第十一章:あなたのスカウト

(ディア視点)



屋敷の廊下を、わたくしは音もなく歩く。

深紅のカーペットも、額縁に収められた歴代の家長たちの肖像画も、今夜ばかりはどこか色あせて見える。

父が昔から愛した重厚な書斎、その扉の向こうで、わたくしの計画が完成へ向かおうとしていた。



机の上には最新の経営報告書。

そこに添えた分厚い資料には、わたくしがこの半年で立ち上げた新規事業『庶民の生活圏』に切り込む格安ECサイトや、リサイクルショップ、低価格カフェチェーンの売上と成長率が並ぶ。


全部、あの人から学んだもの。

彼が「大切だ」と言った物や、言葉、空気。

ひとつ残らず数字に変換し、徹底的に成功へ導いた。


その利益で、自社株を買い集める。

父の側近たち──伝統や格式ばかり重んじて時代に取り残された連中の、裏の顔も洗いざらい調査した。

弱みを握った時点で、すべてわたくしの色へと塗りつぶす。



手始めにと、わたくしはスマートフォンの通話ボタンを押した。

相手は、父が最も信頼していた常務取締役。


「ごきげんよう。例の件、ご決断はいただけましたかしら?」


声色は、彼と話すときとは全く違う、温度のない声。

電話の向こうで相手が何か言い淀む。わたくしは静かに続けた。


「……ご子息が留学先で起こした事故の件、わたくし、とても心配しておりますの。お父様の会社の経費で処理するには、少々額が大きすぎますものね」


「……承知、いたしました。お嬢様のご指示通りに」


一瞬の沈黙の後、絞り出すような声が聞こえた。わたくしは静かに通話を切る。

こうして、古い駒がまた一つ、わたくしの盤上に並んだ。



──全ては、あなたから学んだこと。価値のないものを切り捨て、本物だけを手に入れる。

そのための冷徹さも、あなたが教えてくださったもの。



~~~



「お嬢様、役員たちが揃いました」



「ええ、すぐ参りますわ」



執事の声に微笑んで立ち上がる。窓の外はもう夜。

鏡に映ったわたくしの顔は、少し前までの箱入り娘ではなく、冷たい革命家のものになっている。



会議室で一人一人に資料を手渡し、淡々と説明を進める。


「今後、我が一族は価値を金額だけで測るのをやめます」

「必要なのは時代に合わせて変化する柔軟性、そして庶民が何に心を寄せるかを見極める目」


誰もが最初は反発したけれど、数字の前では黙るしかない。

既存の事業よりも高収益を叩き出した庶民路線は、最早疑いようもない現実だった。


最後に、一番古い役員が尋ねる。「だが……この新しい価値観は、どこから?」


「わたくしが、ある人から学びましたの」


「彼は価値というものを、金額だけで測りません。思い出や誰かのためという見返りのない贈り物──その一つ一つに本物の意味を見出すのです」


それは、わたくしにとって人生初めての敗北であり、同時に、光だった。



~~~



──会議が終わると、父が無言で歩み寄ってきた。

怒りとも諦めともつかない、どこか老いの影を滲ませた顔。


「ディア、お前はもう子どもではないのだな」


「いいえ、お父様。わたくしはあなたの娘であり続けます。でも、これからはわたくしの王国を築きますわ」


その言葉に父は息を詰まらせた。

わたくしは静かに一礼し、部屋を後にする。


向かう先は、もちろんあの人のもと。



~~~



彼の家のドアをノックする指が、ほんの少し震えている。

けれど、扉が開いた瞬間──いつもと変わらない、温かい目がわたくしを迎えてくれる。


「どうした、ディア?こんな夜遅く」


「お話がありますの」


「……いいよ、入って」


部屋の中は質素だけれど、わたくしにはそこがどんな宮殿よりもまぶしく思えた。

ベッドの隅に腰掛け、彼の隣に座る。


「あなたに、お伝えしたいことがございます」


「うん」


深呼吸一つ。今夜だけは、令嬢でも革命家でもない、ただの女の子として言いたい。


「わたくしは、あなたからたくさんのことを学びました。価値とは何か、人を思う気持ちとは何か……全部、あなたが教えてくれた」


「ディア……」


「だから、これからのわたくしの世界に、あなたは絶対に必要ですの。──いえ、わたくしだけの王になってくださいませんこと?」


瞳の奥がじんわりと熱くなる。

でも、絶対に涙はこぼさない。プライドと執着、そのどちらもわたくしの武器だから。


彼はしばらく黙っていた。でも、ふっと優しく笑う。


「お前って、本当にわがままだな」


「そうですわ。全部、あなたのせいですもの」


わたくしは、あなたの色で、すべてを塗り替えてみせます。

もう、誰にも渡さない。どんな泥にまみれても、あなたの隣に立ち続ける。



──わたくしの革命も、恋も、すべてはあなたという原石から始まったのですわ。



そして静かに、夜が更けていく。

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