さよならのために強くなる~無詠唱の転生者は、獣人の少女と奈落の父を追う~

ナイトン

プロローグ

焚き火の火は小さく踊り、夜の草原にだけ橙の輪をつくっていた。

風が渡るたび乾いた草が擦れて囁き、土と獣の匂いが混じって鼻をくすぐる。

遠くの村の灯は丘の向こうで点々と滲み、星は冷たい硝子みたいに瞬いていた。


「ねぇ、おばあちゃん」


膝に潜り込んだ孫娘が、眠い目をこすりながらも顔を上げる。


「無詠唱ってほんとにあるの? 言葉を唱えないで魔法が出るって。ギルドの人が、昔はできたって言ってた。あと、奈落に落ちた人の話も……」


老婆は薪を一本寄せ、ぱちりと爆ぜる音に紛れて息を吸った。

すぐに答えない。夜には、言葉を選ぶべき話がある。

胸元の小さな護符――羽根の形をした古い飾りが、火の光を受けて揺れた。

遠くで鐘が一つ鳴った。

神殿の時刻を告げる音だ。続いて稜線に白い点がゆっくり動く。巡回の灯。こちらへ来るわけじゃないのに、背中が自然と固くなる。

昔、あの灯に呼び止められ、笑顔で「余計なことは言うな」と釘を刺された夜を、身体が覚えている。


「……あるよ」


老婆はやっと言った。


「でもね、無詠唱は強さそのものじゃない。鍵みたいなもんさ。扉の前で鍵だけ握っても、扉がなけりゃ入れないだろ」

「扉ってなに?」

孫が首を傾げる。

「火だの水だの風だの――世界の力を引っ張ってくる“道”さ。道がないと、どれだけ上手に鍵を回しても、何も起きない。手の形だけ綺麗でも、空は燃えない」

孫は唇を尖らせた。

「じゃあ意味ないじゃん」

「意味が出る場所がある」

老婆は焚き火の向こうを見た。

「奈落だよ。もしくは、奈落へ続く道の途中。あそこは、良くも悪くも“道”が歪む。だから、足りない扉を拾ってくることもできる」

「こわいとこ?」

「こわいよ」

老婆は即答した。怖いと言い切って初めて、子どもは踏みとどまれる。

「でもね、怖いからって目を逸らせない子もいる。大事な人が、そこにいるならね」

孫娘は少し黙り、それでも意地みたいに言った。

「おばあちゃんは、見たことあるの?」

老婆は焚き火の火を見つめ、炎のゆらぎの中に、遠い背中を重ねた。

「……奈落へ向かう背中なら、見送ったことがある」

「だれの?」

老婆は孫の額を指でちょんと押し、声を柔らかくした。

「昔ね、無詠唱だけを持って生まれた子がいたんだよ。」

その子の話をするだけで、巡回の灯が少し近くなる気がする――そんな夜もあった。

「聞かせて」

孫娘が小さく言う。 老婆は頷いた。

「その子はね、言葉を唱えなくても“型”だけは作れた」

老婆は焚き火に掌をかざし、熱を確かめるように指を開いた。

「普通は詠唱で道を開ける。体の中の流れを整えて、外の世界と繋ぐ。でもその子は、息を吸って吐いて、指先を少し動かすだけで形が整う。まるで、生まれた時から知ってるみたいにね」

孫娘が身を乗り出す。

「すごいじゃん!」

「すごいよ。ほんとにね。でも……材料がなかった」

老婆は指で空をなぞった。

「火の道、水の道、風の道……そういう属性の道が、その子にはほとんど通ってなかった。鍵を回す手つきは完璧なのに、扉がない。だから灯せない。守れない。撃てない」

宝の持ち腐れ。言葉にすると軽いのに、本人の胸には重く沈む。あの子は笑って誤魔化す癖があった。悔しさを隠すのが下手で、でも誰にも弱音は吐かない。

夜になると独りで手を見つめ、何も起きない掌に腹を立てる。

「その子は冒険者の家の子だった。父親は強い冒険者で、仲間と組んで遺跡へ入って、魔物を狩って、帰らない夜も越えてきた。村の子どもはみんな憧れたよ。もちろんその子もね」

孫娘が首を傾げる。

「なのに、なんで疎まれたの?」

「生まれつき“印”があったからさ」

老婆は声を少し落とした。

「見える人には見える。見えない人でも、なんとなく違うって分かる。神殿の者が遠巻きに見て、誰かが口を開けば皆が頷く。人は分からないものを怖がって、怖がるための理由を欲しがるんだ」

折れそうになるたび、あの子は身体を鍛えた。剣を振って走って転んで、また立った。でも魔法だけは追いつかない。鍵だけが手の中で冷たく光ってるのに、扉がない。

「かわいそう」

孫娘が小さく言う。

「うん。だから、あたしは息の使い方を教えた」

老婆は火の前で、指を喉元に当てた。

「獣人の呼吸だよ。吸って、止めて、吐く。世界の音が少し遠のいて、身体の芯が熱を帯びる。魔法じゃないけど、旅では命になる」

初めて教えた日は、あの子は冗談みたいに言った。

「君の鼻は、扉の匂いも嗅げる?」

その言い方が、泣くのを堪えてるみたいで、胸が痛かった。 孫娘が真似しようとして咳き込む。老婆は笑って背をさすった。

「焦るんじゃない」

それから老婆は、焚き火の向こうに昔の夜を見ながら言った。

「あの人は“探すしかなかった”んだ。足りない扉を、自分の中に作る方法を」

そのとき、あたしはただの隣人だった。でも気づけば、あの子の“探す”に付き合う側になっていた。友だちって言葉じゃ足りないのに、当時はそれで誤魔化した。


「探すしかなかった」

その理由が、ほどなくして決定的になる。老婆は薪が崩れる音を聞きながら続けた。

「あの人の父親が――消えたんだ」

依頼の帰りが一日遅れ、二日遅れ、やがて三日目の朝に、町の空気が変わった。ギルドの掲示板から依頼書が外され、酒場の笑い声が小さくなる。奈落の裂け目に近い遺跡へ入った冒険者パーティーが、戻らない。そんな噂は珍しくないはずなのに、その父親の名は重かった。 戻ってきたのは、人じゃない。荷車に積まれた遺品だけだった。欠けた紋章の金具、血の臭いが抜けない手袋、焦げた地図の切れ端。回収屋は目を合わせず、受け取れと言い、急いで去ろうとした。背後には神殿の男が立ち、優しい声で「奈落の話は軽々しくするな」とだけ告げた。

優しい声ほど、刃物みたいに痛い。 そして最後に、妙なものが一つ混じっていた。割れた水晶みたいな石。魔力石でもないのに、指先がひやりとする。握った瞬間、あの人の喉が勝手に動いた。言葉にならない“型”だけが息に乗り、空気が一瞬だけ、張り詰めた糸みたいに震えた。

でも、何も起きない。やっぱり扉がない。 あの人は石を見つめて、笑った。「鍵だけ増えたな」 その笑い方が、泣くのを堪えているみたいで、胸が痛かった。 あの人は遺品を抱えたまま、泣かなかった。怒鳴りもしなかった。ただ呼吸を整え、肩を落とさずに言ったんだ。「助けに行く」。その声の静かさが怖かった。静かな決意は、誰にも折れないから。

「どこから?」

あたしが聞くと、あの人は焦げた地図の切れ端を指でなぞった。「ギルドの記録。最後の依頼。同行した案内人。……糸は細いけど、手繰れば続いてる」

孫娘がぽつりと言う。

「ひとりじゃ無理だよね」

「うん。だから、あたしがついていくって言った」

獣人は嗅げる。焦げた鉄の匂い、魔素の澱み、そして奈落の風が混じる“跡”。

でもそれ以上に――ひとりで行かせたら、あの人は自分を壊す。そう思った。 神殿は止めなかった。止められないふりをして、こちらの動きを測っていた。許可、規則、忠告。柔らかい言葉で足を縛ろうとする。けれど手がかりは少なかった。行かない理由は一つもなかった。 「父親を追う」それは同時に、「扉を探す」旅の始まりだった。奈落へ辿り着くために。 翌朝、あの人は荷を軽くまとめた。剣と水筒と、遺品の石を布で包んで胸にしまう。あたしは鼻で風を確かめ、奈落の匂いが混じる方角を覚えた。旅は、そうして始まった。


旅は二人で始まったけれど、二人だけじゃ続かない。老婆は火を見ながら、指を折っていった。

「まずは町から町へ。父親の依頼記録、物資の購入、最後に泊まった宿。小さな糸を拾って次へ進む。時には酒場の噂ひとつのために三日歩いた」

雨の日は匂いが流れ、晴れの日は足跡が砂に消える。獣人の鼻が役に立つ夜もあれば、何も嗅げずに肩を落とす夜もあった。 最初の手がかりは、古い祠の裏に隠された印だった。父親の仲間が残した合図。そこから先は、人が避ける道ばかりになる。魔物の気配が濃い谷、崩れかけた石段、地図にない小さな裂け目。気の呼吸で脚を強くしなければ、一歩ごとに膝が笑った。

「それでも、仲間が増える」

鍛冶の腕がいる日が来る。薬が足りなくなる夜もある。崖の道で地図が読めない谷もある。そういう時に、置き去りにされそうな人を拾う。強さより、踏みとどまる理由を持つ人を。あの人はそれを見つけるのが上手かった。拾われた側が、いつの間にかこちらを支えることも多かったよ。 そして欠片も見つかる。老婆は孫の額に指を当てるようにして言った。

「適性の鍵さ。手に入れるたび、体のどこかで“道”が一本通る。布に包まれた欠片を握っただけで、胸の奥が熱くなったり冷たくなったりする。無詠唱の鍵が、ようやく扉に触れられるんだ」

最初に通ったのは、燃える息だった。拳の中で熱だけが灯り、寒さに負けない熱さが胸の奥に残る。まだ炎にはならないのに、あの人はその夜だけは笑った。笑った直後、息を呑んだのも覚えてる。自分の身体が、自分のものじゃなくなる気配がしたから。 孫娘は嬉しそうに言う。

「それなら強くなるのって楽しいじゃん」

老婆は首を振った。

「楽しいだけなら続かない。鍵が増えるほど、見られる。問い詰められる。神殿の者が“助言”を装って近づいてくる。『危険だ』『やめておけ』ってね」老婆は焚き火の火を指で隠すみたいに掌を重ねた。

「でもあの人は止まらなかった。父親が待ってると信じてたから。……そして」

老婆は声を落とす。

「あの人が強くなったのは勝つためじゃない。――“さよなら”のためだよ」

「さよなら、やだ」

孫が膝の上で身をよじる。

「うん。あたしも嫌だった」

老婆は抱き寄せて囁いた。

「でも守るってのは、全部を抱えることじゃない。選ぶことさ。誰を連れて行くか、どこで立ち止まるか。――そして、いつ手を離すか」

焚き火が風に揺れ、橙の輪が少し縮んだ。老婆はその揺らぎの中に、旅立ちの日の背中を見た。だから強さがいる。優しいままで、別れを選べる強さが。


焚き火が、ぱちりと小さく爆ぜた。孫娘は眠りかけた目をこすりながらも、まだ話の端っこにしがみつくみたいに顔を上げた。 「……で、どうなったの?」

老婆は笑って、孫の額に指を当てた。

「どうなったもこうなったも、結末は一つさ。あの人は奈落へ行って……探して、集めて、戦って――最後はね」

言葉を選ぶ。選んだはずなのに、声が少しだけ震える。

「ひいおじいちゃんたちは、戻ってきたよ」

孫娘の目が一気に開いた。

「ほんと!? 生きてたの!?」

「……ううん。生きて“帰ってきた”んじゃない」

老婆は、焚き火の中の赤を見つめたまま言った。

「帰ってこられる形に、“してきた”んだよ。あの人が」

孫娘は今度こそ身を乗り出す。

「すごい! じゃあ、みんな幸せになったんだ!」

老婆は、すぐに頷けなかった。幸せって言葉は簡単で、だからこそ、簡単に言いたくなかった。

「ひいおじいちゃんたちは、笑ったよ。泣いたよ。抱き合ったよ。……それだけで、あたしには十分だった」

焚き火の光が揺れ、老婆の影が長く伸びた。遠くで神殿の鐘が鳴り、夜の輪郭が少しだけ固くなる。

「でもね」

老婆は孫を抱き寄せる。小さな体温が、胸の奥へ染みていく。

「“さよなら”は、なくならなかった」

孫娘が唇を尖らせた。

「やだ。なんでさよならしなきゃいけないの」

「……守るためだよ」

それだけ言って、老婆は護符に指を絡めた。羽根を模した古い飾りは、答えの代わりに静かに冷たい。

「ひいおじいちゃんたちに“生きる時間”を渡したら、あの人は――自分の時間を持てなくなった。そういう選び方を、してしまったんだ」

孫娘は納得できない顔のまま、ぐいっと老婆の服を掴んだ。

「もっと聞きたい! その“あの人”ってだれ!? なんでそんなこと――」

「しーっ」

老婆は指を唇に当てて笑った。困ったように、でも嬉しそうに。

「駄々をこねるの、あの人にそっくりだ」

「だって!」

「うん、うん。じゃあ……聞かせてあげるよ」

老婆は焚き火の火を小さく整えて、孫の耳元に囁いた。

「――貴女のお爺さんの話を」

孫娘はきょとんとして瞬きをした。

「お爺さん……?」

老婆は頷き、焚き火の赤を見つめた。火の中には、抱き合った背中と、ほどけた指と、言えなかった言葉が沈んでいる。

「別れの朝、あの人は振り返らなかった。振り返れば、戻ってしまうって知ってたからさ」

老婆は笑うふりをして、息を吐いた。

「だから、最初から順番に話そう。――落ちる夢の話からね」

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