最強秘書は今日も愛が重い。 ~有能秘書と魔族少女に想われる新米伯爵の勘違い領地運営~

くぴやん

プロローグ 裏ではもう動いている

 ――影の仕事というものは、得てして人目につかない分だけ、奇妙に骨が折れるものだ。

 ましてや、その担い手が「普通」とは程遠い性質の持ち主たちであれば、なおさらである。

◆始まりの一ヶ月前

「ああ……っ、まただ。また失敗してしまった……! どうしてこんなに手間がかかるんだ……!」

 静まり返った夜。伯爵邸の最奥にある、古い一室。ロウソクの炎が不安げに揺れる中、若い執事姿の男は、机に突っ伏さんばかりの勢いで嘆いていた。


 彼の前には、山のような「書き損じ」の便箋。あるものは力強い武人の筆跡、あるものは流麗な貴婦人の文字、またあるものは震える老人の筆致。一人の人間が書いたとは思えないほど多種多様な文字が並んでいる。

「……今の線は、コンマ数ミリ太すぎる。これでは書き手の年齢が数歳ほど若返ってしまう。やり直しだ」

 彼は青白い顔で、新しいペンを握り直した。彼は極度の慎重派だった。もしわずかな不備から計画が露見したら……という万が一の事態を恐れるあまり、その執念は異常なまでの几帳面さへと昇華されていた。

「これは……丁寧すぎる。暮らしに疲れた下級役人の字は、もっとインクの擦れに生活の荒みが出るはずだ」

 パラリ、とまた一枚が床に滑り落ちる。

「……この震え方では、ただの『寝不足の役人』だ。私が再現すべきは『重度のアルコール中毒を隠そうとしている、プライドの高い書記官』の震えなんだ……!」

 誰がそこまで見るのかという領域だが、彼は真剣だった。筆跡というものは不思議だ。少しの癖を写し取るだけで、そこに架空の人生が宿る。彼はその「人生の偽造」に、自らの胃を痛めながら没頭していた。


 山が一定の高さに達した頃、ようやく彼は震える手でペンを置いた。机には、完璧に偽造された各地の有力者たちの「推薦状」が並ぶ。

「封蝋(ふうろう)、温度四十二度。角度は右に十五度傾けて……よし、よし……これなら、神様でも騙せるはずだ……」

 彼は自分に言い聞かせるように呟くと、死人のような顔で書類を籠にまとめた。不備はないはずだ。もし万が一にも綻びがあれば、その時は潔く責任を取るしかない。


 彼はぶつぶつと不吉な独り言を漏らしながら、音もなく部屋の明かりを消した。

◆始まりの十日前

「失礼いたします。ギルドマスター、お耳を拝借いたします」

 領内の冒険者ギルド。その奥にあるマスター室に、前触れもなく「声」が響いた。ギルドマスターが顔を上げると、いつの間にか机の前に一人のメイドが立っていた。


 非の打ち所がないほど整った制服、一糸乱れぬ髪。彼女は足音どころか衣擦れの音さえ立てない。まるで背景の一部が、人の形を成して喋っているかのようだった。

(……この娘、またいつの間にか入り込みおって。心臓に悪い)

「……本日の追加依頼でございます。ご確認を」

 彼女が差し出した書類を受け取った瞬間、ギルドマスターの眉が跳ねた。

「これは……伯爵家の直印か。しかも指名依頼?」


​ 内容は魔獣の異常行動調査。一見するとありふれたものだが、文面の裏に隠された意図が、ベテランの彼には読み取れた。

「初めてだな。あの方が動くのは」

「左様でございますか。私共は、仰せつかったものを運ぶのみですので」

 メイドは淡々と、感情の読めない声で応じる。彼女は「礼儀正しい」という言葉の擬人化のような存在だったが、その丁寧さが逆に、底知れない不気味さを醸し出していた。


 彼女が深く一礼して退室すると、開いたはずの扉の音さえ聞こえなかった。

「……影のような奴だ。だが、不思議とあの静かな物腰が頭から離れん」

 依頼書は他の書類とは別に、静かに机の奥へと置かれた。

◆始まりの七日前

「……ってわけで、あの二人、どう見てもいい雰囲気なわけよ。あー、早くくっついちゃえばいいのにねぇ!」

 伯爵邸・図書室。鼻歌まじりに台車を押しているのは、一人の若いメイドだ。彼女は底抜けに明るく、そして絶望的に口が軽かった。……正確には、「隠密行動中も独り言が止まらない」という、忍びとして致命的な欠陥を抱えていた。


 だが、そんな彼女に与えられた任務は、あろうことか『最重要帳簿の複写』である。

「おっと、任務任務。えーっと、お宝はどこかなー……あ、これだ!」

 本棚の隅、重厚な革表紙の図書が目に留まる。

『領内年間収支予定表 ※絶対持ち出し禁止』

「うわ、出た。殺し文句の『持ち出し禁止』! これを内緒で写すなんて、悪いことしてるわぁ、私」

 彼女はワクワクしながら、そっとページを開いた。……が、次の瞬間、その笑顔が引きつった。

「ぺ、ページが……深いっ……! 何この数字の羅列、嫌がらせ? 脚注が、脚注の先に続いてるんだけど! ページめくってもめくっても終わらないよぉ!」

 彼女は涙目になりながら、ペンを握りしめた。任務は、この膨大なデータを今日中にすべて書き写すこと。

「ああ、もう! これじゃ恋の行方を追跡する時間がなくなっちゃうじゃない! 誰か助けてー!」

 悶絶する彼女の背後、棚の向こうから

「……がんばって……くださいね……」

 という、誰かの死にそうな声が聞こえた気がしたが、彼女は「幻聴よね!」と自分に言い聞かせて必死にペンを動かした。


 三つの出来事は、歴史に刻まれるような大事件ではなかった。

 ・慎重すぎる執事が、胃を痛めながら偽造した推薦状。

 ・無感情なメイドが、音もなく届けた指名依頼。

 ・お調子者のメイドが、泣きながら写した機密帳簿。

 すべては日常の延長であり、伯爵邸の住人たちでさえ、これが「大きな渦」の始まりだとは気づいていない。


 だが、バラバラに置かれた点は、目に見えない糸で結ばれ始めていた。すべては、近く行われる「とある一つの試験」のために。


 ――誰も知らないところで、歯車はもう回り始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る