第38話 圧倒的な戦力差、指一本で勇者を弾き飛ばす

 黒騎士オニキスの一撃により、勇者ファルコンは黒曜石の壁に深々とめり込んだ。

 普通なら即死だ。

 Sランクドラゴンの膂力による裏拳。人間の肉体など、紙細工のように砕け散るはずだった。


「……ガ、ァ……あ、ぐぅ……」


 だが、ファルコンは生きていた。

 いや、生かされていたと言うべきか。

 砕けた『アビス・メイル』の残骸から、どす黒い血管のような茨が伸び、ファルコンの皮膚に食い込んでいる。

 装備の呪い――『生命維持(ライフ・サポート)』。

 着用者が死に瀕した際、その魂を燃料として強制的に肉体を稼働させる、最悪の機能が発動していた。


「ま、だ……俺は、まだ……」


 ズズズッ、と音を立てて、ファルコンが壁から抜け出す。

 左腕はあらぬ方向に曲がり、肋骨は粉砕されているはずなのに、彼は糸の切れた操り人形のような不自然な動きで立ち上がった。


「しつこい虫だ」


 オニキスが不快そうに眉をひそめ、トドメを刺そうと剣に手をかける。


「待て、オニキス」


 玉座に座るレンが、静かに声をかけた。


「手出しは無用だ。……彼が求めているのは、僕との決着らしいからね」


 レンは階段を降り、よろめくファルコンの正面に立った。

 かつて背中を追いかけていた幼馴染。

 今は、天と地ほどの実力差が開いている。


「レンンンンッ!!」


 ファルコンが吠えた。

 口から血泡を飛ばし、白目を剥きながら。

 理性はもうない。あるのは「目の前の敵を排除し、最強の座を取り戻す」という、壊れたレコードのような強迫観念だけだ。


「俺は勇者だ! 主人公だ! お前なんかに負けてたまるかよぉぉぉッ!」


 ファルコンが地面を蹴る。

 アビス装備の限界稼働により、その速度は音速に迫る。

 残った右腕に全魔力を収束させ、レンの顔面を殴り抜こうとする。

 それは、勇者ファルコンの人生で放ったどの一撃よりも速く、重く、殺意に満ちていた。


「死ねェッ!!」


 拳がレンの鼻先に迫る。

 ヴィエラとリナが、思わず目を覆った。


 だが。


「……遅い」


 レンはため息交じりに呟くと、ポケットから右手を出した。

 そして、人差し指一本を立て、迫りくるファルコンの額に向けて、軽く弾いた。

 デコピン。

 ただ、それだけの動作。


 パチンッ。


 乾いた音が響いた瞬間。


 ドォォォォォォォォォンッ!!


 空間が歪んだ。

 レンの指先から放たれたのは、圧縮された純粋な魔力の衝撃波だった。

 それはファルコンの突進エネルギーを真正面から粉砕し、彼の体を砲弾のように弾き飛ばした。


「が、はァッ!?!?」


 ファルコンの視界が反転する。

 何が起きたのか分からない。

 気づけば、彼は広間の反対側、数百メートル後方の壁まで吹き飛ばされていた。

 壁に激突し、さらにその奥の岩盤まで貫通して、ようやく止まる。


「ご、ぼ……っ」


 ファルコンは瓦礫の中に埋もれ、痙攣した。

 今度こそ、アビス・メイルも粉々に砕け散り、再生不能なまでに破壊されていた。


「な、何が……」


 ヴィエラが震える声で漏らす。

 彼女の動体視力では、レンが指を動かしたことさえ見えなかった。

 ただ、ファルコンが勝手に吹き飛んだようにしか見えなかったのだ。


「これが『ステータス』の差だよ」


 レンはハンカチで指先を拭いながら、瓦礫の山を見下ろした。


「この世界の人間には『レベル』の概念がない。だから君たちは、才能や装備の性能が全てだと思い込んでいる。……でも、僕は違う」


 レンが空中に指を走らせると、巨大なステータスウィンドウが表示された。

 そこには、常識外れの数字が並んでいた。


【名前】レン

【職業】ダンジョンマスター

【レベル】1500(限界突破)

【HP】999999

【MP】測定不能

【攻撃力】99999(+補正)


「レベル……1500……?」


 ヴィエラが絶句する。

 一般の冒険者が、一生かけて鍛錬してもレベル50相当が限界と言われる世界だ。

 勇者であるファルコンでさえ、推定レベルは70前後だったはずだ。

 それが、1500。

 桁が違うどころの話ではない。


「僕は、このダンジョンの魔物を喰らい、成長し続けた。君たちが街で『今日は疲れたから休もう』と酒を飲んでいる間も、僕は一睡もせずに殺し合い、喰らい続けていたんだ」


 レンの言葉には、重みがあった。

 奈落の底。

 誰も助けてくれない孤独な地獄。

 そこで生き残るために、彼は人間であることを捨て、修羅となったのだ。


「努力もせず、覚悟も持たず、ただ与えられた『勇者』という称号に胡座をかいていた君たちに、僕が負ける道理はないんだよ」


 レンが指を鳴らすと、重力魔法でファルコンの体が瓦礫の中から引きずり出され、リナたちの目の前に転がされた。

 全身骨折。鎧は消滅。

 もはやピクリとも動かない。

 だが、その目はうっすらと開いており、絶望と恐怖の色を宿してレンを見上げていた。


「あ……う……」


 声にならない呻き。

 勇者の心は、完全にへし折られていた。

 指一本。

 たったそれだけで、自分の全てを否定されたのだ。


「さて」


 レンはファルコンから興味を失ったように視線を外し、残りの二人に目を向けた。

 リナとヴィエラ。

 彼女たちは、蛇に睨まれた蛙のように縮こまっている。


「ファルコンは終わった。……次は君たちの番だ」


 レンがゆっくりと近づいてくる。

 その足音が、死刑執行人の足音のように響く。


「い、嫌っ……来ないで!」


 リナが半狂乱になって叫んだ。

 彼女は後ずさりしながら、何か武器になるものはないかと手を探らせる。

 だが、指に触れたのは、空になったポーションの瓶だけだった。


「レン、待って! 話し合いましょう! 私たちは、ファルコンに脅されてただけなの!」


 ヴィエラが必死に命乞いをする。

 賢者と呼ばれた彼女の知性も、圧倒的な暴力の前では何の意味もなさなかった。

 今はただ、なりふり構わず保身に走る醜い姿があるだけだ。


「脅されてた? へぇ」


 レンは冷笑を浮かべ、ヴィエラの目の前でしゃがみ込んだ。


「じゃあ、僕を追放する時に『あいつの魔力臭が鼻につく』と言って笑っていたのは誰だったかな? 僕が作った料理を『貧乏くさい味がする』と捨てたのは?」


「そ、それは……!」


「全部覚えているよ。君たちが僕に向けた言葉、視線、態度。その一つ一つが、僕の燃料になったんだ」


 レンの手が伸びる。

 ヴィエラは悲鳴を上げて目を瞑った。

 殺される。

 そう思った瞬間、レンの手は彼女の壊れかけた杖を掴み、軽く握りつぶした。


 バキンッ。


 杖が砕け散る。


「あ……私の、杖……」


「魔法使いが杖を失えば、ただの人だね。……いや、今の君はそれ以下か。魔力回路がボロボロだものね」


 レンは立ち上がり、今度はリナの方を向いた。

 リナは震えながら、レンを見上げている。

 その目には、恐怖と共に、微かな期待の色があった。

 かつてレンが自分に好意を寄せていたことを知っているからだ。

 「幼馴染」というカードを切れば、まだ助かるかもしれない。


「レン……。ねぇ、レン……」


 リナは傷だらけの顔で、精一杯の媚びを含んだ微笑みを作ろうとした。

 涙を浮かべ、上目遣いで。


「私よ、リナよ。あなたの幼馴染の……。昔、結婚の約束、したじゃない?」


 禁断の一手。

 過去の淡い思い出を利用して、情に訴える作戦。


 だが、それがレンの逆鱗に触れることになるとは、彼女は気づいていなかった。

 レンの瞳から感情が消え、絶対零度の冷徹さが宿る。


「結婚の約束……か」


 レンの声が低く、重く響いた。

 その場の空気が凍りつき、リナの作り笑いが引きつった。

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