世界を統べる大魔王様は婚活中!

はるはるぽてと

第1話 プロローグ

魔王城の最奥――

巨大な黒曜石で組まれた玉座の間には、

静寂だけが支配していた。


天井から吊るされた魔晶灯の淡い紫光がゆらめき、

厚く垂れ下がる漆黒の幕が風もないのにわずかに揺れる。

魔界最高峰の宮殿であるはずなのに、

その場にはただひとつの呼吸音しかなかった。


四天王筆頭のダークエルフは、

跪いたまま、

魔王が口を開くのを待っている。


その横顔は静謐そのもの。

氷の彫像のように整いすぎて、

感情の色は一片も映らない。


――外面は、そう、完璧だった。


内側では違う。


(どうして……急に呼び出し……?

 まさかまた私の影の制御が……少し乱れたのを……?

 いえ、見られてはいないはず……

 落ち着け……呼吸を整えろ……)


胸の奥で暴れる心臓だけが、

彼女が“普通の少女”である証を主張していた。


魔王が立ち上がった。


その動作だけで、空気が変わる。

黒いマントの裾が床を滑るたび、

紫光が反射してかすかに煌めく。


(……今日は、いつもより……魔力量が安定している……

 静かな波……落ち着いた気配……

 なのに……どうして、こんなに……心臓が痛い……)


魔王はゆっくりと歩み寄り、

跪く彼女のすぐ目の前に立つ。


顔を上げると、

そこには、世界を統べる覇王の瞳があった。


深い深い闇色の瞳。

覗き込めば吸い込まれそうな、

けれど不思議なほど温かい光を宿した眼差し。


魔王が口を開いた。


「……お前に命じることがある」


その声が低く響いた瞬間、

玉座の間の空気がわずかに震えた。


ダークエルフは静かに頭を垂れる。


「……御意。いかなる命でも」


(大丈夫……私は冷静……冷静……

 この程度で動揺するはずが……)


魔王は一歩、近づいた。


その距離の近さに、心臓が跳ねる。


そして――

何の前触れもなく、

彼は告げた。


「――私の伴侶になれ」


思考が、止まった。


完全に。


「……………………は……?」


外面はかろうじて声になったが、

内側では嵐が吹き荒れていた。


(えっ、えっ、なに!?

 いま、なんて言った!?

 伴侶!?

 伴侶って結婚の!?

 え!?え!?

 心の準備とかじゃなくて、呼吸の準備もできてないんだけど!?

 いや、落ち着け私……落ち着け……でも無理……無理……!!)


魔王は真剣だった。

冗談や策略の影は一切ない。


この世でもっとも重い男が、

もっとも真っ直ぐな言葉で、

ただ一人の四天王に求婚している。


彼女は――

死にかけの小動物みたいな心境で、

口を開いた。


「……お、お断り……し、します……」


空気が凍りついた。


魔王が瞬きすらしない。


(待って待って待って!!

 なんで断ったの私!?

 なんで“はい”の反対言ったの!?

 違う違う違う!!

 脳が!!脳がパニックを起こした!!

 取り消したい……取り消したい……!!)


だが、もう遅い。


魔王は静かに息を吐き、

ほんのわずかだけ視線を伏せた。


失望ではなかった。

怒りでもない。


ただ――受け止めた表情だった。


そして顔を上げ、


「……分かった。では、婚活を始めよう」


「…………は?」


聞き間違いではない。


魔王の声音は本気だ。


「お前が嫌ならば、他の者を探すまでだ。

 ノクティア、お前に任せる。

 私にふさわしい伴侶を選定しておけ」


(死んだ……)


彼女の内心は、本当に死んだ。


外面は無表情のまま。


「……御意」


本当は叫びたい。


(嫌!!!!

 そんなの耐えられない!!!!

 なんでよりによって私が婚活担当なの!?

 心臓止まる!!……いや、もう止まった!?)


魔王は深く頷き、

玉座へ戻っていく。


「世界を治めるには、伴侶が必要だ。

 迷惑をかけるが……頼んだぞ」


その背中を見つめながら、

彼女は胸の奥を押さえた。


外面に出せない、激しい痛みがあった。


(……どうして……

 こんなに……苦しいの……?)


玉座の間に静寂が戻る。


ただ一人、

彼女の心臓だけが、

まだ暴れ続けていた。


――こうして、

世界最強の魔王による“婚活”は幕を開ける。


四天王の誰も、

この後に訪れる混沌と激情と恋の戦争を

まだ知らない。


黒き夜の民ノクティアもまた――

自分がこれほどまでに魔王を愛していたとは、

この瞬間、気づいていなかった。

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