波濤の向こう側~吉備真備と阿倍仲麻呂

紗窓ともえ

序章 前の春宮大夫(とうぐうのたいぶ)の決意

「これはなんとしても、わし自身が大唐帝国に渡り、あいつを連れ戻さなければ」と自らに言い聞かせるように呟いたのは、齢五十六歳と当時としては年寄りの部類に入る吉備真備(きびのまきび)であった。


彼の肩書きは筑前守(ちくぜんのかみ=筑前国司の最高位)である。

奈良の都・平城京から筑前に赴いて、それほど日数が経ったわけではない。

左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)の懐刀として栄達を重ねてきた自分が、この年になって中央から遠ざけられたのは、その左大臣が皇后の諮問機関である紫微中台の長官・藤原仲麻呂に権力闘争で敗れた結果にほかならない。


そんな境遇にある自分の未来には、かつてのような栄誉や昇進は期待できそうにない。

ならば、唐から帰国するおりに別れ別れになってしまった「あいつ」を故国に連れ戻し、供に余生を平穏に過ごしたい。

あんなに良い奴を異国の地でその命を散らせてはいけない、とつくづく思うのだ。


「あいつ」と吉備真備が親しみを込めて呼びかけるのは、養老元年(717年)に遣唐使として一緒に異国の地へ渡った阿倍仲麻呂のことである。


17年に渡る唐での留学の後、天平7年(735年)に吉備真備と僧・玄昉(げんぼう)が郷里へ凱旋したのに対し、苦楽を供にした井真成(いのまなり)は唐の地で病に倒れ、親友である阿倍仲麻呂は唐王朝で官吏の地位を究めようと居残った。


「――いや」と吉備真備は自分の記憶を訂正する。

既に左補闕(さほけつ=侍従で皇帝の過失を補う役目)を勤めていた阿倍仲麻呂は皇帝の大のお気に入りで、「あいつは帰国を許されなかったのだ」と。


帰国した吉備真備と玄昉は、当時の朝廷の第一人者である橘諸兄に抜擢され、彼の施策を実行するために辣腕を揮うこととなった。

だが、玄昉は権力にすり寄り、自らの権勢を強めることにあからさまに固執しすぎた。

そのため反感を買うことも多くなり、遂にはその地位を失うことになる。

唐帝国の権力闘争の凄まじさを知っている吉備真備からすれば、どうしてあそこまで権力にこだわるのかと眉を顰めたくなることも多々あった。

いや、同じ遣唐使として留学した者同士である。

同じ釜の飯を食った仲間の誼として直に注意したことさえあったのだが、権力の亡者となった玄昉は聞く耳を持たなかった。


時代の移ろいは目まぐるしく、その渦中にあったはずの吉備真備でさえ信じられないほど権力の趨勢は瞬く間に変わっていく。

吉備真備と玄昉を引き立ててくれた橘諸兄でさえ、新しく権力の階段を昇り始めた藤原仲麻呂の勢いの前にはなす術がなかった。


玄昉は真っ先に紫微令から攻撃の矛先を向けられた。

天平17年に朝廷から下賜された封土を召し上げられた上で北九州は観世音寺の別当(長官)に左遷させられたのだ。


その時に落胆した玄昉の胸中が今の吉備真備になら分かる。

あの時は「自業自得だ、仕方のなかろう」と諦観したが、いざ自分の身に降りかかれば不条理としか感じない。


吉備真備の目は筑前国府から西の方向に漠と向けられた。

目には見えずとも、その方向に観世音寺がある。

だが、当の玄昉は既に観世音寺にはいない。

観世音寺の別当になった翌年、我が身の不幸を嘆きながら悄然と世を去ったからだ。


玄昉の寂寥たる心中の一端は分かるとはいえ、命を失うほど落胆するとは理解しがたい。

そこまで地位と名誉に汲々とすればこそかと、旧友の急逝を惜しむほかない。


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政務があるとはいっても半ば隠居したような心持ちで国守としての生活を送り始めていたところへ届いたのが、「新たな遣唐使派遣」の報せであった。

忘れかけていた熱い感情が吉備真備の胸中に呼び覚まされる。


「あいつは息災であろうか。我が国の未来を熱く語り合った、あの頃のままのあいつであろうか」


遣唐使船が到着したと聞いても、あいつは帰国の希望を口に出せないかもしれない。

前回は皇帝がお許しにならなかったし、歳月を経て更に皇帝からの信任が篤くなっているようなら、あいつでは自ら願い出ることもできないかもしれない。

そこが吉備真備の懸念であった。


儀王友(皇帝の息子の付き人)の地位にまで昇ったからには、皇帝家族とは公私に渡って交流があるだろうし、一家から前にも増して気に入られている可能性が高い。


国として、阿倍仲麻呂の帰国への要望を上奏し、皇帝に考慮してもらうほかないだろう。


だが、そんな役を引き受けるに相応しい遣唐大使が選ばれるだろうか。


考えがそこまで及ぶと、吉備真備は皺の深く刻まれた面相を空高く向ける。

その思念は西の空を超え、観世音寺よりも遙か遠くの長安の都にまで飛んでいく。


「わしが行くほかあるまい」

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