第4話 医者の息子
実際に、その時代には、
「ギャグマンガ」
というものが、
「熱血根性マンガ」
というものと、双璧をなしていたといってもいい時代だっただろう。
それだけ、
「親のなしえなかった夢を、息子が叶える」
というシチュエーションが、もてはやされた時期だったのかも知れない。
今の時代であれば、
「親の夢のために、子供が犠牲になる」
というのが、当たり前という考えだったのかも知れない。
確かに、
「親の夢を子供に託す」
というのは、時代錯誤である。
特に、
「幼児虐待」
などと言われている時代、子供を特訓という名目で、昔でいうところの、
「しごき」
というものは、許されることではない。
それこそ、
「犯罪」
ということになる。
特に今は、部活であっても、ちょっとしたことで、
「虐待」
といわれる時代である。
昔であれば、
「うさぎ跳び」
など、どこでも行っていない。
また、昔から言われていたことで、実際には、
「都市伝説にすぎない」
といわれるのが、
「運動中は、水を飲んではいけない」
と言われたことである。
今であれば、
「熱中症対策」
ということで、
「水分補給は当たり前」
といわれるが、昭和の頃までは、
「決して水を飲んではいけない」
と言われていた。
これは、別に、
「虐待」
であったり、
「いじめ」
というものではない。
実際に言われていたのは、
「水を飲むとバテる」
ということからであった。
実際に水を飲んでから、、急激な運動をすると、胃や腸に負担がかかり、吐き気が襲ったりすることになるというものだ。
それを、
「バテるから」
ということで言われると、胃腸への負担を考えたところで、
「無理もないこと」
として、納得させられていたというものである。
実際に、
「親に果たせなかった夢がある」
ということであっても、それは、
「親の強要」
というものであってはならない。
あくまでも、
「子供が、自分のやりたいこと」
ということえなければ、子供の権利を、
「親という立場で奪ってもいいものか?」
ということになる。
これは、
「スポーツ選手」
であったり、
「政治家」
に限らず、
「昔から受け継いだ稼業」
というものを、今まで守ってきたところからすれば、
「どこでも、いえる問題だ」
ということになるだろう。
「跡継ぎ不在」
ということで、まるで、徳川時代の、
「お家取り潰し」
のようではないか?
今は、
「親子であろうが、人権が優先する」
ということで、
「跡取りが絶える」
ということも当たり前で、
「廃業」
というのも、仕方のないことなのであろう。
だが、時代はさかのぼり。まだ、
「親の夢を受け継ぐ」
という、
「殊勝な息子」
というのもいたようだ。
結局、その子がどこまで行けたのか?
そこが問題であった。
ある日のこと、
「高校生が電車に飛び込んだ」
という事件が起きた。
当然、人身事故ということで、
「調べが終わるまで、列車は、上り線下り線ともに運転見合わせ」
ということになった。
最近では、
「このあたりの人身事故は珍しくない」
ということであったが、
「自殺をしたのが高校生」
ということで、マスゴミも注目だった。
実際に遺書がなかったことから、
「事故や殺人の可能性もある」
ということで、司法解剖に回され、それによって、
「争った跡がない」
ということであったり。
「防犯カメラの映像」
というものを確認しても、
「誰かに突き飛ばされた」
ということでもなく、
「結構電車から離れて立っていた」
ということからも、
「事故とは思えない」
ということと、
「映像を見るかぎり、一度戸惑った後で、飛び込んでいるように見える」
ということから、
「自殺なのだろう」
ということになった。
もちろん、司法解剖で、怪しいところが出てきたというわけでもなく、
「自殺」
ということで、その裏付けを取るということに捜査方針は決まったのだった。
問題は、
「自殺」
ということであれば、その理由ということである。
学校に確認してみると、
「苛めのようなものはなかった」
ということであるが、
「どこまで信用できるか分からない」
ということから、いろいろな面から捜査されることになったが、
「クラス内で、いじめの事実はない」
ということで、
「苛めを裏付ける」
というものはなかった。
それが一番の理由であるが、ただ、どうしても気になるところというと、
「家が代々医者の家族で、自分の家を継がなければいけない」
ということに対して、少しストレスを感じていた。
ということであった。
しかし、まわりの証言から、
「最近は、医者の家督を継ぐということに、いやな気持ちはなくなってきた」
といっていたということであった。
実際に、成績が上がってきていて、学校の先生からも、
「よく頑張っている、このままなら、第一志望の医学部も十分に射程内だ」
と言われていて、本人も、自慢げに、まわりに話をしていた。
というくらいである。
そもそも、自慢げに話ができる人間だからこそ、
「自殺するようなことはない」
と考えている人もいたが、それも一部の人のことで、
「自殺ではない」
ということになると、
「誰かに殺された」
という考えも出てくるが、彼を殺そうとするような人はいない。
恨みなどを受ける理由もないし、
「彼を殺して、いったい誰が何の得になるというのか?」
ということであった。
「最近は成績が上がった」
ということを素直に喜んでいた。
という話も聞ければ、人によっては、
「成績が上がったことで、どこか不安に感じている」
という人もいた。
どうやら、この高校生は、
「楽しいことを相談する相手」
というものと、
「不安なことを相談する相手」
ということで、明確に分けていたようだった。
それだけ、相手を信頼しているというよりも、
「自分の目が狂わないように」
ということで、
「相談相手を明確に分けていたのだ」
ということであった。
他の人で、そんなことをする人はいないように思えた。
実際には、子供の頃には、
「友だちが一人だった」
ということで、
「どんな相談をするにも、その人だけだ」
ということであった。
確かに、小学生の頃などは、友達がいなかった。4年生の頃までは、友達がいなくて、相談相手がいないということから、孤独だと思っていたが、途中から、
「いないならいないでせいせいする」
というような発想になってきた。
「開き直り」
といってもいいだろうが、
友達がいないということで、一人できると、
「完全に親友」
ということになった。
親友というと、
「他の人には話せないことを話すことができる仲」
ということで、
「友だちは、親友一人でいいのではないか?」
と思うようになった。
特に
「友だちがいなくて、いやというほど孤独を味わった」
ということであるから、余計に、親友の大切さというものを感じるのだろう。
「友達というのがどういうものなのか?」
というのを知らずに、
「親友ができた」
ということで、
「親友一人がいればいい」
と感じるようになった。
ただ、それが、
「小学生の頃に、友達がいなかった」
ということへの、
「自分の中の自分に対しての、妬みのようなものではないか?」
と感じるようになった。
中学生になり、今度は、
「男性と女性」
というものを感じるようになり、
「異性を意識する」
ということになると、
「中学時代において、思春期になり、世の中に、男女の存在を意識するようになった」
ということである。
「世の中には、男と女がいる」
などというのは、当たり前のことであり、
「医者の息子」
ということであろうがなかろうが、誰でも理解できることだといえるだろう。
むしろ、
「医者の息子」
という意識がない方が、余計に、
「異性を意識する」
というのは、ナンセンスなのかも知れないと感じる。
医者というものは、異性というものを感じてはいけない」
という意識を、ちょうど中学時代に感じていた。
だから、思春期に入った時、
「異性を意識してはいけない」
と感じた時、
「友だちがいない」
ということに、感じていた孤独というものが、
「今度は意識しなくていいものだ」
という感覚になってきた。
だから、友達ができたことで、
「その友達と自分を比較する」
ということが往々にして起こるかも知れない。
「友だちには彼女がいるのに、自分にはいない」
という意識が、
「自分も彼女がほしい」
という、
「思春期」
としての意識なのか、それとも、
「他の人にいるのに、自分にはいない」
という、
「プライド的な気持ちが強いのか?」
ということから考えるべきことなのだろう。
彼には、
「友だちがいなかった」
ということで、
「比較対象」
というものがなかった。
だから、
「思春期としての気持ち」
というものだけで、彼女の有無を考えるということから、
「彼女がいない」
ということは、友達がいないという感覚と同じではないか?
と考えると、
「彼女がいない」
ということを、そこまでひどいことだとは思わなかったのだ。
その理由として、
「自分が悪いわけではない」
という思いからである。
というのは、
「友だちとの比較から考えるものがない」
ということで、
「思春期という誰にでもあるものが原因だ」
と考えると、
「生理的なこと」
だということで、
「自分が悪いわけではない」
と思うようになると、
「友だちは、親友だけでいいんだ」
と思うのだった。
それでも、
「親友というのは、何でも話ができる相手」
ということを考えていたが、
「異性のことに関していえば、人に話をするのは、恥ずかしい」
と考えるようになった。
そうなると、逆に、
「親友だから話せない」
と考えるようになった。
それが、
「友だちは親友だけでいい」
という思いと、
「他の友達がいない方がいい」
という思いから、
「親友に対しても、話したくないことがある」
という発想から、
「親友というのもいらないのではないか?」
と考えたからであった。
この
「自殺した」
と思われる青年の中絵を、
「釘宮雄二」
という。
彼の父親は、
「釘宮聡」
といい、地域では、結構大きな個人病院だといってもいいだろう。
この病院は、かつての大型病院の進出ということでの、
「患者の減少」
であったり、
「バブル期の地上げ」
という危機を何とか乗り越えて、今の時代まで、何とかほそぼそとではあるが、経営ができていた。
それだけ、地元の人から、
「街のお医者さん」
と言われてきたことからだったといえるだろうが、さすがに
「後継者不在」
ということは、
「これ以上ない危機」
といってもいいだろう。
釘宮家というのは、父親の釘宮院長と、奥さんが経営していて、看護婦さんを2名雇って、
「街のお医者さん」
とやっていた。
息子は、雄二一人で、姉に一人いたのだが、大学を卒業して、すぐに結婚してしまったということであった。
姉の旦那というのも医者で、本来であれば、
「釘宮医院に婿養子」
ということもできたのだろうが、跡取りとして、
「雄二がいる」
ということで、そう簡単にはいかなかった。
実際に、娘婿というのは、
「跡取り」
というのを狙っていたというふしはある。
娘とは少し年の離れた結婚で、娘婿の年齢は、すでに、30歳を超えていた。
「十歳くらいの違い」
というのは、珍しくもないが、医者になったはいいか、親が病院を持っているわけではない。
ということで、
「このままでいけば、大学病院などで、一介の医者ということで、一生を終わる」
ということになるだろう。
実際に、
「それでもいい」
とは思っていたが、そもそも惚れてきたのは、
「釘宮の姉」
の方であった。
そもそも、ずっと、お嬢様で育ってきた釘宮の姉とすれば、
「ちょい悪親父」
というイメージがある彼に興味を持ったのだ。
彼とすれば、ちょっとした、
「火遊び」
というくらいだったかも知れないが、
「このままいけば、逆玉じゃないか」
ということで、言い寄ってきたのをいいことに、作戦を、
「逆玉に変えてきた」
ということであった。
そもそも、
「プレイボーイ」
ということで鳴らしたこの男は、
「お嬢様育ちの娘」
というものを手玉に取るくらいは簡単なことだった。
結局、手玉に取られた娘が、
「親を説得する」
ということになったのだ。
それだけ、
「娘婿は、どういう悪知恵に長けていた」
といってもいいだろう。
そんな家庭において、確かに、
「娘婿の男は、雄二が邪魔だった」
ということもいえるだろう。
しかし、それは、まだ結婚した当初くらいのことで、結婚してから、2年が経った頃になると、
「娘婿に、大学病院から、出世の話が湧いて出た」
ということであった。
今もままであれば、確かに、
「雄二が病院を継ぐことになり、娘婿には、何ら利点はない」
ということであったが、今回、
「出世の話」
というのが出てきたことで、話が変わってきた。
そもそも、
「論文が認められた」
ということでの、彼にとっては、
「自分の実力でつかんだ出世」
ということだ。
それをわざわざ、本来の息子である雄二と争ってまで、病院を継ぐということもないだろう。
しかも、これが、
「殺人ということになれば、利害に対してのリスクが大きすぎる」
ということになるだろう。
それを思えば、
「娘婿には、殺意はない」
といってもいい。
実際に、彼は、
「チンピラ的なところがある」
ということで、
「悪知恵が働く」
ということだ。
そんな人間に、わざわざ、リスクを犯してまで、、殺人を犯す必要があるというのだろうか?
そもそも、
「雄二に対しての殺意がある人はあまり考えられない」
ということで、最初から、この娘婿は、蚊帳の外だったことだろう。
そうなると、浮かんできたのは、
「親友」
と呼ばれる友達だった。
彼とは、
「中学時代から、ずっと親友」
ということであり、高校生になって、雄二にも、
「普通の友達」
というのはできたが、それは、ただの、
「あいさつ程度の友達」
ということであった。
だから、
「大学生になった時、一度、友達が爆発的に増えたことがあったが、それは、こっちが望まずとも、勝手に友達になるというもので、
「高校生の間でも、同じことがあった」
というのだった。
本人は自覚はなかったのだが、
「医者の息子」
ということで、なぜか、まわりに人が寄ってきた。
一種の、
「腰ぎんちゃく」
というようなものであるが、その存在が、雄二には信じられないというもおであった。
というのは、
「自分が医者の息子」
ということで、放っておいても、まわりからちやほやされるという意識はあった。
いわゆる、
「親の七光り」
というものであった。
なるほど、
「親の七光り」
というものであれば、腰ぎんちゃくのようにしていれば、いくらでも、
「うまみというものを味わうことができる」
というものだ。
実際に、七光りというものを利用するということが、どれほど嫌なものかというのは、七光りを浴びたことがある人間でないと分からないことだろう。
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