サンライズで会いましょう
チャプタ
第1章 生存本能とひまわり畑
――終わった。
私の社会人生命は、あと三十秒後の発車ベルとともに幕を閉じる。
「ドアが閉まります。ご注意ください」
駅員の声が、まるで死刑宣告のようにホームへ響いた。
横殴りの雨がスーツを容赦なく叩く。抱えたアタッシュケースだけが、かろうじて私を社会に繋ぎ止めていた。この中には、地方工場の三十人とその家族の明日が入っている。
震える手でチケットを見つめる。
寝台特急サンライズ。その個室番号の下には、私を嘲笑うように印字された『女性専用プラン』の文字。
旅行代理店のキャンセル枠を、焦ってクリックしたのが運の尽きだった。
「クソッ……」
乗れない。検札で弾かれる。
男が女性専用枠に潜り込めるわけがない。
だが、この列車を逃せば、明日の朝イチの契約に絶対間に合わない。
工場長の「頼む、お前だけが頼みの綱だ」の言葉が脳裏をかすめる。
ごめんなさい、工場長。
性別の壁ひとつ越えられず、私はここで終わるようです。
――その時だった。
視界の端に、鬼の形相で立ち尽くす女性が映った。
ずぶ濡れのスーツ、泥の跳ねたハイヒール。
彼女は手元のチケットを睨みつけ、口元を押さえている。今にも吐きそうな顔だ。
そのチケットには『喫煙』のマーク。
タバコが大の苦手なのだろう。
絶望の方向性こそ違えど、深さは同じ。
――パチン。
何かが噛み合う音が、確かにした。
彼女の視線が私の『女性専用』に降り、目が大きく見開かれる。
言葉は要らなかった。
私は走った。彼女もヒールを鳴らして走った。
求愛ではなく、生存本能に突き動かされた取引。
「交換ッ!」
すれ違いざま、互いのチケットを雑に奪い合う。
「私はタバコが無理なんです!」
「こちらは男だからレディース席が無理なんです!」
利害が、奇跡みたいに一致した。
湿った紙の感触だけを頼りに駆け出す。
笛の音。閉まりかけるドア。
「乗ります!!」
ほぼ同時に叫び、身体を隙間へねじ込んだ。
ドスン、と倒れ込み、すぐ後にゴウンとドアが閉まる。
プシューという排気音。列車が動き出した。
「……はぁ……はぁ……」
「……いった……」
慌てて身体を離す。彼女は濡れた前髪をかき上げて座り込んだ。
疲れ切っているはずなのに、瞳だけが妙に鋭い。
「……助かりました」
彼女は、私が持っていた『女性専用』のチケットを宝物のように握りしめていた。
「本当に……あんなタバコ臭い部屋で一晩とか、死んでました」
「こちらもです。危うくホームで立ち尽くすところでした」
雨と泥でぐしゃぐしゃの姿を見て、ふっと笑みが漏れた。
乾いた、けれど救いのある笑いだった。
「……とんでもない共犯者ですね、あなた」
「そっちこそ」
私の手には『喫煙個室』のチケット。
こうして、一番長くて、一番奇妙な夜が始まった。
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