孤界の迷宮~消えた街の彼方~

パパえもん

第1話 目眩の朝~街が消えた日

上村陽翔(かみむら はると)は、目覚ましが鳴る寸前に目を覚ました。カーテン越しに射し込む柔らかな光。


夏休みが明け、一週間ぶりに平常通りの授業が始まったばかりの朝だった。


机の上には昨夜仕上げた数学の宿題が乱雑に広がり、飲みかけのペットボトルが転がっている。いつも通りの、どこまでも平凡な高校生の部屋。だが、その朝だけは胸の奥に微かなざわつきを覚えていた。


「……変な夢、見たような……」


夢の内容は思い出せない。けれど、誰かが呼ぶ声だけははっきりと耳に残っていた。遠く、深く、水の底で響くような声。


陽翔は頭を振ってその感覚を振り払うと、制服に袖を通し、軽く朝食を口にして家を出た。


通学路はいつもと変わらないはずだった。工事中の歩道、パン屋から漂う甘い匂い、早朝の自転車のベルの音。だが、その音が今日は妙に遠く聞こえた。


世界がどこか薄い膜に覆われたような、そんな感覚。信号待ちのたびに胸がざわつき、足取りが重くなる。それでも学校に近づくにつれ、ようやく気分が落ち着いてきた。


校門をくぐった瞬間、ふわりと風が吹いた。


「よっ、陽翔」

軽快な声が背後から飛んでくる。


振り返ると、幼馴染の佐伯澪(さえき みお)が手を振って走り寄ってきた。肩までの黒髪が風に揺れ、瞳は相変わらず明るい。昔から陽翔の心を自然に軽くしてくれる存在だった。


「なんだか朝からぼんやりしてるけど何かあった?」


陽翔は小さく笑って首を振る。


「いやぁ、ただちょっと眠いだけだよ」


「ふーん? まあ、無理しないでよ」


二人で並んで教室へと向かう。廊下には賑やかな声が響き、生徒たちが新しい話題に夢中になっている。


すべてが“普通の朝”に見えた。


だが、陽翔の胸のざわつきは消えなかった。



教室に入ると、友人たちが挨拶をしてきた。席につき、鞄から教科書を出し、時計を見る。あと五分で1時間目が始まる――


その瞬間だ


視界が、ぐにゃりと歪んだ。


教室の風景が水面のように揺れ、ノイズが混じったように色がにじむ。


「え……?」


椅子の背もたれを掴むが、指先の感覚が急に遠くなる。頭の奥で誰かの声がする。あの夢の続きを思わせるように。


そして、激しい目眩。耳鳴りが全身を揺らし、世界が真っ白に弾け――崩れ落ちてゆく瞬間、澪の叫び声を確かに聞いた。


「陽翔!!」





次に目を開いたとき、陽翔は地面に倒れていた。


アスファルトの冷たさが頬に触れ、風が静かに吹き抜ける。ゆっくり身体を起こすと、目の前には見慣れた街並みが広がっていた……はずだった。


だが、あまりに静かすぎる。車のエンジン音も、人の話し声も、商店街のBGMも――何も聞こえない。


「あれ?さっきまで教室にいたはず……ていうか誰も、いない?」


駅前の広場へ足を進める。通勤客で溢れるはずの時間帯なのに、人影のひとつもない。店のシャッターは半開きのまま固まり、信号のカウント表示は『88』で停止している。


世界の“時”がどこかで狂っている。


スマートフォンを取り出す。画面には見たことのない表示。


“圏外──接続不可(サーバーが存在しません)”  


何度更新しても同じ。陽翔は息を呑んだ。


「夢じゃ……ない、よな……」


そのときだった。


「陽翔!」


振り返ると澪が息を切らしながら駆け寄ってきた。目に涙を浮かべ、必死に陽翔の腕を掴む。


「気がついたら何故か街中にいるし、どこ探しても……誰もいなかった……陽翔も消えたかと思って……!」


「澪……落ち着いて。とにかく状況を――」


説明を試みるが、言葉が詰まる。どう説明すればいい?街中の人間が忽然と消えた?世界そのものが切り離された?常識ではありえない……


二人は周囲を確認しながら歩き始めた。


コンビニの自動ドアは開く気配すらなく、店内の照明はついているのに動くものは何もない。


隣街に行ってみようとしたが……見えない壁があるのか、数センチ手前で進めなくなる。触れても感触はない。ただ、進めない。


傍から見たらパントマイムでもしてるのかと思うくらい変な格好になってたと思う。


「……これ、閉じ込められてる……のか?」


「誰に……?」


「分からない。でも、僕らはここから出られない……そんな感じがする」


澪は唇を噛みしめる。


「一体どうしてこんなことに……」


その時、遠くから甲高い悲鳴が聞こえた。


「きゃあああああ!」


二人は顔を見合わせ、ほぼ同時に走り出した。


住宅街に入る。


悲鳴の方向へと急ぎ、角を曲がった――


そこには“何もない”。だが、地面には“血の跡”だけがあった。


生々しく、乾きかけた暗赤色の跡が道の奥へと続いている。陽翔の背筋が冷たくなった。


「……誰かが襲われたのか?」


「陽翔……これ、ただのドッキリとかじゃないよね……」


澪の声が震えている。陽翔は唾を飲み込み、血痕の先を見つめた。


何の気配もない。風が吹き抜けるだけだ。


しかし、陽翔の胸には明確な確信があった。


――この街で、何かが起きている。

――そしてその“何か”は、人間ではない。


路地の壁にふと目を向けると、赤いスプレーで文字が書かれていた。


《観察は始まった》


陽翔と澪は言葉を失った。


見間違いではない。誰かが書いたでは済まない、不気味な意志を感じる筆跡。


「観察……?誰が?」


「僕たちを……?」


「なんで……?」


問いは尽きないが、答えは一つもない。


ただ、背後から静かに視線を感じる。誰もいないはずの街で、誰かが見ている――そんな確信だけが胸を締めつけた。


陽翔は澪の手を握った。


「澪。絶対に離れるな。この状況は……危険だ」


澪は強く頷き、二人は血の跡の奥へと進む。


振り返れば、日常はもうどこにもない。


ここから先に待つのは、失踪、惨劇、謎……そして“孤界”の真実。


二人だけの小さな足音が、広い街に虚しく響く。


こうして、平凡な高校生だった陽翔の、恐怖と謎に満ちた長い旅が幕を開けた。

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