を覚ますほどの大笑いだ。
それはそうだろう。
凜とした見栄えの良い聖獣が描かれている4つの部屋とはかけ離れて、そこには子供達の心を震わせる格好の良い絵は描かれていない。
「はい、はい、笑うのは止めて。この聖獣の名前を知っている人は答えて」
「ばくーー」
誰かがつまらなさそうに答える。
真ん中の丸い部屋は、盾の中の一等地にもかかわらず一頭の薄汚れた聖獣が描かれているのみだった。
剥げかけた茶色の短い毛に覆われたイノシシと豚の中間のようなずんぐりした胴体に短い四本の脚。お尻からはひょろひょろとした牛のしっぽが出ている。短い耳に、眠たげな細い目。顔の中央には、まるで布をつまんだ時にできるような何本もの深い横皺、そこから続くのはゾウのように垂れた長い鼻――このこっけいな聖獣が獏である。
目をキラキラさせて学んでいた子供たちは、みすぼらしい聖獣の紋様で一気に盛り下がる。
「ヘロヘロばく――」
誰かが本当は口にしてはいけない通称を叫ぶと、教室の中は再び爆笑に包まれた。
「いつも居眠り―」
「役立たず――」
「ヘロヘロ――、ヘロヘロ――」
「ああ、ああ、毎年ここで子供たちの集中がなくなるのよね」
ざわざわとうるさくなる教室で、先生たちは毎年このぼやきを繰り返すこととなる。
自分も小さい頃は笑ったけど、と思いつつも。
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