神葬の禍人 ―喰われた世界で神を斬る―
悪玉菌
第1話 喰われた空
――あの日、空は確かにそこにあった。
色あせたビニールシート越しでもわかる、少し白く霞んだ青。ちぎれ雲がゆっくりと流れていく。
それを見上げながら、少年は指先でテントの天井をつついた。
「……穴、増えてる」
指の腹が、ビニールとガムテープの段差をなぞる。
ほんの小さな裂け目だ。だが雨が降れば、そこから確実に水が垂れてくるだろう。
「イズミー、また天井いじってるの? 落ちてきても知らないからね」
背後から、くぐもった女の声がした。
少年――イズミは、振り返って笑う。
「だってさ、ここから空見えるんだ。ほら」
テントの薄暗さに目が慣れたあとで、改めて見上げると、確かにそこだけ色が違って見える。
白いガムテープの縁から滲むように、青がのぞいていた。
「空なんて、外に出ればいくらでも見えるでしょ」
「外、砂っぽいからやだ。ここからでいい」
「贅沢言わないの。……ほら、どいて。荷物踏むよ」
母の
皐月は、両腕に抱えた配給品の箱を器用にテントの入り口から押し込んできた。
薄い防塵マスクの上からでもわかる、少しやつれた笑顔。それでも、イズミが知る限り、一番安心できる顔だ。
「今日のごはん? また豆の缶?」
「残念でした。今日はちょっと豪華」
皐月は箱をゴソゴソと漁り、銀色に光るパウチを一つ持ち上げた。
「非常用高カロリーパック」と印刷されたそれは、どこの避難キャンプでも定番の食糧だ。
だが、今日のそれには、いつもと違うシールが貼られている。
《協賛:対禍獣機関バレル》――青い地球のマークの横に、白い城壁のようなロゴ。
「チョコレート味だって。人気らしいよ」
「マジで!?」
テントの隅で丸まっていた小さな影が、ガバッと起き上がる。
イズミの妹、
美夕だ。まだ五歳になったばかりのその子は、寝袋から這い出し、パウチに向かって飛びついた。
「みゆ、こぼさないでよ。テントの中、べたべたになるから」
「やだー! チョコー! チョコたべるー!」
「はいはい、三人で分けて食べるの。イズミ、お父さん呼んできて。今日、配給当番でしょ?」
「あ、うん」
返事をしながら、イズミはテントの入り口のファスナーを開けた。
外の光が、狭い空間に流れ込んでくる。ほこりっぽい風と、遠くから聞こえてくる発電機の低い唸り。
避難キャンプの空気だ。
砂利を踏む感触と、小さな足音。
同じようなテントが、まるで工場の製品みたいにきちんと並んでいる。番号札がぶら下がり、ロープで区画が仕切られ、ところどころに簡易トイレと水タンク。
空は、やっぱり少し白く霞んでいた。
太陽の輪郭が、薄い灰色の膜の向こうで滲んでいる。
――でも、まだ青い。
イズミはそう思いながら、キャンプ中央の配給所へ向かって歩き出した。
◆ ◆ ◆
配給所は、大きな作業用テントを改造した建物だ。
入口には「市民支援センター」と印刷された古い横断幕が下がり、その横に小さなデジタル看板が設置されている。
看板のスクリーンには、繰り返しニュースが流れていた。
『――ベルウェル細胞の暴走から三年。未曾有の禍獣災害は、依然として世界各地で拡大の一途をたどっています』
アナウンサーの落ち着いた声が、周囲のざわめきにかき消されながらも、途切れ途切れに耳に届く。
『本日未明、旧・大阪湾岸エリアにおいても、大型禍獣の群体出現が確認され……』
『
「イズミ、来たか」
ニュースの音声を背に、父の
春生が、配給テントの中から顔を出した。
白い腕章を巻き、手にはクリップボード。額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「お父さん、今日のごはん、チョコ味のやつだって!」
「お、当たりだな。バレル様々だ」
春生は、大げさに肩をすくめてみせる。
「バレルって、あの壁の街を作ってるところ?」
「ああ。環巣市とか、ヨーロッパの方の……なんだっけ、名前忘れたけど。テレビでやってただろ? でっかい塔とぐるっと壁のある街」
「あの、丸い街?」
「そうそう。ベルウェルも禍獣も入ってこれない、最後の砦だってさ。……まあ、そこに入れるのは選ばれた人間だけらしいけどな」
最後の一言は、わざとイズミに聞こえないくらいの小さな声だった。
だが、耳がいい彼には、しっかりと届いてしまう。
「選ばれたって、どういう……」
「おーい春生さん、悪いけどこっちの列も見てくれないか!」
別の配給係が大声で呼びかけてきた。
春生は「悪いな」とだけイズミに告げると、すぐにそちらへ走っていく。
列に並ぶ大人たちの中から、いくつもの視線がイズミに向けられる。
「あの子が春生さんの息子か」「まだ小さいのにしっかりしてるな」――そんな声が、ひそひそと聞こえてくる。
イズミは、少しだけ背筋を伸ばした。
――選ばれた人しか、入れない街。
ニュースの中の豪華な砦区と、自分たちのボロボロのテント。
頭の中で、二つの景色が妙にくっきりと重なっていく。
「イズミー!」
甲高い声とともに、背中をドンっと叩かれた。
「うわっ!」
「びびりすぎー。そんなに驚く?」
振り向くと、同い年くらいの少年が立っていた。頬に煤の跡、頭には伸びすぎた髪。
彼はニカッと笑い、左右に振った。
「今日、ゲーム持ってきたんだ。あとでやろうぜ」
「ゲーム?」
「ソーラーパネル、昨日は曇ってたけど今日はちょっと充電できたからさ。久しぶりに起動したんだ」
少年はポケットから、小さな携帯ゲーム機を取り出して見せる。
画面には、傷だらけの保護シートが貼られている。
「……いいな。でも、今日も水運ぶの手伝わないと」
「だよなー。じゃ、夕方。いつものとこ集合な」
そう言って、少年は手を振り、列の後ろに走っていった。
名前は、確か――
「……タケルくん」
小さく呟いて、イズミは父の背中を見た。
春生は、列の人々にパウチや缶詰を渡しながら、一人一人に声をかけている。
「足、大丈夫ですか」「薬、足りてますか」
そういう言葉が細かく差し挟まるたび、人々の顔に困惑と、少しだけ和らいだものが混じる。
――お父さんは、ここで頑張ってる。
だから、自分も。
イズミは、小さく息を吸い込んだ。
「お父さん、水タンクのところ、手伝ってくる」
「お、頼んだ。みゆを水浸しにするなよー」
「しないよ!」
そう言い返しながら、彼は配給テントを離れた。
◆ ◆ ◆
キャンプの端。青いドラム缶を改造した簡易水タンクのそばには、すでに数人の子どもたちが集まっていた。
「イズミくん、バケツこっち」
「ありがと、配る人足りないんだよね」
イズミより少し年上の少女が、手際よく蛇口をひねり、バケツを入れ替えていく。
軍手越しでもわかる冷たさ。水は貴重だ。こぼれた一滴さえ、もったいない。
列に並ぶ人々の服は、一様にくたびれている。
中には、軍服の名残のようなものを着ている男性もいた。彼らの肩や腕には、古傷らしき包帯が巻かれている。
「ありがとうございます」
「助かるよ、坊主」
そんな言葉を受け取りながら、イズミはバケツを次々と渡していく。
腕はすぐにじんわりと痛くなり、指に跡が残る。それでも、これが「自分の仕事」だと、彼は思っていた。
「……重い?」
ふいに、聞き慣れた声が背後からした。
振り返ると、皐月が空のバケツを両手に持ち、こちらを見ている。
「大丈夫。これくらい平気」
「そっか。ありがとうね、イズミ」
「お母さんこそ、並ぶの大変でしょ」
「まあね。でも、あんたたちのごはんのためだから。ほら、みゆ見ててくれた隣のテントの人にも、お礼言わないと」
小さく笑った皐月の顔は、どこか無理をしているようにも見える。
頬はこけ、目の下にはうっすらとクマ。マスクのゴムが食い込む耳の上には、赤い跡。
「お母さん、ちゃんと寝てる?」
「寝てる寝てる。あんたこそ、夜更かししてないでしょ?」
「してない。外、うるさいし」
夜になると、このキャンプには別の音が満ちる。
遠くで聞こえる砲撃音。重機の唸り。ときどき、地の底から響くような、得体の知れない轟き。
ベルウェル。禍獣。
そういう言葉を、子どもたちは知っている。でも、それが本当は何なのかまでは、誰も説明してくれなかった。
「…………」
皐月は、一瞬だけ空を見上げた。
灰色がかったその青を、確かめるように。
「……今日は、静かだといいね」
◆ ◆ ◆
午後になると、キャンプの空気は少しだけ柔らかくなる。
配給も一段落し、人々はテントの陰で休んだり、小さな焚き火を囲んだり。
子どもたちは、わずかに残ったアスファルトの広場でボールを蹴り合い、追いかけっこをする。
イズミは、キャンプの外周フェンスの近くに腰を下ろしていた。
さっきのタケルと、その妹と一緒だ。彼らの前には、古びた携帯ゲーム機が一つ。
「やっぱさー、時々フリーズするんだよな。ベルウェル騒ぎになってから、ネットも全部切られてさ」
「しょうがないよ。ゲームできるだけすごいって」
「まあな。ほら、イズミもやる?」
「うん」
小さな画面には、ドット絵の街と、小さなキャラクターたち。
「モンスターから世界を守る勇者」の冒険――そんな、よくあるゲームだ。
画面の向こうのモンスターは、どれも愛嬌があり、攻撃を受けてもピコッと吹き飛ぶだけだ。
「ゲームオーバー」になっても、「コンティニュー」を選べば何度でもやり直せる。
イズミは、そのシステムを知っている。
でも、現実には、やり直しはない。
「外の街ってさ、今どうなってんのかな」
タケルが、ふと呟いた。
視線は、フェンス越しの遠くに向けられている。
キャンプの外には、かつて街だったものの残骸が広がっている。
ひび割れた道路。倒壊したビル。黒く焦げた車。
その先には、まだ形を保っている街の輪郭が、かすかに見えた。
「こないだの放送で言ってたよ。あっちの街は、まだ大丈夫だって」
「“まだ”だよな」
タケルは草むらに生えた細い茎をちぎり、空に向けて放る。
茎はひらひらと舞い、フェンスの向こうに消えた。
「うち、あの街の方から逃げてきたんだ。……今も、じいちゃんたちがいるはずなんだけどさ」
「……そっか」
「いつか迎えに行くんだ、って母ちゃん言ってた。砦区に入れてもらえたら、きっと連れてこられるって。
でもさ、“選ばれた人”しか入れないんだったら――」
言葉が、そこで途切れた。
タケルは、自分の膝を見つめる。
「俺たちみたいなの、選ばれるかな」
イズミは答えられなかった。
彼自身も、似たようなことを考えたことがあるからだ。
――もし、ここからどこかへ行けるとしたら。
――そのとき、一緒に行けない人たちは、どうなるんだろう。
胸の奥が、きゅっと縮む。
そのとき。
『――繰り返します。現在、首都圏沿岸部において、大規模なベルウェル群体の異常移動が観測されています――』
キャンプ中央のスピーカーから、女の声が流れた。
ニュースのアナウンサーではない。もっと、冷たく事務的な声。
『避難キャンプNO.17、18、19の関係者は、即時本部へ連絡を――』
「ねえ、今の……」
タケルが顔を上げる。
だがアナウンスは、そこまででぷつりと途切れた。
数秒の沈黙。
そのあと、キャンプのあちこちが急にざわめき始める。
「ベルウェル群体って……」「また、こっちに来るのか?」
「落ち着いてください! 現時点で本キャンプへの直接的な危険は――」
誰かが叫び、誰かがそれを遮る。
子どもたちの目が、大人たちの顔を行き来する。
「イズミ!」
振り返ると、皐月がフェンスの方へ駆けてくるのが見えた。
マスクの上からでもわかるほど、表情が強ばっている。
「お母さん?」
「ここにいたのね。すぐテントに戻るよ。みゆ、探しちゃったんだから」
「でも、俺のゲーム――」
「タケルくん、ごめんね。またあとでね」
皐月は有無を言わせぬ調子で、イズミの腕を掴む。
その手は、汗ばんでいて冷たかった。
「お母さん、何かあったの?」
「……わからない。でも、嫌な予感がするの。だから、とにかく中に……」
言いかけたそのとき。
地面が、低く唸った。
最初は、誰も気づかなかった。
ほんのわずかに砂利が跳ねる程度の揺れ。遠くの重機か何かが動いたのだろう、と。
だが、それはすぐに、明らかな「地鳴り」に変わった。
ぐ、ぐぅうううん――。
皐月の足が一瞬ふらつく。
フェンスの支柱が微かに軋み、テントのポールがきしむ。
「地震?」
「違う……こんな揺れ方……」
キャンプ中の人々が、不安そうに周囲を見回した。
そして、ほとんど同時に、誰かが叫ぶ。
「あっちの空! 見ろ!」
◆ ◆ ◆
南の方角。
さっきまで、かすかに街のビル群が見えていた場所。
そこに――赤黒い“何か”が、盛り上がっていた。
最初は、ただの雲のように見えた。
だが、それは空から垂れ下がってきたのではなく、地面から立ち上がっている。
ビルの隙間から溢れ出したそれは、無数の糸を絡めたような、ねっとりとした波。
赤黒い光沢を放つその表面は、絶えずうねり、蠢き、形を変えている。
波はゆっくりと、しかし確実に前進していた。
街の手前にあった高速道路の高架が、その“波”に触れた瞬間――
コンクリートが、泡みたいに崩れ落ちた。
「……うそ」
誰かの呟きが、風に乗ってキャッチボールのように渡っていく。
「なに、あれ」
イズミも声を失っていた。
ただ、目の前の光景を理解しようと、必死に目を凝らす。
赤黒い波の中には、ところどころ、固い塊のようなものが混じっていた。
金属質の突起。歪んだ四肢。異様に長い首。
それらは一瞬ごとに組み替わり、ときに巨大な獣のシルエットを形作り、ときに崩れ、また別の形を成す。
そして、その塊の一つ一つに、光る“目”があった。
金色に、獰猛に、こちらを睨む数え切れないほどの視線。
「禍獣だ……あんな数、見たことねえ……!」
配給所の前にいた春生が、顔色を失って呟いた。
その隣で、かつて軍人だったという男が、震える手で双眼鏡を構えている。
「違う。群れってレベルじゃねえ……群体だ。ベルウェルが一帯ごと……」
「こっちに来るのか?」
「進行方向は――」
男の言葉は、そこで途切れた。
赤黒い波が、遠くのビル群を飲み込んだからだ。
高層ビルが、まるで紙細工のように曲がり、崩れ、飲み込まれる。
ガラスが光を反射したかと思うと、そのきらめきごと黒に塗りつぶされる。
街が――一つの街が、丸ごと喰われていく。
「おじいちゃん……」
タケルが、声にならない声を漏らした。
彼の手から、ゲーム機が滑り落ちる。画面が地面に打ち付けられ、ぱきりと音を立ててひび割れた。
「イズミ!」
皐月が、イズミの肩を強く掴んだ。
その指先は食い込むほどに固く、震えている。
「もう中に戻るよ。今すぐ」
「でも、お父さんは――」
「お父さんとは、あとで合流するから。いいから、走って!」
後ろを振り返ると、キャンプ本部の方向から、サイレンが鳴り始めていた。
赤い回転灯がくるくると回り、拡声器が怒鳴るように叫ぶ。
『全員に告げます! 南方より大規模禍獣群体接近中! 至急、指定避難車両へ――繰り返します、全員――』
叫び声と泣き声が、サイレンと混じり合う。
子どもが泣き、母親がその口を押さえ、大人たちが顔を見合わせながら駆け出す。
地鳴りは、さっきよりもはっきりと感じられた。
地面が、遠くから押し寄せてくる何かに押されているような感覚。
イズミは、皐月に手を引かれるまま走った。
テントの列が揺れ、ロープが弾み、ペグが抜けたものもある。
誰かが転び、誰かが手を差し伸べ、それでも流れは止まらない。
「お母さん!」
前方から、春生が駆けてくるのが見えた。
肩で息をしながらも、彼の目はしっかりと家族を捉えている。
「イズミ、みゆは?」
「隣のテントの人が――」
「ここ!」
小さな叫び声とともに、美夕が人混みの中から飛び出してきた。
彼女の手を引いているのは、見慣れた隣人の女性だ。
「みゆちゃん、走るの早いんだから……」
「ありがとうございます!」
皐月が女性に頭を下げる間もなく、春生は美夕を抱き上げた。
「行くぞ。トラックの方だ!」
「でも、本当に間に合うの?」
「間に合わせるんだよ!」
春生の声が、いつになく荒かった。
イズミは、その背中を見上げる。
父の背中は、大きい。
いつもそう思っていた。
でも今は、その背中が、少しだけ遠く感じる。
キャンプの外れに、白い大型トラックが数台停まっていた。
「臨時避難車両」の文字。側面には、バレルのロゴ。
その周囲にはすでに大勢の人が殺到し、係員が必死に誘導している。
「押さないでください! 順番に――」
「何言ってる、早く乗せろ!」
「子どもを先に!」
悲鳴と怒号が入り混じる中、春生は家族をかばいながら列の後ろについた。
その間にも、南の空はどんどん赤黒さを増している。
――見ないようにしないと。
そう思っても、目は勝手にそこを向いてしまう。
赤黒い波は、すでにさっきまで街だった場所を通り過ぎていた。
その後ろには、何も残っていない。
建物も、道路も、木も、人も――すべてが、灰色の粉塵と化している。
「喰われた」という言葉が、頭に浮かんだ。
何かが何かを食べる。それは日常の風景だ。
自分たちだって、何かを食べて生きている。
でもこれは――世界そのものが、食われている。
「お父さん、あれ……」
声が震える。
春生は、ほんの一瞬だけ南の空を見た。その目に、恐怖と怒りと、どうしようもない無力感が浮かぶ。
「あれは、見なくていい」
彼は、そう言ってイズミの頭を自分の胸に押しつけた。
ざらついたシャツの感触と、速くなった鼓動の音。
「大丈夫だ。大丈夫だから」
何に対しての「大丈夫」なのか、わからなかった。
でも、春生はそう繰り返すしかなかったのだろう。
トラックの荷台に向かう階段まで、あと数組。
係員が、人数を数えながら人々を押し込んでいく。
「次、子ども三人!」
「ここです!」
皐月が手を挙げる。
その瞬間――地鳴りが、質を変えた。
ドンッ。
キャンプ全体が、下から思い切り持ち上げられたかのような衝撃。
誰かが悲鳴をあげ、誰かがその場に崩れ落ちる。
トラックの一台が、タイヤごと地面から跳ね上がり、横倒しになった。
コンテナが横滑りし、その中から積み荷が飛び散る。金属音と、ガラスの砕ける音。
「なに――」
誰かの叫びが途中で途切れた。
キャンプの中央にあった大型テントが、その内側から破裂したように吹き飛んだからだ。
布と骨組みが空中に舞い上がり、その下から――
――“それ”が、現れた。
◆ ◆ ◆
最初に見えたのは、足だった。
太い柱のような、黒鉄色の脚。
その表面には、装甲のような硬質のプレートが何重にも重なり、その隙間から赤黒い筋肉と導管が脈打っている。
一歩踏み出すたびに、地面が大きく抉れ、砂利とアスファルトが宙に舞う。
そのたびに、キャンプ全体が揺れた。
次に見えたのは、胴体。
獣のようにしなやかで、しかし巨大すぎるその体躯は、倒れたテントをいくつも薙ぎ倒しながら持ち上がる。
そして、最後に――頭。
狼だ、とイズミは思った。
どこかで見た絵本の狼。その巨大で恐ろしい姿。
だが、目の前のそれは、絵本の中のどんな怪物よりも、はるかに異様だった。
黒鉄色の頭蓋。鋭く突き出た鼻面。
口の周りには、歪んだ装甲片がまるで牙のように並び、その隙間から、赤黒い舌と無数の細かい歯が覗く。
両側に裂けた口が、ゆっくりと開いた。
その中は、赤黒い粘液と、蠢くベルウェル筋肉で満たされている。
死肉と鉄と焦げた何かの混じった匂いが、一気に辺りに広がった。
金色の眼が、二つ。
まるで巨大なレンズのように、全面に輝いている。
それが、キャンプ全体を、一度に見下ろした。
――禍獣。
それも、小型や中型どころの話ではない。
キャンプのテントが、その足首にも届かないほどの巨体。
その名を、誰かが恐怖に縋るように叫んだ。
「フェンリルだ――!」
伝説の狼の名。
それを冠した特異禍獣。
環巣市のラジオでも、その名は何度か出ていた。「砦区一つを落としかねない大型個体」と。
そのフェンリルが、どうしてこんな避難キャンプにいるのか。
誰にもわからない。ただ一つ確かなのは――
その口が、こちらに向けられているということだけ。
「走れ!」
春生の叫びが、金切り声にかき消された。
サイレンの音すら、フェンリルの咆哮の前ではかすかにしか聞こえない。
アオォオオオ――――ンッ!!
空気そのものが震えた。
耳が痛い。世界が一瞬、白く跳ねたように感じられる。
音の衝撃波だけで、近くにいたテントが吹き飛び、人が宙に舞う。
フェンスが根こそぎなぎ倒され、トラックが横転したままさらに数メートル転がった。
イズミは、地面に叩きつけられた。
肺から、勝手に息が吐き出される。
「っ……!」
口の中に砂利の味が広がる。
頬が擦りむけ、目に砂が入る。
それでも、必死に顔を上げた。
「お、お母さん……! お父さん!」
数メートル先に、皐月の姿が見えた。
彼女も倒れてはいたが、なんとか上半身を起こしている。
「イズミ! こっち来ちゃダメ!」
叫びながら、皐月は手を伸ばした。
その瞳は、イズミではない“何か”を見ている。
――影。
意味もなく、そんな言葉が頭をよぎる。
太陽を遮る巨大な影。
ゆっくりと視線を上げると、そこには――フェンリルの前脚があった。
キャンプの真ん中にそびえ立つ、その黒鉄色の柱。
その爪先が、ほんの少し動いただけで、近くにいた人々が押し潰される。
赤黒いベルウェル筋肉が、装甲の隙間から顔を覗かせ、ぬらりと蠢く。
地面には、それらから滴り落ちた液体がじわじわと染み広がり、触れたものをじゅうじゅうと溶かしていく。
「いやあああああ!!」
誰かの悲鳴が、耳のすぐ横で弾けた。
そちらを見てはいけない、と本能が叫ぶ。
でも、視界の端には、すでにそれが映っていた。
半分だけ残ったテント。
その中で、足だけになった誰かが、まだぴくぴくと動いている。
そのすぐそばを、赤黒い小さな塊が這っていく。
犬のようで、犬ではない。ネズミのようで、ネズミではない。
ラットハウンド。小型禍獣。
彼らは、フェンリルの足元から溢れ出すようにしてキャンプ内になだれ込み、目につくものすべてに噛みついた。
「やめて、やめてやめて――!」
皐月が叫びながら、イズミの方へと這ってくる。
その背後では、別の誰かがラットハウンドに群がられ、悲鳴が次第に潰れた音へと変わっていく。
春生は――どこだ。
必死に探す。
人々の足と腕と、転がる荷物と、倒れたフェンスと。その中から、ようやく彼の姿が見えた。
トラックの横、荷台の影。
春生は、横倒しになったコンテナの下敷きになりかけていた。その腕で、美夕を必死にかばっている。
「お父さん!!」
「イズミ、来るな!」
春生は顔を上げ、叫んだ。
額から血を流しながらも、その目は炯炯としている。
「イズミ、みゆを――」
言葉の続きを、轟音がかき消した。
フェンリルが、口を開いたのだ。
その顎が、ゆっくりと、しかし抗いようもなく開いていく。
その中には、赤黒い渦。
溶けた金属片。折れた骨。まだ形を保っている何かの腕。
それらが、どろり、と落ちては再び取り込まれ、形を失っていく。
咆哮。
だが、もう耳には音として届かない。
世界から、音というものが消えたかのように感じられる。
代わりに――そこには、ただ“喰う”という行為だけがあった。
フェンリルの顎が、キャンプの一角を丸ごと呑み込む。
テントも、トラックも、人も。
すべてが一瞬で、その赤黒い口の中に消えた。
――人が、食べられている。
その事実が、現実としてイズミの中に落ちてきた。
ゲームのモンスターでも、ニュースの中の数字でもない。
目の前で、人が、無造作に、まとめて。
「いやだ……いやだいやだ……!」
自分の声なのか、誰かの声なのか、わからない。
世界がぐにゃりと歪み、視界の端が黒くなっていく。
「イズミ!」
皐月の手が、まだ自分の腕を掴んでいる。
その温もりだけが、現実に繋ぎとめてくれているようだった。
「立って! 走るよ!」
「でも、お父さんと――」
「先に行くの! 走って、イズミ!」
皐月の声は、ほとんど悲鳴だった。
その目には、涙と、それでもなお諦めまいとする強さが混ざっている。
「お父さんは、絶対に追いかけてくるから。だから――」
その言葉に、イズミは頷いた。
足に力を込め、立ち上がる。
だが、その瞬間――
地面から、赤黒い“舌”が伸びてきた。
ベルウェルの塊。
フェンリルの足元から広がるそれが、まるで生き物のように這い回り、何かを探すように地面を舐めている。
その一本が、イズミの足首に触れた。
「――っ!」
焼けるような痛み。
皮膚が一瞬で溶けていくような感覚。
同時に、何か冷たいものが血管の中に流れ込んでくる。
頭の中に、ざわざわとしたノイズが走った。
誰かの叫び声。唸り声。金属がきしむ音。
それらがごちゃ混ぜになって、脳を直接かき乱してくる。
(やだ……やだ……!)
イズミは、反射的に足を引いた。
赤黒い舌が、皮膚の一部を引きちぎる。それでも、必死に振りほどく。
足首には、真っ赤な痕が残った。
だが、そこから先へとベルウェルが侵食してくる感覚は――ない。
ほんの一瞬、赤黒い塊が、ためらうようにうねった。
まるで、何かに拒絶されたかのように。
そして、すぐに別の方向へと舌を伸ばしていった。
「イズミ!」
皐月が、その腕をさらに強く引く。
痛みで足がうまく動かない。それでも、彼はなんとか前に進もうとした。
そのとき。
「ママ――」
かすかな声。
振り返ると、コンテナの陰で、美夕がこちらを見ていた。
春生の腕が、彼女を必死に押し出そうとしている。
しかし、その上にはすでに、フェンリルの影が――
「みゆ!!」
皐月が、ほとんど本能だけで駆け出した。
イズミの手が離れる。
その瞬間、時間が引き延ばされたかのように、世界がスローモーションになる。
皐月が、美夕に手を伸ばす。
美夕も、小さな手を伸ばす。
春生が、何かを叫ぶ。
フェンリルの足が、ほんの少し動く。
――そして。
黒鉄色の巨大な爪先が、コンテナごと春生と美夕を押し潰した。
「――――」
音が、消えた。
世界から、まるごと一度に消えたようだった。
視界に映るのは、崩れ落ちるコンテナと、その下から飛び散る赤い何か。
皐月の伸ばした手が、そのすぐ手前で止まる。
フェンリルの足が持ち上がる。
そこには、もう何もなかった。
春生も、美夕も。
あったはずのものが、なくなっていた。
「――あ、あああああああああああああ!!」
皐月の喉から、獣のような叫びが迸った。
その声は、次の瞬間、別の影に呑み込まれる。
赤黒い波。
フェンリルの足元から溢れ出したベルウェルの群れが、コンテナの残骸と一緒に、皐月の体をも飲み込んだのだ。
手。
イズミに向かって伸ばされていた、その手が――最後に空を掴もうとするように震え、赤黒い中に消えていく。
「お母さん――」
声にならない。
喉が締め付けられ、息すら満足にできない。
足が、勝手に後ずさる。
膝が笑い、尻もちをつき、そのまま後ろに手をついて倒れる。
空が、視界の半分を占めた。
さっきまで、白く霞んだ青だった空。
そこに――赤黒い影が、じわじわと広がっていく。
赤黒い波は、地面だけを進んでいるわけではなかった。
周囲の建物を駆け上がり、崩しながら、その残骸ごと空へと伸びていく。
まるで、世界の端から“何か”が食い破ってきているようだった。
青と灰色の狭間に、赤黒い亀裂が走り、その隙間から金色の目がいくつも覗く。
喰われていく。
空が、喰われていく。
自分の世界が、音もなく崩れていくのを、イズミはただ見ていることしかできなかった。
◆ ◆ ◆
時間の感覚が、壊れた。
どれくらいの間、そうしていたのか。
何度、フェンリルが咆哮したのか。
何人が喰われ、何が壊れたのか。
全部、わからない。
気づいたときには、世界は――静かだった。
サイレンも、人々の叫びも、聞こえない。
代わりに聞こえるのは、かすかな炎の音と、何かが崩れ落ちる乾いた音だけ。
鼻を刺す、焦げた臭いと、鉄の臭い。
喉が焼けるように痛い。
視界はぼやけ、涙と煙で滲んでいる。
「あ……」
声にならない声が、喉から漏れた。
体を動かそうとするが、手も足も、自分のものではないように重い。
周囲を見回そうとして、ようやく気づく。
自分が、何かの下敷きになっていることに。
テントの骨組み。倒れたポールと布。
それらがイズミの体の一部を覆い、かろうじて上からの崩落から守っていた。
少しだけ空いた隙間から、外の光が差し込んでいる。
その向こうには、黒いシルエットがいくつも動いていた。
(禍獣……?)
恐怖が、遅れてやってくる。
息を殺し、体をできるだけ小さく丸める。
だが、近づいてくる足音は、さっき聞いた禍獣のものとは違っていた。
軽い。
機械のような、規則的な足音。
「――生存反応、こちらにも。脈拍微弱、体温低下」
「汚染レベルは?」
「外傷由来のベルウェル反応あり。しかし、リリス因子未投与個体にしては……」
「まずは確保だ。ここはすぐにパージされる」
低い声と、高めの女性の声。
言葉の端々に、聞き慣れない単語が混じっている。
イズミは、ゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、真っ白なものたちだった。
全身を白い防護服で覆い、顔には透明なシールド。
胸元には青い地球のマークと、城壁のロゴ。
――バレル。
ニュースでしか見たことがない、そのマーク。
対禍獣機関。砦区を運営する巨大な組織。
その一人が、イズミの上に覆いかぶさっているテントの骨組みを、軽々と持ち上げた。
驚くほどの力。彼の体格からは想像もつかない。
「大丈夫か。聞こえるか?」
透明なシールド越しに、男の目が覗き込んでくる。
その目は、驚くほど冷静で、感情の揺れが少ない。
「……っ」
声を出そうとして、喉が痛む。
代わりに、かすかな息が漏れただけだった。
「反応あり。意識はある。――生存者一名確保」
男はそう言うと、イズミの体を慎重に抱き上げた。
白い防護服の素材越しに感じる、固い腕の感触。
仰向けに抱えられる形になり、視界が広がる。
そこにあったのは――キャンプだったはずの場所の、成れの果て。
テントはほとんど焼け落ち、残った骨組みだけが黒く突き出ている。
トラックはねじ曲がり、フェンスは溶け、地面には深い爪痕のような溝。
人の姿は――見えなかった。
あったはずのものが、すべて跡形もなくなっている。
「ほかの……人は……」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
男は、一瞬だけ視線を逸らした。
その目は、イズミではなく、遠くの空を見ている。
「生体反応は、今のところ、君だけだ」
その言葉の意味を理解するには、頭があまりにも疲れすぎていた。
――君だけ。
自分だけ。
父も、母も、妹も。
タケルも。隣のテントの人たちも。
誰一人、ここにはいない。
胸の奥で、何かがぽっきりと折れる音がしたような気がした。
涙が出ない。
叫びも出ない。
ただ、空だけが、目に入る。
さっきまで、赤黒い影に侵食されていた空。
今は――灰色だった。
青は、ほとんど残っていない。
空一面に、うっすらとした灰色の膜が張りつき、その向こうで太陽がぼんやりと滲んでいる。
喰われた空。
そう思った瞬間、ようやく涙が溢れた。
体が震える。
喉から、嗚咽とも呼べない音が漏れる。
「鎮静剤を少量。今のうちに搬送を」
誰かがそう言い、イズミの腕に冷たい感触が走った。
針が刺さる痛みさえ、ほとんど感じない。
視界が、さらに滲む。
白い防護服の人影が、ぼやけていく。
遠くで、まだ何かが燃えている。
その向こうに、黒い影が一つ、二つ。
巨大な何かのシルエットが、崩れ落ちていくように見えた。
フェンリルかもしれない。
それを倒した“何か”がいるのかもしれない。
だが、イズミには、もう確かめる気力も残っていなかった。
最後に見えたのは――白いシールド越しの、無機質な目。
その中に、自分の姿が小さく映っている。
――この子は、使える。
そんな声が、幻聴のように耳の奥で響いた気がした。
それが本当に誰かの言葉だったのか、それとも自分の心が勝手に作り出したものなのか――わからない。
意識が、闇に沈んでいく。
喰われたのは、空だけではなかった。
イズミの世界も、家族も、子どもでいられた時間も、その日――すべて、喰われてしまったのだ。
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